第十四話 聖女と皇女

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第十四話 聖女と皇女

 ジャーッと、水の流れる音がする。  建物内の廊下にある水道で、クリンは念入りに手を洗っていた。何度も洗ったせいで、指先は冷たく震えている。  洗っても洗っても、血の匂いは落ちない。目を閉じればさきほどまで響いていた弟の絶叫が、耳の奥で再生される。  弾丸は無事に摘出することができた。その直後にセナは気を失ってしまった。  だが安心するのはまだ早い。処置を施すには、ここはあまりにも設備が不十分で、なおかつ不衛生だった。細菌感染、敗血症、多量出血。それらのすべてのリスクを無視することはできない。  おそらくここに父のような医学に精通したものが居たならば、摘出処置など施さないのではないだろうか。  たとえ被弾から数日が経過しようとも、傷口をいったん止血して銃弾を体内にとどめておき、設備の整えられた環境で切開するほうがリスクは抑えられたはずだ。  だが、自分たちの状況がそれを許してはくれなかった。病院で治療を施してもらえる日なんて、ここシグルスに居る間は訪れないだろう。だから自分たちがしたことは仕方のないことだったのだ。 「うっ……」  急に吐き気がこみ上げて、胃液が喉を逆流する。嘔吐とともに涙があふれ、視界が歪んだ。  不安、恐怖、緊張。  言いようのない感情が胸にはびこって、悪い予感ばかりが脳裏をかすめる。    父から様々な医療技術を学んできた。独学も含めて医療に対する知識量も少なくはないと自負してきたつもりだ。  だが、教育の範囲から外れて未知の領域に踏み込んだとたん、このざまだ。  どうしよう。自分の処置が間違っていたら、どうすればいいのだろう。そのせいで弟が死んでしまったら…… 「うっ……、げほっ」  しばらく嘔吐を繰り返して、深呼吸を繰り返す。  落ち着け。  生物兵器とセナのこと、ミサキのこと、ジャックのこと、今後のこと。考えなければならないことは山ほどあるのだ。  おそらく仲間と連絡を取っているのであろう、ジャックは今、外出している。今後について仲間内で話し合うなら、今しかない。  クリンは口をゆすいで顔を洗い、パンッと自分の両頬を叩いた。    ゆらゆらと、たゆたう意識下の海。  断片的に声が聞こえてくる。 「どうしよう、ハロルド。脈が低下してる」 「落ち着くんだルッカ。安易に近づいては危険だろう」 「何が危険なの。普通の赤ちゃんよ、助けてあげなきゃ」 「僕がやる。君はクリンとさがってなさい」 「ううん、母乳をあげてみる。もしかしたら飲むかもしれない」 「ルッカ」  目を開ければ、真っ白い半透明の視界にぼんやりと映る、三人の影。知らない影。 「クリンは近づいちゃだめよ。離れてなさい」 「あーちゃ?」 「うん、赤ちゃんね」 「こえ」 「ん、なあに?」 「あげゆ」 「これは……センナの葉?」 「セーナ?」 「ふふ。センナじゃ、効かないかなぁ」 「セーナ! あーちゃ、セナ?」 「……。そう、セナ。いい名前ね。……クリンの弟になるのよ」 「ルッカ」 「いいのハロルド。もう決めたの。母親が命をかけて守ったんだもの、この子は愛のある人間になる。信じましょう」 「……。まったく君は。わかった、必ず助けてあげよう」 「あーちゃ、おっとっと?」 「そうよ、クリンの弟。セナ、がんばれーって応援してあげようね」 「おとーと。……セーナ、がんばえー」  知らない小さな影が動いて、手に温かい感覚が宿る。  うれしい、気持ちいい。セナってなんだろう? あったかいなぁ。  セナの眠る部屋に戻れば、異様な光景が広がっていて、クリンは目を見開いた。 「マリア、何やったんだ!?」 「あたしは何も。ただ手を握っただけだよ!」  部屋の中は目がくらむほどのまばゆい光に包まれて、セナたちを明るく照らしていた。  発光源は、部屋の中心で仰向けに眠っているセナの体。体全体から白い光をこうこうと放ち、近くで様子を見守っていたマリアとミサキはその眩しさに目が開けられないようだ。 「これは……聖女の光ですか!?」 「なんでセナが!?」  クリンはセナのもとへ駆けつけ、マリアとミサキを下がらせた。  脈を測ろうとセナの手を取る。その瞬間、セナの目がカッと見開いた。 「! セ……。 っ!」  呼びかけは途中で止まってしまった。瞼を開けたセナの瞳が、炎のように真っ赤に染まっていたからだ。 「まさか、凶暴化してるの!?」 「二人は部屋の外へ!」  クリンがそう指示したが、ミサキとマリアは首を横に振っている。ここに残ると決めたようだ。  しかし暴れ始めると思われたセナは身動きひとつせず、その場で宙を見つめるだけ。 「セナ。しっかりしろ。セナ!」  赤い目がわずかに揺れて、瞳孔の奥で金色の光がきらりと灯る。  全身から放たれていた光は徐々に小さくなり始め、それから炎のようなゆらめきに変わって体を優しく包み込んだ。  見たこともないこの現象が恐ろしくもあるのに、クリンは光の神々しさに目を奪われたままなすすべもなく、ただただセナの手を握り締めて彼の無事を祈るしかなかった。 「セナ、がんばれ。しっかりしろ!」 「セナさん」 「セナ!」  ミサキとマリアもそれにならって、セナの顔を覗き込んで声をかけ続ける。    どれだけ時間が経過したかはわからない。長くもあり、短かったような気もする。  やがて炎は鎮まり、セナの体から光が失われていく。開かれたままの赤い瞳も同時に色を変え、通常の金に戻っていった。  ゆらりと瞳が揺れたあとで瞼が閉じられる。だがクリンが呼びかける前に、再びその目は開かれた。  宙をさまよっていた先ほどの動きとは違って、セナの目はすぐにクリンをとらえ、そのあとマリア、ミサキへと移動し、またクリンへ戻された。 「クリン……」 「セナ。大丈夫か?」 「おまえさ、下剤はないわ。下剤は」 「……は?」  センナの葉。それは通常、下剤に使用されているものである。  まだ一歳だったクリンがその効能を知らず弟に名をつけたことは、きっと両親しか知らない事実だ。  意味不明なセナの言葉に疑問符を浮かべるクリンをよそに、セナは何度かまばたきを繰り返したあと勢いよく体を起こし、 「はらへった」  と言った。
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