催涙雨(さいるいう)

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催涙雨(さいるいう)

 雨の音がうるさい。  ぼんやりと薄暗い部屋の中で、雨の音に起こされた僕は深くため息をついた。あまり寝れなかった気がする。身体が異様なほど重たい。 「……」  僕の脳裏には、未だに、昨日の早見のあの表情がこびりついて離れなかった。まぶたが重い。まるで眼球に張り付いてしまっているようで、いくら頑張っても目をしっかりと開けることができなかった。  まぶたの裏には、早見がいる。  本当は、ずっと蓄積されていたのだ。  僕が今まで見てきた早見という女の子は、その腐り切った眼球で捉えたものを脳の「都合の良いフィルター」に掛けて映像化されたものにすぎない。本当の、嘘偽りのない早見小夜は、僕の眼にずっと映っていた。けれど、ずっと見ないように、意識しないように、理解しないようにしていただけだったのだ。  本当の早見小夜は、どこにでもいる恋する女の子で、不幸な片思いに心を痛めているただの乙女なのだ。僕がずっと見ていた早見は、ただの僕の虚像でしかない。それを昨日、家に帰ってから痛いほど理解した。僕の都合の良いフィルターは、早見小夜本人にあっけなく砕かれてしまったのだ。  けれど、これから僕が早見に、一体なにをしてあげることができるだろうか。  そう考える度に、昨日の早見の言葉が脳裏によぎる。力強くて、けれどどこか悲し気なその声。そして、僕が今まで目を背けてきた彼女の全てが、そこにはあった。 「“僕だったから好き”……か」  僕の世界の全てが芦田美香という女の子を中心としているのと同じように、早見小夜の世界の中心には、僕という男がいた。そして、それに代替品は存在しないらしい。 「……そんなのどうすれば……」 ベッドで身体を起こし、僕はそう呟いた。  時計を見る。  もう既に十時を過ぎていた。  両親は、きっと僕をおいてどこかに出かけたのだろう。家のどこからも人の気配がしなかった。ただ、雨音だけが僕の部屋に響いている。  僕の家は、二階階立ての一軒家である。そのうち、一階はリビングやキッチン、風呂、トイレなどの共有スペース。二階に、僕や両親の部屋、物置などがあり、僕の部屋が最も階段から近い位置にあったため、耳を澄ますだけでなんとなく家中の物音を微かに感じることぐらいはできるのである。    すると、ピンポーン、と家のインターホンが鳴る。 「……誰だろ?……こんな雨の日に……」  僕は、部屋を出て、階段を下り、リビングに向かう。ドアホンの画面を確認すると、一人の少女が傘を差して立っているのが見えた。雨の雫でカメラが濡れているせいか、よく見えない。 『あの~』 「――!」  ドアホン越しから、声が聞こえた。 『……古田ゆうたくんいますか?』 「あ、芦田さん!?」  その声は、紛れもなく芦田美香本人だった。あれだけ恋い焦がれた彼女の声である。聞き間違えるはずもなかった。  僕は急いで玄関へ走る。玄関のドアを勢いよく開けると、そこには芦田美香の姿があった。  透明なビニール傘を差して、インターホンの前で立っている彼女は、依然として綺麗な顔で僕を見る。これだけ雨が降っているのに、彼女は表情に雲一つ作らずに、いつものように僕を見ていた。 「ど、どうしたんだよ。こんな雨の日に……」  急に走ったせいか、少しだけ息が切れている僕に対し、彼女は落ち着いた声で答える。 「あの~、傘、持ってない?」 「……?」  傘なら今自分で差しているじゃないか、と言おうとして、はっとした。 「もしかして……あの痛い傘……?」 「い、痛いって思ってたの?」 「いや、そういう意味じゃ……!」  まったくもってそういう意味である。  まさかあの女子小学生が好んで持ちそうなカラフルでファンシーな柄の折り畳み傘の持ち主が、いつも綺麗で、可愛くて大人びた芦田美香の私物だったとは(忘れ物になっていたけれど)思いもしなかったのだ。だから、つい口に出してしまった。 「あれ、私のなの……」  彼女は、少しだけ恥ずかしそうに、けれどいつもの穏やかな声色を保ったままそう言う。 「そ、そう。今、持ってくるよ。そこだとなんだし、玄関に入って待っててよ」  僕はそう言うと、インターホン前でいつまでも律儀に立っている彼女を玄関に招き、自分の部屋へと駆け上がって行った。  昨日、早見が走り去ってしまったあと、まるでタイミングを見計らったかのように雨が降り出した。仕方なく、僕はその痛々しい柄の折り畳み傘を差して、家まで帰って来たのだ。家に帰った後、その姿を見た母親に大爆笑されたのは、もはや言うまでもない。  そういうわけで、今、芦田美香の折り畳み傘は僕の部屋にある。 「……ん……?」  月曜日に学校のもとあった場所に戻そうと思っていたため、彼女の折り畳み傘はしっかりと僕の学校用カバンの隣に置かれていた。けれど、なんだか引っかかる。もちろん物理的なことではなく、何かが頭の中で引っかかっている。  僕は疑問で頭を一杯にしながら、階段を下りて、その折り畳み傘を芦田美香に渡した。  僕の言った通り、玄関で待機してくれていた芦田美香は、ほんの少し安堵の表情を浮かべながら、それを受け取った。 「この傘、こうきくんにもらったものなの」 「……へぇ」 「使った当日に学校で失くしちゃって、本当にショックだったの」 「そうか」  こうきとは、飯島の下の名前である。ようするに、あの折り畳み傘は飯島が芦田美香に送ったものであった。 「……」  センス悪いとは思わないのか、と言おうとして、それは愚問だと感じたため、なんとか思い留まった。 「ちょっぴりダサいけどね」 「やっぱそうだよな」 「え?何か言った?」 「いや、なんでもない」  彼女は疑問そうに首を傾げる。  こてん、と傾げられたその小さな頭には、今では柔らかなカールがかかっていた。そして、少し前の彼女にはなかった茶髪がそれをより魅力的なものに魅せていた。それもすべて、飯島の趣味なのだろう。  僕の中心が芦田美香であるように、早見小夜の中心が僕であるように。芦田美香の世界の中心には、飯島こうきがいる。飯島が要求したモノの全てを彼女は喜んで受け入れるだろうし、飯島が与えた全ての物を彼女は喜んで寵愛するだろう。  だから、多少痛々しい柄の傘をプレゼントされたとしても彼女は喜んでそれを使う。今までずっと黒髪ロングヘアーを貫き通してきたはずなのに、飯島の要求一つでここまで髪型と髪色を変えてしまう。 「……残酷だなあ」  僕は、今度は彼女に聞こえない程度の小声でそう言った。聞こえてしまえば、きっと今のこの関係の全てが破綻してしまうような、そんな気がした。 「あ、そういえば」  と、彼女が話し出す。 「昨日、相合傘をしていたのは後輩ちゃん?」 「――あ」  そう。   ずっと頭でうごめいていた違和感の正体は、つまりそれだった。  どうして芦田美香は、自分の折り畳み傘を持っているのが僕だと分かったのだろう。  そんな違和感を纏った疑問が頭にあったのである。そして、その疑問の答えは明確であった。  彼女は昨日、外で僕がその傘を持っているのを見たのだ。そして、不幸に不幸が重なり、彼女は僕と早見が相合傘をして帰っているところを目撃してしまった。 「あの子と付き合ってたんだね?」 「ちょ、ちょっと待ってくれ。あいつとは付き合ってない」 「そうなの?」 「それに、一体どうして……」 「昨日は、図書館で勉強しようと思ってたの」 「雨降ってたのにか?」 「雨降ってたから、図書館にしたんだよ」  彼女がそう言って、僕は一考した後、なんとなく彼女が言いたいことをを理解した。  一緒に勉強をするのは非効率だろう、本当はそう言いたかったけれど、彼女が悲しむ顔が想像できたのでやめた。  彼女は昨日、飯島と一緒に勉強するつもりだったらしい。いや、昨日だけではないだろう。二人が交際を始めてから、よく放課後に学校に残って二人で勉強しているという話や、どちらかの家で勉強会をしているという話は、よく耳にしていた。きっと、昨日もそうだったのだ。けれど雨が降ってしまい、彼女と飯島は二人の家から一番近く、勉強ができる場所として図書館が選ばれたのだ。 「まぁ、とにかく……僕は早見とは付き合ってない。好きでもない」 「そうなんだ」  彼女は、そうやって頷いた。  そして、こう続ける。 「じゃあ、どうして泣いてたの?」 「……泣いてたのか……?」 「うん。泣きながら私を追い越していったけど……」 「……そうか」 「何かトラブル?」 「そんなもんだよ」  僕は、いつの間にか心を支配していた気まずさを必死に隠しながらそう言った。芦田美香に余計な心配をしてほしくない、というのが本心だった。そこに嘘偽りはない。彼女に、不格好な僕を少しでもさらけ出すわけにはいかなかったのだ。    だからこそ、僕は過ちを犯してしまった。 「もし、私にチカラになれることがあれば――」 「ない」  帰り際に、おそらくお世辞であろう言葉を口にした芦田美香に、僕は強く反発してしまった。芦田美香の身体が一瞬強張る。玄関から出て行こうとしていた身体をゆっくりと僕の方へ向けた彼女は、心配そうな目で僕の事を見ていた。  表情筋は固まり、その黒く輝く瞳は不安に揺れていた。そして、彼女の心配そうな表情の裏側に恐怖に似た感情が身を潜めているのを僕が感じるのに、それほど長い時間はかからなかった。 「ご、ごめんね……」  おそるおそる彼女は口を開く。その声色は、心配しているようにも聞こえたし、やはり僕に恐怖しているようにも聞こえた。 「余計なお世話だよね。本当にごめん。こういうことは、もうないようにするから」 「……」  僕は沈黙するしかなかった。  数秒間の沈黙でも、僕が今、とてつもない過ちを犯してしまった事を自覚するには充分なほど長かった。  頭の中で整理しきれない感情が縦横無尽に錯乱する。 「……違う」  気づけば、僕はそう呟いていた。彼女も、その僕の言葉に気づく。 「芦田さん」  そして、僕は彼女の名前を呼んだ。    やっぱり、彼女は綺麗だ。僕の眼には、いつだって彼女の完璧な姿しか映っていない。  小鳥のさえずりのように穏やかな声、女優やモデルと引けを取らないほど整ったその目鼻立ち、理想的なスタイル、抜群のファッションセンス。  全部僕にとって愛おしい彼女だった。  ……――そう在り続けるはずだった。 「その新しい髪型も、髪色も、――全然似合ってないよ」 「…え……」  彼女は目を丸くした。 「メイクも前みたいに控えめな方がよかった。服装もそんな黒色ばっか着ないで白とかを基調にしたやつのほうがいい」 「……」 「全然、全然、可愛くない」  彼女は、もう何も言わなかった。ただ、どばどばと溢れ出る僕の言葉に、悲しいほど誠実に耳を傾けていた。 「前のほうがずっとよかった。飯島はセンスが悪い。髪だって黒髪ストレートの方がずっと綺麗だったし、君らしかった。みんなも影ではそう言ってたよ」  教室で誰かが、彼女のことをそういうふうに言っていた。 「毎日毎日、飯島のことで頭がいっぱいなんだろ。ホントに馬鹿みたいだよ」  きっとこの溢れ出た言葉は、全部誰かの代弁だと思いたかった。なぜなら、この感情は、ずっと隠してきた彼女に対する“怒り”の感情だったから。 「彼氏ができた途端、こだわってたもの全部捨て去ってさ。ほんとに最低だよ」  目頭が沸騰したように熱くなって、呼吸が荒くなる。次の瞬間には、僕は両目から大粒の涙を情けないほど大量に流していた。必死にそれを腕で拭って、鼻水をすする。 「でもッ……――好きだよ」  僕は、引きつった笑顔でそう言った。  情緒は常に不安定だった。頭の中を容赦なく駆け巡る感情を無理やり言葉に置き換えて、そのまま口に出していただけだったから当然だ。  けれど、それは同時に、僕の言葉が全て本心だということの証明にもなった。 「今の芦田さんは、少しも可愛くないし、全然綺麗じゃない」 「……そう」  彼女は、小さな声でそう呟いた。その声は、依然として驚きと心配と恐怖に塗れていた。ただし、人の意見に耳を傾ける姿勢だけは決して忘れずに。 「でも、それでも大好きなんだよ」  だからこそ、大好きなのだ。  これだけボロボロな僕を見ても、彼女は決して僕を軽蔑した目で見ない。いや、本当はとうに軽蔑しているのかもしれない。けれど、彼女は何があってもそれを表に出そうとはしなかった。 「いつも優しくて、こんな僕にも親切な君のことが、僕はずっと大好きだよ」 「……」 「たとえ、君が他の男と一緒になっても。たとえ君がどれだけ飯島のことを好きでも、僕は、君のことが大好きなんだ」  涙で視界が埋まって、まともに彼女の顔なんて見れなったけれど、それでも、きっと彼女はいつものように心配そうな顔で僕を見ているのだろう。どこまでも優しい彼女は、きっと今でも優しい。 「……ありがとう」  だから、きっとそんな言葉を口にできてしまうのだ。 「……全部言ってくれて、ありがとう……。……でもごめん」  そして、彼女は僕から目を逸らした。とても気まずそうに、彼女は僕を見るのを辞めたのだ。  彼女と出会って二年以上。今まで、決して多いとは言い難いほどの数しか会話をしてこなかったけれど、それは初めての反応だった。どこまでも優しい彼女が、初めて僕を拒絶した。 「……ずっと辛かったよね。ごめんね」  彼女はそう言う。僕を慰めようとしているのが分かった。 「……ほんとに、ごめん……」  そして、きっとそれは、彼女の本心なのだ。  彼女には飯島がいる。  たとえ、その服装や髪型、髪色が、どれだけ似合っていなかったとしても。飯島が喜んでくれるのであれば、彼女はそれだけで心の底から嬉しいのだ。たとえ世界中の誰もが彼女を批判したとしても、飯島だけは、彼女をずっと守ってやれるのだ。  僕ではない。決して、そこにいていいのは僕ではなかった。  彼女はそれだけを言い残すと、玄関を開けて、雨が降り続ける外へと出て行ってしまった。あの痛々しい柄の傘を差して、これから飯島が待つ図書館に向かうのだろう。  そうか。  早見は、こんな気持ちだったんだな。  しばらく玄関で茫然と立ち尽くしていた僕は、ふいにそう思った。  そして、そのままその場で崩れ落ちてしまう。膝から一気に力が抜けて、まるで蛆虫のようにその場で丸まってしまった。  すべてを吐き出した後の僕の心は、もう空っぽだった。  そして僕は、大声で叫びながら、小さな子供のように泣いた。  ただ、泣くしかなかった。  そこにこれといった明確な感情は存在せず、ただ泣き叫ぶことだけが生きる使命のようにも感じられるほどだった。  彼女は僕の告白を断った。   初めから分かっていた答えである。フラれた原因も分かっているし、ここから先、可能性がないことも分かっている。 どうしようもなく虚しくて、情けない、どこにでもあるただの失恋劇であった。  だから、今はただ、大声で泣いた。
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