第十話 いざない

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    怪我が完治したマリアは、もうその日の夕方にはテントの外へ出られるようになっていた。  体力は落ちてしまっていたが、ゆっくり下山するぶんには問題なさそうなので、念のため一日置いた翌々日に里を出ようということになった。  マリアが目覚めたその日の夜。  ミサキに支えられて散歩に出ていたマリアは、すぐに里の住民の輪に入っていった。  クリンとの約束どおり、里の人々はマリアに犯した(むご)い仕打ちを真摯に謝罪をしてくれた。  それを受けたマリアがただにっこりと微笑んで「帰りは笑って見送ってください」とだけ言ったのを、三人はなんとも言えない表情で見守るのだった。  彼女はこんな時でも聖女としての役割を全うすることを忘れなかった。   「わぁ、この前の空よりずっと綺麗だね。すごぉーい……」 「上ばっか見て、また落っこちんなよ」 「わかってるわよ、うるさいなぁ。あー綺麗」  あまたに(きらめ)く星空を仰いで、マリアは感嘆の声をあげた。  寝静まった里の夜。  セナとマリアはまた大きな樹に登って、第二回星空観賞会を開催していた。  クリンとミサキが寝入ったのを確かめてから、「どうせ長々と眠ってたんだから寝れないだろ?」と、気まぐれを(よそお)ってセナが誘ったのだ。  星を楽しそうに眺めるマリアの黒い瞳は、空に浮かぶそれのようにキラキラと輝いていた。    セナには言わなければいけない言葉があった。  彼女の騎士に志願する、その言葉だ。  しかし一度断ってしまった手前、今さらやりますなんて言うのは気まずい。  さて、どうしたものか。  考え込んでは、星空を眺めることに逃げる。そんなセナの心境を知る由もなく、マリアはただただうっとりと夜空のまばゆさを堪能するだけ。 「さすが山奥だね。こんなに綺麗な星、見たことないわ」 「そうかぁ? 地元の展望台で見るほうが綺麗だったけどな」 「故郷のフェリオス村だっけ。そうなんだ……行ってみたかったな」  ちらりとマリアの横顔を盗み見る。「行ってみたいな」と言わないところに、強い使命感を知る。 「それにしても不思議だね。この里で、こんなふうに穏やかな気持ちで星を見ることができるなんて」 「あー」 「色々あったよねぇ。セナは怪我は大丈夫なの?」 「明後日の下山には問題ねえよ」 「そっかぁ。なんか、あたしのほうが先に治っちゃってごめんね〜」 「……」  デコピンでもしてやろうかと思った。  が、できなかった。ミサキの言葉がちょいちょい脳裏をかすめるから。 「でも、ここまで来たのに手がかりがなかったのは残念だったね。里の人たちもすごく動きが素早いけど、セナの比ではなかったもんねぇ」  手がかりが掴めなかったことは、マリアとミサキにも説明済みである。  無駄足だったあげく危険にさらしてしまい、二人には本当に申し訳ないことをした、と、クリンが必死に頭を下げていて、ミサキとマリアがぶんぶん首を振っていた。 「あんたたち、ラタン共和国に戻ってコリンナさんの検査結果を聞くんでしょう? あたしたちもそこまで一緒に行くね。そこから東海岸に向かったほうが道も良いし」 「ふーん」 「そこでバイバイかぁ。長い付き合いだったね」 「……」  きた。  今だ。このタイミングでしか、もう言えない。  セナは(つば)を飲み、覚悟を決めた。  が、セナが口を開くよりも先に、マリアが動いてしまった。 「あのね、セナ。聞いてほしいことがある」  せっかく決心したのにと、目を合わせれば、マリアの顔つきは真剣そのものといった表情を浮かべていた。  その真っ直ぐな眼差しに射抜かれて、セナは「俺も行く」という前置きの言葉を飲み込んでしまった。 「クリンから聞いたよ。川で溺れたあたしのこと、泳いで助けに来てくれたって」 「え」  やばい、と思った。そういえばクリンに‘あのこと’を口止めするのを忘れていた。  死刑宣告だろうか? 「それ以外は? ……なんか聞いた?」 「え? ううん、別に。『そのあとクリンが蘇生させてくれたんでしょ』ってお礼を言っただけ」 「あー」  なすりつけたことを、兄にバレてしまったようだ。 「クリン、なんか言ってた?」 「別になにも。あ、そういえばなんか、変な顔してたかも……?」  と考え込んで、何かに思い至ったのか、マリアは自身の唇に指先を当てた。  その顔がみるみるうちに赤く変化していく。 「そ、そっか。蘇生法って、そういうことだよね……」 「……」  一方のセナは冷や汗が止まらず真っ青になっていくのだが、マリアは気づかない。  兄よ、本当にすまない。  心の中で土下座して、兄にはそのまま罪をかぶってもらうことにした。   「クリンも初めてだったのかな。どうしよ、気まず……」 「ノーカンだから。普通に人命救助だし、感染症予防のためにハンカチしたから直接ふれてねえし」 「あ、そうなの?」 「だいたいこんなことで意識するほうがバカだろ、ガキじゃねーんだから」 「……。だよね! クリンなら、あたしにとってもお兄ちゃんみたいなものだし、どっちだっていいや〜」 「そーそー、クリンのためにこの話題は二度としないように」 「はーい」  気の無い返事をしつつ、この気まずい話が終着点を終えたことに、セナはホッと胸を撫で下ろした。 「というわけで、二人には本当にお世話になったよね。助けてくれて、どうもありがとう! 改めてちゃんとお礼が言いたかったんだ」 「あー」 「でね!」 「え、まだあんの?」  どんどん例の話ができる雰囲気が遠ざかってしまい、少しあせり始める。  だが、次の言葉は意外中の意外だった。 「やっぱり、あたしと一緒に巡礼に来てほしいの」 「は?」 「セナ、あたしの騎士になって!」 「……」  こちらの意向を先読みしたかのような不意打ちに、セナは返事をする余裕もなくフリーズしてしまった。   「あの氾濫した川で、小さな子どもを命がけで助けてあげたでしょう? あの状態で迷わず人を助けに行ける人なんてなかなかいないと思う。もうね、あの時に思ったの。あたしは誰かに騎士になってもらいたいんじゃなくて、セナがいいって。だからお願い、巡礼が終わるまであたしの騎士でいて!」  まっすぐ射抜く視線に、一度目に誘われた時以上の熱を感じ取る。  セナはその瞳を捉えながら、その熱がじわりと自分の心臓を温めるのを感じていた。 「……は」  気づけば力のない笑みが漏れる。 「同じ言葉なのに、こうも違うもんかね」 「え?」 「いや」  司教から投げかけられた言葉は同じ意味であったのに、あの時のあれはこんなグッとくるような感情は呼び起こされなかった。  答えはひとつしかなかった。本来ならば自分から言わなければいけなかった言葉だったので、先回りされ、悔しさと情けなさもあるのだが。  次の返事には、多少の痛みを伴った。 「しょうがねーなー」 「!」 「いいよ。騎士になってやる」 「……っ。本当に?」 「ま、それはそれで退屈しなさそうだしなー」 「嬉しい。ありがとう! ありがとう、セナ! よろしくね」  マリアは今まで見た中で一番明るい笑顔を浮かべた。  セナは目を伏せて、その笑顔を封じ込める。  彼女の鎖骨に氷の傷跡はない。だが、自分はあの時の傷を鮮明に覚えている。  溢れ出る血液、激痛に悶える彼女の姿や悲鳴。  できることなら、あれを知る前にこの笑顔を見たかった。  なぜならもうどんな心を置いたとしても、用意した返事はあの女への‘服従’でしかない。  目の前の純粋な笑顔を、何も抱えることなく真正面から受け止めていられたら、どれだけ良かっただろう。
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