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船は大幅に時間を遅らせながらも、無事、王都付近の港に到着することができた。固い地面を踏み締めた時、クリンは一気に緊張がやわらいだのを感じた。
空にはもう月が昇っている。小さな島とはうってかわって、ここは夜だというのに賑やかだ。ガス灯の明かりの下では露店が建ち並び、行き交う人に向かって威勢のいい呼び掛けが飛ぶ。
「すごいな……。王都はここよりもっと大きいんだろ」
颯爽と人が流れていくのを見守りながら、クリンは地図を開いた。王都へは馬車が出ているはずだが、この時間ならもう宿をとったほうがいいだろう。
「クリンさんたちも王都へ向かうんですか? それなら王都までご一緒しませんか?」
隣で地図を覗き込むミサキの申し出に、クリンはありがたく応じることにした。
あの事件のあと、船では怪我人の手当てや破損箇所の修繕で慌ただしく、ろくに四人で会話をすることができなかった。せっかくなので、マリアたちの旅の話もゆっくり聞きたかったところである。
「いいね。それじゃあ宿をとろう」
「俺、ハラ減ったー」
「宿が埋まっちゃうかもしれないし、先にチェックインだよ」
弟がまた舌打ちしているのをスルーして、クリンが宿を探そうと一歩歩き出した時、「あっ」とマリアが声をあげた。
「ダメだわ、あたしたちお金ないもん」
「あ……」
ミサキもハッと顔を青ざめてしまった。
そういえば彼女たちは、なくしたチケットを買うお金もないほど困っていたのだ。
「お前たち、そんなんでよく旅ができるよな。今までどうやってたんだよ」
「それは、ペンダントのおかげで……」
「ペンダント?」
セナの素朴な疑問に、マリアが言葉を濁らせながら胸元で手を握った。しかしながらその胸元にはアクセサリーと見られるものは存在していない。
俯くマリアの代わりに、「はい」と返事をしたのはミサキである。
「プレミネンス教会から巡礼に出た聖女は、みな、聖女の証であるペンダントを身につけるんです。それがあれば、宿も食堂も馬車の手配もすべて代価を支払うことなく利用できます。もちろん聖女だけではなく同行する護衛騎士や侍女も恩恵を受けられます」
「すげえな、特別待遇ってことか。どの国でもそうなのか?」
「ええ。中にはジパール帝国のように協力に応じないところもありますが……。世界を守るための命を懸けた旅なので、基本的にはどの国でも聖女を歓迎してくれます。ペンダントさえ見せれば、王宮のパーティに参加することもできるんですよ。だからたいした路銀を持ち合わせていなくて……。まさか、こんなことになるとは」
そこまで言い終えて、今度はミサキがうつむいてしまった。
そのペンダントがあるのなら、宿に泊まることができるはずではないか。そんな当たり前の質問を口にしなかったのは、既出のとおりマリアの胸元にそのペンダントが存在しないからだ。
「もしかして、盗まれたの?」
「!」
クリンの質問に、ミサキとマリアは同時に驚き、「どうして」と逆に聞き返されてしまった。
「港でセナのことを真っ先にスリだって疑ったろ。本当にぶつかっていたとしても、僕なら『チケットを落としたかもしれないんですけど知りませんか』って尋ねるだろうなと思って。だから、もしかして前例があるのかなと」
「すごいですね」
「当たりだよ。と言っても、スリじゃないんだけどね。相手はわかってるんだ」
マリアはそれが誰なのかは言わなかった。ただ、「急いで王都に行けば取り戻せると思う」とだけ言って締め括った。
盗まれてしまったペンダント。マリアたちは犯人に心当たりがあるようだったが、一体なぜ彼女たちはそんな目に遭ってしまったのだろうか。
「で、メシは?」
いつまで経っても動く様子のないクリンたちに、声をあげたのはセナだった。どうやら空腹の限界を超えたようだ。
とりあえず道中の路銀はクリンが立て替えることにし、恐縮しまくるミサキとマリアを共だって宿屋へ向かうのだった。
四人分の支払いはさすがに財布に痛手なので、泊まったのは質素な宿屋だった。
どっぷりと夜も更けた頃である。体を横たえながら、クリンは隣のベッドで眠る弟を見ていた。
あの船で活躍したセナは、船員や乗客から口々に感謝の言葉と賛辞を贈られた。当の本人は苦笑いして受け流していたが、クリンは知っている。気のないそぶりをしながらも、弟がどこか安堵していることを。そして一人になると、たびたび遠くを見つめて何かを考えていることも。
「はあ」
まだ旅の一日目だというのに、すでに様々なことがあった。眠れそうもない。
クリンはベッドから起き上がると荷物から本を取り出して、静かに部屋を出た。
一階のエントランスへおりる。エントランスと言っても、カウンターの他は小さなソファとテーブルがワンセットしか置いていないが。
「眠れないのですか?」
そのソファには、すでに先客がいたようだ。
店主もすでに休んでいるのか、照明を最小限までおさえたエントランスに人気はなく、そこにいたのは一人だけ。金色の長い髪をさらりと傾け、ロシアンブルーの瞳をこちらに向けている。
「ミサキも?」
「ええ、夕飯を食べすぎてしまって」
「失礼しても?」
「もちろん」
遠慮したほうがいいのではと思ったが、なんとなくこのまま踵を返すのはもったいないような気がして相席を願い出れば、ありがたいことに了承の言葉が返ってきた。
向かい側のソファに腰かけると、彼女はすぐにこちらの手元の本に気がついたようだ。
「お邪魔してしまいましたか?」
「まさか」
ここへ来たのは眠気がくるまでの時間潰しだ。一人であったならば本でも読むつもりだったが、話し相手がいるのなら有難い。
「ずいぶんと勉強熱心なのですね」
「え? ああ。はは」
『人体解剖図から学ぶ筋肉の構造について』
色気も素っ気もない、ただの医学書である。医者の息子であることは話したが、なんだかそれをアピールしているみたいで少し気恥ずかしさが襲う。まあ彼女に限って茶化すようなことはしないと思うが。
やはりミサキはそれ以上何も言ってこなかった。ただ、その本をじっと見つめているだけで。
別にやましいことがあったわけではないが、その視線に居心地の悪さを感じ、なんとなくその本を出しておくことがはばかられた。さりげなさを装ってそれを自分の後ろに置き、彼女の視線から遠ざけてしまった。
自分がなぜこの本をチョイスしたのか、そんなこと目の前の少女に気づかれるはずもないのに。
「今日のセナさん、すごかったですね」
「……そう?」
ぎくり。
今しがた考えていたことを言い当てられたような気がして、クリンは平静を装う。
「ええ。あんなに高く跳ぶ人を、初めて見ました」
「生まれつき、運動が得意なやつだったからな」
「そうなんですね」
「うん」
「……。できればマリアの」
「え?」
「あ。いいえ、なんでもありません」
思わずもらしてしまった言葉だったのだろう。ミサキは慌てて首を横に振った。途中で言葉を切られてしまうのは少々引っかかるが、クリンはあえて追及はしなかった。
ここらで話題を変えよう。
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