瑞雨(ずいう)

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瑞雨(ずいう)

 きっと、芦田美香という人間の色は、それはそれは美しい色だったと思う。そして、それは周りにある色がすべて霞んで見えてしまうほど、強い色であった。きっと僕も、彼女という大きな色に霞んで消えてしまった色のうちの一つなのだろう。  高校一年生の時の教室。  僕は一人で次の授業の準備をしたり、トイレに行ったり、小テストの勉強をしたり、時間を潰していることが多かった。というよりは、それぐらいしかすることがなかった。何かをしていなければ、今、自分が一人だという現実を正面から受け止めなければいけないというプレッシャーに圧し潰されてしまうからだ。結局のところ、その一年間で僕にこれといった素晴らしい友人が出来ることはなく、ただなんとなく挨拶程度の間柄の友人が何人か出来ただけだった。もちろん、その友人とどこかに遊びに行くことなんてなかったし、おそらくこれから先、その友人たちとどこかに遊びに行くことなんてないだろう。  だって、その友人には、きっと他の友人がいるのだから。  僕の友達には、きっと他に仲の良い友達がいる。その事実に気づくのに、僕はその高校一年間を費やしたと思う。  僕にとって、どんな所でも、輝きを放ち続ける芦田美香という女子生徒は、まさにクラスの星のような存在だったと思う。彼女がクラスにいるだけで、僕にとって、あの湿った空気が立ち込めた教室は、まるで夜空に広がった銀河のように見えてしまうのだ。いつも机に突っ伏して眠っているアイツも、いつもドアの前でたむろって喋っているアイツらも、いつも真面目に試験の勉強をしているアイツも、彼女の光に当てられると、どこか輝いて見えていた。  もしかしたら、そう見えているのは僕だけかもしれない。他のクラスメイトは、そんな事を感じたことなんてないかもしれない。けれど、おそらく飯島は、僕と同じ景色が見えていたのだと思う。  いつだって目を覆いたくなるほど眩い彼だけは、きっと芦田美香が光で隠し続けていた何かに触れることが出来たのだろう。僕は、芦田美香がその輝きで覆い隠していた何かを探ることはできなかった。  つまり、それが二人が繋がることが出来た要因のうちの一つとなった。  その点だけで説明するならば、飯島と芦田美香はよく似ている。いや、吊り合っているというべきかもしれない。  きっと飯島と芦田美香のカップルは、長続きするだろう。もしかしたら、数年後の同窓会でも、まだ交際を続けているかもしれない。きっと、あの二人なら喧嘩をしてもすぐに仲直りできるだろうし、そもそも人間性が良いわけだから、二人で生きていくうえで困ることなんて、よほどの事がない限りないだろう。  だから、きっと僕は、ここで安心して次に進むべきなのだ。  そんな事は、もしもできるのであれば、とうの昔にやっているというのに。  結局、芦田美香は何色だったんだろう。  僕は外を歩きながら、そう思った。  雨は昨日からずっと降り続けているが、一旦外に出てしまったからには、自販機でジュースでも買ってから帰ろうと思っていた。今日も彼女は飯島と一緒に図書館で勉強でもするのだろうか。それとも、どちらかの家で楽しく家デートでもしているのだろうか。どちらにせよ、今の僕にはもうどうしようもできない事なのだけれど。初めから、どうしようもできないことだったと言われれば、それだけの話なのだ。きっと僕が、高校一年の初めて出会ったあの日から、毎日継続的に彼女にアプローチをしていたところで、結局未来は変わらなかったのだと思う。いや、変わらなかったと思いたい。そう、信じておきたい。そうしなければ、きっと僕は、また壊れてしまうだろうから。 「先輩、どこか行くんですか……?」  ふいに、後ろから声をかけられた。  聴き馴染みのある、早見の声だった。  今日は黒色のロングスカートを着ていて、とてもよく彼女に似合うなと僕は素直に思った。 「あぁ、まぁ、ちょっとな」 「……ついて行ってもいいですか?」 「暇なのか?」 「暇なんです」  彼女は、大型カメラケースを肩からぶら下げながらそう言った。 「雨の日って、意外といい写真撮れるんですよ」 「へぇ、そうなんだ」  彼女は自信あり気にそう言うが、きっとそれも全部親の受け売りなのだろう。 「先輩もよかったら、どうですか。カメラ貸しますよ」 「お前は、また高価なものを平然と……」 「大丈夫です。もし壊しちゃっても、家にたくさんあるんで」 「そういうところを言ってるんだよ」  早見は、その大型のカメラケースを開けて、中に二つ入っていた一眼レフのうちの一つを僕に渡した。もちろんお互いに傘で雨を防ぎながらだったけれど、僕は自分の安物のカメラとは違うその重厚感に緊張しながら受け取った。 「これも買ってもらったやつか?」 「いえ、これは家から勝手に持ってきました」 「今すぐ返してこい」 「まぁまぁ、そんな事言わずに」  早見は、そうやっていつものように笑って言った。にかっと笑った彼女の笑顔が、僕の眼球に映る。  今は、もう。  僕の眼球(レンズ)に濁りや埃はないと思う。  きっと僕の目は、今、正確に早見の事を写している。    それからしばらく歩いて、僕らは丁度良さそうな路地裏を見つけた。 「じゃあ、撮りますか」 「許可とかは……?」 「どこかに提出するわけじゃないので、べつにいいでしょ」 「まぁ、言うと思ったけど」  相変わらず早見は、無責任なのか無神経なのか、おそらくその両方を抱えた発言をする。  仕方なく、僕もそこで早見から預かった一眼レフで写真を撮ることにした。一見ただの古臭い路地裏でも、いざカメラのレンズ越しにその景色を捉えると、そこにあるのは様々な時代の足跡だったと気づくことができる。  いつからあるのか分からない酒屋や焼き鳥屋。今にも崩れてしまいそうな錆びれた配管たち。そんな数々の時代を乗り越えてきたものが、ここには沢山散らばっている。  そして、雨の中、いくつものシャッター音が、この路地裏で微かに響き始めた。  早見は、一切物怖じしない性格だった。それは今も同じで、この有り余るシャッターポイントに対して、何の迷いも見せることなくシャッターを切っていた。きっと、そのどれもが完璧な瞬間を切り取っているのだろう。 「そういえば」  と、僕がそう話を始めた。 「お前は、僕のどこを好きになったんだ」 「……ずいぶん恥ずかしい話をするんですね」  早見はそう言ったが、いつものようにふざけて誤魔化すことはなかった。少しの沈黙を置いて、僕の質問に答える。 「……先輩、父の写真展に来た時のこと、覚えてますか……?」 「写真展……?」  中学生の時から、僕は写真を撮ることに興味を持っていた。もちろんゲームをしたり、一人でショッピングをしたりする方が楽しかった。けれど、スマホで撮った自分の写真を見返したりするのが一種の趣味のようにもなっていた。そんなある日、僕は、近くて全国的に有名な写真家の写真展が開かれていることを知る。  それがまさしく、早見の父だったのだ。 「……そういえば行ったな……」  僕が、写真に興味を持ち始めたのも、その写真展に行ったのが大きな理由だったかもしれない(結果的に芦田美香の近くに居たいという邪な気持ちが原動力となってしまったけれど)。 「そこで、一度私と会ってるんです」 「……そうだっけ……」 「その時は、今みたいにちゃんとオシャレしてなかったですから。気づかなくてもしょーがないですよ」  早見はそう言って苦笑した。  そこで早見はようやくカメラを覗くのを止めた。 「……モノクロの写真。……女性のやつ……」  そして、雨の中、掻き消えてしまいそうなほど小さな声でそう呟いた。 「……モノクロ……あっ」 「思い出しました?」  早見は僕の顔を窺う。かくいう僕は、ふいに頭をよぎった過去の記憶を思い出そうとしていた。    中学三年、写真展に行ったあの日、一枚の白黒のモノクロ写真を見る僕に、とある少女が話しかけてきた。少女は、どこか物憂げな表情で僕の隣に立つと、その写真について僕の感想を尋ねてきたのだ。 「その写真、綺麗だと思う?」  少女の淡泊な、たったそれだけの質問に、一瞬僕の思考回路はショートしたが、すぐに自分に質問されているのだと理解する。  僕がずっと見ていた一枚のモノクロ写真には、一人の女性が映っていた。アジア人女性。まぁ、おそらくは日本人であろう女性は、まるで我が子を見守るような視線をカメラに向けていた。背景は野原。優しく微笑むその女性の後ろでは、大きな山々が並んでいた。  情報を整理して、僕は感想を尋ねてきた少女に答える。 「綺麗だと思うよ」  僕のそんな答えに、少女は少しだけ嬉しそうな顔をして、「どこが綺麗?」ともう一度尋ねてきた。 「そうだなあ、女性の表情とか。背景のバランスとか。そして、何より……」 「……なにより?」 「白黒なのがいい」 「……」 「あくまで推測だけど。きっと、この写真を撮った人には、世界がこう見えているんだと思う」 「……世界が白黒……ってこと…?」 「あぁ、うん。もちろん比喩だけど。でも、こんなに綺麗な女性と景色をわざわざ白黒に加工しているってことは、そういうことなのかなって。理解はされ辛いだろうけど、でも撮影者にとっては、これこそが世界の在り方なんじゃないかなって」 「……そう……」  少女は、僕の答えを聴いて、俯いてしまった。そして、しずかに「ありがと」とだけ呟いて、どこかに消えてしまう。  その少女こそが、早見だったのだという。  今よりも背が低かったし、髪型も全く違ったため、彼女が初めて部室に訪れた時も、僕がその事実に気づくことはなかった。 「その時の先輩の言葉に惚れました」 「え、なんだその理由」 「なんですか」 「あまりにもチョロすぎないか?」 「女子中学生の恋なんて、所詮、そんなものですよ」  早見は、また笑って見せた。  そして、再びシャッターを切り出す。僕も、それを見習って、写真部らしくシャッターを切り始める。おそらく、僕がどんな写真を撮っても、彼女よりも素敵なものをフィルムに収めることはできないのだと思う。 「あの、モノクロの写真。早見が撮ったやつだろ?」 「知ってたんですか?」 「今なんとなく思っただけだよ」 「そうですか。まあ、あってますけど」  あの日、父の写真展に自分の写真が特別に展示されていることを早見は前日に父に聞かされたらしい。何でも、悪ふざけで試しに娘の写真を納品して、それがオーナー側から高い評価を付けられたらしく、今回は特別に展示することが許されたのだという。  そして、それをたまたま観覧していた僕に、自分の写真の感想を聞いてみたかったらしく、偶然話しかけたのが全ての始まりだったのだ。 「……モノクロってのも、お前らしいな」 「そうですか?」 「あぁ、今なら、なんとなくそう思うよ」  前までの僕なら、そうは思わなかっただろう。けれど、僕の眼球の機能は、芦田美香に呆気なく告白を断られたことにより全く別のものへと変わったのだと思う。  ずっと早見小夜は、如何なる色にも染まらない絶対的な黒色のような少女だと思っていた。というか、実際にそう感じる節が、今までに何度もあった。自分の意志を決して曲げないことや、男勝りなその勇猛果敢な性格。どれだけ他の多彩な色をぶちまけられようとも、彼女だけは永遠に漆黒で在り続けているのだと、勝手にそうだとばかり思っていた。けれど、実際は、そんなことはない。彼女だって、ただの少女であり、色々な色の面を持っている。その黒色は、時には淡いピンク色に変わり、時には儚い藍色に変わってしまう。早見小夜は、どこにでもいるただの女子高校生だ。  ただ一つ違う点があるとするならば、彼女は、決して僕に対して偏見や差別的な意識を持つことはなかった。それはおそらく、彼女の景色が白と黒のモノクロで構成されているからなのだと思う。たとえ僕が溝を流れている下水のような色をしていても、彼女はそれを何とも思わない。たとえ僕が世界一醜い色であっても、彼女はきっと今と同じ対応を僕にしていたのだろう。 「僕、芦田さんにフラれたよ」 「それは残念でしたね」 「か、軽くないか?」 「重く捉えたほうがよかったですか?」 「いや、そういうわけではないけど……」  僕のまどろっこしい返事に、早見は再び撮影を止めた。その頃には、僕もいつの間にか撮影を止めていた。 「前にも言いましたけど。私には先輩がいればいいんです。恋する先輩を見ているだけで、私は幸せなんです」  彼女は僕の眼を見て、そう言った。お互いの傘がぶつかり合いそうなほど近い僕らは、一切の呼吸の乱れが許されないほどの緊張感に、一瞬包まれた。 「そんな、悲しいこと言うなよ」 「でも先輩、まだ芦田先輩のことが好きでしょう?」 「まぁ……」 「それに、先輩だって。立場が逆なら、同じことを言っていたはずです」  僕は何も言い返せなかった。全く持って早見の言う通りだったし、なによりも図星だった。唐突に、昨日の自分の発言を思い出して恥ずかしくなってくる。 「お前は、それでいいのか?」 「……?」 「いや、だから。お前は、失恋したままでいいのかよ」  僕は、今でもずっと芦田美香に対する恋心を引きずっている。昨日の話なのだから、引きずってしまうのは当然だと思うけれど、おそらく僕はこれから先、しばらくは彼女のことをそれでも想い続けるだろう。  そして、それが堪らなく苦しい。 「……私はいいですよ。それでも」  早見はそう言って、傘を畳んだ。 「これは、ただの失恋です。ただの失恋だから、誰もゆうた先輩を責めませんよ。それに私たちはまだ子供です。この失恋で、すべてが終わるわけじゃない。失恋しても、一緒に居たいなら一緒に居ればいいんです」  彼女は優しい声でそう言う。そして、わざわざ僕の傘に入ってくる。「この傘なら、一昨日ほど狭くないですね」と言いながら、彼女は僕と相合傘を始めた。僕は両手でカメラを持って、肩に傘を掛け、脇で柄を挟みながら撮影をしていたが、慌てて傘を持ち直した。ショルダーストラップがついていたのが幸いだった。 「それじゃあ、次行きましょう」 「え、まだ行くのかよ」 「もちろん。雨の日の撮影会は、まだまだこれからですよ」  彼女は笑う。  雨の中、それでも彼女は太陽のように眩しい笑顔で彼女は僕の前を歩き始めた。路地裏を歩き出す彼女の後ろを、僕は相合傘をしながらついて行く。  そんな彼女に失恋の匂いが少しも感じられなかったと言えば嘘になる。彼女は、自分の告白を断った相手()に対して、いまだにこの友人関係を維持し続けているのだ。精神力(メンタル)が強いだとか、切り替えが良いだとか、そんな簡単な言葉で片付けてはいけないのだと、僕は彼女を見て思った。 「そう言えば、先輩たちが一斉に部活を辞めて行った事があったじゃないですか」 「あぁ、そうだな。それのせいで、廃部寸前なんだけど」 「あれ。たぶん私が写真部に入るって噂が学校で流れたからだと思うんです」 「じゃあお前のせいじゃねぇか!」  全国的に有名な写真家の娘が写真部に入部して来ると分かったら、誰だって何だか嫌な気がするだろう。今までずっとお遊びみたいな写真部を続けてきた僕の先輩たちは、あることを悟ったのだ。  本物の写真家をずっと間近で見てきた生徒が入部して来たならば、きっと失望されるだろうし内心で馬鹿にされるに決まっている。  だから先輩たちは、すぐさま尻尾を巻いて逃げて行った。残ったのは僕だけで、僕と早見はそこで再会することになった。 「今考えたら、高校も意図的に僕がいるところを選んだのか?」 「いえ、それはたまたまです。偶然先輩を校舎で見つけて。きっと写真部なんだろうなぁって思って」  偶然だった。  早見が僕と出会った事自体が、偶然であったし、きっと一つ事象が違っただけで、早見は僕のことを好きにはならなかっただろう。 「偶然かぁ」  僕はそう呟く。 「恋なんて、所詮、そんなものですよ」 「それもそうだな」  意地汚くて、まどろっこしくて、人をどうしようもなく盲目にさせる。これが恋でなければ、一体なんだというのか。 「先輩」  しばらく歩いていたら、早見が僕にそう訊いてきた。 「また、こんなふうに相合傘してくれますか?」  少しだけ寂しそうに、早見は言う。もしかしたら、僕をからかっているだけかもしれない。きっとそうだ。この女の嫌がらせには、さすがの僕でも、もう引っかからない。きっと、そうなのだろうけれど。  それでも僕は、また彼女に騙されて、笑いものになってみようと思う。 「もちろん。また三日、雨が降り続いたらな」  そう言って、僕は相合傘の中にいる早見に笑って見せた。    
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