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夕立
この写真部に入部してから、僕の世界は少しだけ色を変えたような気がする。もっというならば、僕の人生は高校生になってからようやく色を付け始めたのだと思う。
その原因の一つとして挙げられるのが、芦田美香との出会いだった。
高校一年生の春。クラスメイトとあまり上手く馴染めなかった僕は、せめて部活に入ることで、予測される灰色の青春から逃れようとしていた。そして、放課後に文化部の部室を巡って部活見学をしてみようと思っていた最中、僕は不仕合わせにも校内で迷子になってしまったのだ。もともと建物の配置を覚えるのに不向きな頭をしているのに加えて、この高校は一般的な公立高校に比べてかなり広い。しかも、どの階も同じような構造をしているため、端的に自分の位置を把握することは一年坊主には難しい。そのため、自分が今、どこに向かって歩いているのかということすら分からなくなってしまったのだ。
そこで、僕を写真部まで案内してくれたのが、まさに芦田美香だった。
途方もなく、校舎の端から端までを往復している僕を不審に思った彼女は、心優しいことに僕に話かけてくれた。
彼女は、どうやら僕が向かおうとしていた写真部の部室の隣にあるダンス部の体験入部をするつもりだったらしい。
うちの高校は大抵の運動部が全国的に見て、どれも強豪ぞろいで、それはダンス部も例外ではなかった。そのため、中学生の頃からダンスを習っていた彼女は、よくこの高校にダンスの練習やレッスンを受けることがあったのだという。
幸い、僕らはクラスメイトであったため、案内までの話も弾み、僕は写真部に入ることができた。
「そして、一目惚れをした、と」
「後輩。話は黙って聞いてくれ」
「いいじゃないですか、先輩。せっかくこうやって可愛い後輩が話を聴いてあげているんだから」
そして、それから二年と少しの月日が経ち、僕と彼女は、三年生になった。
季節は夏。
息がむせ返るような、暑い日差しの中。僕と後輩は、写真部の部室で、先日行った遠征での撮影データを二人でまとめていた。僕が現像された写真を整理して、後輩は取り込んだデータをパソコンで整理していた。
現在、我が写真部の部員数は、わずか二名。僕と、この生意気な後輩が一人いるだけである。
「というか、作業しながら、本当に話なんか聴いてたのか?」
「まぁ、なんとなく話は理解しましたよ」
「おぉ、言ってみろ」
後輩の名前は、早見小夜。
今年で二年生になる女子生徒だけれど、精神年齢は小学生で止まっていると僕は踏んでいる。
そして、早見はその少し伸びたショートヘアの前髪の毛先を指先で弄りながら、僕に間髪入れずにこう言った。
「つまり、ゆうた先輩が写真部に入ったのは、この部室に入る時に、隣のダンス部の練習風景を覗き見するためですね」
「人を変態みたいに言うな」
「だって、ゆうた先輩、いつもダンス部の部室の前通る時、ソワソワしてるじゃないですか。バレバレですよ」
「え、まじで?」
「うそです」
そうやって僕を貶めるように嘘をつくのは、彼女のお決まりの嫌がらせであった。彼女がこの部活に入部してきて一年が経ったが、僕は未だに彼女のその嫌がらせな嘘に引っかかってしまう。それを見て、彼女はまたにやにやと笑うのだった。
いたずらに笑う早見を見て、僕はこんな日々も、もうそれでいいと思い始めている。
もともと、僕が一年生の時の写真部は、三年生が四人、二年生が三人、そして一年生の僕を合わせて、合計八人で活動していた。けれど、僕が二年生になり、部員数が四人になると、途端に他の三名は部活を辞めていった。受験がある、バイトが忙しい、他の用事ができた。僕の一つ上の先輩たちは、そんな言葉を次々と口にして、そそくさと部活を引退していったのだ。
嫌われていたという自覚はあったが、まさかここまで露骨に拒否されるとは僕も思っていなかったので、さすがにその時は傷ついた。そして、丁度その年の夏――去年の今頃、早見がこの部活に入部してきたのだ。
「そういえば、お前はどうしてこの部活に入ったんだよ」
「え?アタシっすか?」
早見は、僕の質問に少しの沈黙で答えた。その細い首を傾げ、天井を眺めて唸っている。
「まあ、親の影響っすかね」
早見は、そう言うと、またパソコンを覗いて取り込んだ写真の整理を始めた。
「そういえばお前、一眼レフ持って部室入ってきてたもんな」
「今すぐに忘れて下さい」
想起したのは、去年の今頃、先輩たちが僕に毒すら吐かずに、逃げるように引退した後、僕が一人で写真部の部室の掃除をしていた時の事だった。
教室の半分ほどもない狭い物置のような部室が、やけに広く感じた。そんな眼の奥が眩むような孤独感を感じている僕の耳に届いたのは、部室の横開きのドアをコンコンとノックする音だった。それが、まさしく、この早見小夜だったのだ。
あの頃の早見は、今のようにショートヘアーではなく、腰まであるようなロングヘアーだった気がする。それが、今となってはとても懐かしい情景のように思えてきた。
「あのカメラは親のおさがりか?」
「いいえ、アタシが写真部に入るって言ったら買ってくれたんです」
「おいおい」
きっと早見は、一眼レフがどれだけ高価なものなのか塵ほども理解していないのだろう。僕なんか、親に一か月ほど懇願して、ようやくネットで一番安かった一眼レフの半額出してもらえることになったというのに。この早見小夜は、自分がスマホ感覚で机の上に放置している一眼レフが、高校生にとってどれだけ手に入れにくい貴重なものなのか、きっと考えたことすらないのだ。何せ、彼女の父親は全国的にも有名な写真家で、彼女は幼い頃から様々なカメラやその周辺機器を見てきていた。そのため、彼女にとってカメラは、ただの平凡な日常の一コマでしかない。だから、彼女は一眼レフを高価なものだと感じてこなかったのだ。
「それで、結局、芦田先輩とは何の音沙汰もなかったんですか?」
「そう、そこなんだよ。そこが問題なんだよ」
早見は、話をもとの路線に戻すように、僕に質問した。こいつは、こういう時にやけに気が利くから、僕は憎めないでいる。
高校一年生の時の僕は、それからずっと芦田美香の姿だけを目で追っていた。毛先までしっかりと整えられた綺麗な黒髪ロングヘアー、指先でそっと触れただけで痕が残ってしまうんじゃないかと思ってしまうほど繊細な陶器のような白い肌。高くて形がしっかりしている鼻筋、くっきりした二重瞼、ぷっくりと膨らんでいる涙袋。ほんのりと色づいた薄紅色の唇と、思わず吸い込まれてしまいそうになる茶色い瞳。
そのすべてが、僕にとってはどうにも愛くるしくて仕方がなかった。
「おい、早見。そんな顔するなよ」
「でも、先輩。ちょっと、キモイっす」
「男子高校生なんてこんなもんなんだよ!」
「でも、なにもそこまで詳しく描写しなくても……」
早見は、いかにも気持ち悪いものを見るような目で僕を見た。
けれど、彼女がそう思うのも仕方がない。あの頃の僕は、視界の隅に少しでも芦田美香が映れば、何をしていても一瞬で目を奪われてしまうくらい、本気で彼女に恋をしていた。
笑った時にできるえくぼも、悩んでる時に前髪をいじる癖も、眠たい時に自分のほっぺたを突っつくのも。今まで目も当てられないような、色のない質素な青春を送って来た僕にとって、それは極めて新鮮なものだった。
「生まれて初めて、本気で人を好きになったんだよ」
中学時代にも、ただ何となく人を好きになったことはあった。しかし、そんな浅はかな恋は、しばらく時間が経てば勝手に溶けてなくなっていくのが、いつもの流れだった。
だから、僕がここまで芦田美香を好きになったのは、本当に奇跡だったと思う。きっと、もう、こんな恋はしないんだろうと本気で感じてしまうほどだった。
「だから、余計苦しかったんだ」
「苦しい?」
僕の言葉に、早見が首を傾げた。
「ほら、僕と同じ学年に飯島ってやつがいるだろ?」
「えっとー……あの、野球部の背の高い人ですか?」
「そうそう。キャプテンのやつな」
「その人がどうかしたんですか……――あっ」
「分かったか……?」
「先輩、ご愁傷さまです」
「勝手に冥福を祈るな」
ちょうど最近、夏に入り始めた頃。
それは僕にとって、僕の人生最大の衝撃ともいえる出来事だった。
「いくらゆうた先輩でも、あの野球部の長身イケメンには勝てないっす」
「分かり切ったことを一々口にするんじゃない。もう、そんなのずっと前から分かってるんだから」
今年の夏が始まりかけた日の、学校の昼休み。僕の隣で騒ぐ女子の口から発せられたのは、「飯島と芦田が付き合ってる」といったものだった。その女子らは、まるで祭りが始まったかのようにはしゃいでいたが、たまたま廊下でその横を通り過ぎただけだった僕の身体は、まるで石像のように硬直した。一瞬、思考が完全に停止して、次の瞬間には、心の奥底から感じたこともないような膨大な虚無が僕を襲った。
芦田美香が、飯島と交際していた。
話を聴くと、芦田の方から飯島に告白したらしく、野球部のエースであり女子からの人気も絶大に高かった飯島が、やがて学校のマドンナともいえる(そう思っているのは僕だけかもしれないけれど)芦田をオトしてしまうのは、もはや時間の問題だったのかもしれない。
「その飯島先輩とは、どういう関係なんですか」
「中学の時の同級生だよ。僕は、アイツの事嫌いだったけどな」
中学時代の僕にとって、唯一まともに喋れる相手が、今となっては恋敵として君臨している飯島だった。飯島は、中学生の時から高校生顔負けの身体能力の高さで野球部でもエースを務めていて、やがて高校生になった今も、まるで漫画やアニメの主人公のように真剣に野球に打ち込んでいた。ただ、それだけで、僕にはアイツがどうにも憎いように感じてしまった。
敗者の戯言、負け犬の遠吠え。
きっと今の僕には、そんな言葉がよく似合う。
教室の隅っこで、一人でうずくまって本を読んでいる僕に声をかけてくれたのも飯島で、僕が初めて本気で恋をした女の子のハートを射抜いたのも飯島だった。彼は、間違いなく僕が今まで出会ってきた人間の中で、最高の男だと思う。
優しくて、かっこよくて、背が高くて、運動が出来て、勉強もできた。非の打ちどころがないぐらい、彼は、女性にとって理想的な異性だろう。
「まぁ、ゆうた先輩とは真逆ですもんね」
「あぁ、本当に、真逆だよ」
彼女が、アイツの完璧さに惚れたのであれば、きっと彼女は何があっても半端な僕のことを好きになることはないだろう。だって、僕と飯島は、いつだって真反対なのだから。
「背が低くて、運動が出来なくて、頭も悪い僕には、もとから彼女を惚れさせることなんて出来なかったのさ」
「……」
早見が、珍しく黙り込んだ。
作業に集中しているのかと思って、早見の方を見たが、早見は少し物憂げに窓の外を眺めていた。
「雨降りそうですね」
「話聞けよ」
どうやら、いつものように、ただ僕をからかいたかっただけらしい。
それから、僕らはまた作業に取り掛かった。
作業を一通り終えると、僕らは部室の窓から外の様子を窺っていた。そして、窓の外の雲がどんよりと黒くなっているのに気がついた。
「これは結構きついのきそうだな」
「そうですね。先輩、傘持ってきましたか?」
「いや、今日雨の予報なかったから……」
「わたしもです」
そんな会話をしていると、窓に一滴の雨粒が跳ねてきた。途端、何かを思い出したように大粒の雨が強い勢いで降り始める。やがてそれは、風を伴い、斜めに降り始め、窓が割れてしまうんじゃないかと思うくらいの勢いへと変わっていった。少し先の景色が霞んでみえるくらいの豪雨だった。
「先輩がしょーもない話してるからですよ」
「しょーもないって言うな。僕にとっちゃ、人生最大の山場なんだよ」
口を尖がらせて、堂々と愚痴を言う早見は、電車通学でここまで来ている。
「まぁ、俺は濡れてもいいとして、問題はお前だよな」
「なんで先輩は濡れてもいいんですか」
「今日金曜日だから、最悪乾かなくても問題ないし。それに僕だって男だからな」
「変なところでカッコつけないでください」
「うるせぇ。それにお前、濡れて透けたら困るだろ」
「うっわ。セクハラで訴えますね」
「理不尽すぎる」
かくいう僕は、徒歩で登校しているため、いざ帰ろうと思えばコンビニでビニール傘を買って帰ることができる。
「先輩、先に帰ってもいいですよ」
「そういうわけにもいかないだろ」
部室を出て、靴箱へ向かう僕らは、そんな会話をしていた。
そして、僕は部室の鍵を早見に渡す。それ、職員室に返しといてくれ。と、僕がわざわざ口にしなくても早見は、面倒くさそうなため息をついて職員室に入って行った。一方僕は、靴箱の近くに置いてある「忘れ物置き場」の箱から、丁度良さそうな折り畳み傘を取り出して、試しに開いてみる。
「……だっせぇな……」
まさか高校生の私物の落とし物とは思えないほどカラフルな柄と、目に余るほど大量のハートマークに、嫌気が差した僕は、それを「忘れ物置き場」の段ボール箱にそっと戻した。
そして、僕は「忘れ物置き場」の段ボール箱をまさぐる。
「先輩、忘れ物ですか?」
「そう見えるか?」
「いいえ、空き巣に見えます」
「なら正解だよ」
しばらくして、職員室から帰ってきた早見が僕にそう訊く。すると、早見はいかにも不思議そうな声色で僕に言った。
「傘なら、あそこから取ればいいじゃないですか」
早見が指差した場所は、一般生徒もしくは教師たちが傘を置く、ふつうの傘置き場。
「おまえ……僕より窃盗常習犯だったな」
「褒めないでくださいよ」
「褒めてるように聞こえたのか」
とはいえ、誰かの傘を奪って帰ってしまうと、その誰かが今日の帰りに困ってしまう。さすがにそれは可哀想だ。もとより、それが可哀想だったから、盗んでも比較的被害が少ないであろう忘れ物から盗ろうとしていたというのに。
「じゃあ、その折り畳み傘で帰りましょう」
「一本しかないぞ」
「中々痛々しい柄ですけど、先輩ちっさいから入りますよね」
「ちっさいって言うな」
たしかに、早見と僕の身長差は、この一年でほとんど誤差とも思えるほど近づいてしまった。この場合、僕が小さくなったわけではなく、早見の身長が伸びただけなのだけれど。
「さぁ、先輩。早くしてください」
僕が駄々を捏ねるより先に、早見は靴を履き替えて玄関を出てしまった。
「……ったく。またかよ」
僕がこう言うのも、僕と早見が所謂“相合傘”というのをするのも、今回が初めてではないからだ。丁度、去年の夏。僕らがまだ出会いたてだった頃も、その日はこんな雨が降っていた。
「若干緩くなりましたね」
「えっ……?」
「あぁ、雨がって事です。べつにゆうた先輩のお腹のことなんか言ってません」
「いや、別にそこまで言ってないし。というか僕太ってないからな!」
依然として降り頻る雨の中、僕らはそんな会話をしていた。
傘の柄は、僕が持って左側に立ち、早見は僕の右前に立っていた。
「なぁ、やっぱりこの傘小さくないか?」
「気づきたくなかったですけど、やっぱりそうですよね」
一年前のあの日は、僕が傘を忘れてしまったため、早見の傘に入れてもらっていた。まぁ、その「早見の傘」も、実は彼女が傘置き場から勝手に盗んだものであって、本当の彼女のものではなかったけれど。その時は、大きめの傘だったため、僕ら二人でも少し寄れば肩が濡れない程度には歩いていくことができた。けれど、この折り畳み傘は、少し小さい。つまり、二人が肩を触れさせずに歩くことはまず不可能だし、限界まで近づいたとしてもどちらかの肩が濡れてしまうぐらいのサイズだった。
「やっぱコンビニで新しいの買うよ」
「じゃあ、この傘はどうするんですか?捨てます?」
「え、……持って帰ってくれないのか?」
「持って帰りませんよ、めんどくさい」
「じゃあ、この傘どうするんだよ」
「それを先輩に訊いてるんです」
僕らは、肩をぎちぎちになるまで寄せ合って歩いている。どちらかといえば、背中とお腹を寄せ合って歩いているし、傘の柄を持った僕の右腕は彼女の胸の前を通している。
「このままだと、歩きながらバックハグしてる馬鹿カップルに勘違いされます」
「その通りだ。早くどうにかしよう」
仮にこの状況を芦田美香にでも見られたら、僕はその瞬間、目の前を通ったトラックに身を投げて辺り一面を僕の鮮血で染めてしまうかもしれない。
その後、僕らはなんとか雨宿りできる場所を探して、無事に相合傘状態から解放された。雨宿りに選んだのは、もう古びて殆ど客足のないタバコ屋さんの緑色の雨よけだった。
「あ、また本降りになりましたね」
「いいタイミングだったな」
僕らが、雨宿りを始めてから、まるでタイミングを見計らったかのように、雨が急に強くなる。地面に弾かれた雨が、靴にかかってくるほどだった。
「ここから駅まで、何分ぐらいだ?」
「大体走って五分ですね」
「走るのはちょっときついな」
「はい」
僕は、そんな会話を早見としながら、ふいに一年前の相合傘を思い出していた。
早見の肩の温度を、僕は今でもなんとなく憶えている。なんともいえない初々しい雰囲気が、あの時の僕らの間を流れていた。呼吸を一つ狂わせるだけで、相手に気を使わせてしまう気がして、ずっと何かしらに集中していたような気がする。
「なつかしいな」
「なにがですか」
「去年もこんな事あっただろ」
「……そうですね」
去年、相合傘をした時も、緊迫した空気に耐えかねて、今のように途中で雨宿りをしていた。
今よりも少しだけ背の低い早見。今よりも少しだけ僕に優しい早見。今よりも少しだけ緊張していた早見が、その時は、僕の隣にいた。
「お前、結構変わったよな」
「そうですか?」
「あぁ、すっかり変わったよ。髪も短くなったし、背も高くなったし」
「先輩は、何か変わりましたか?」
「……ちょっと老けたかもな」
「身長、変わってませんもんね」
「そうだな。……変わってねぇよ」
「……」
沈黙で答える早見に、僕は続けた。
「僕は、依然として芦田美香が好きだ。ずっと前から好きだったし、たぶんこれからも好きだ」
「……誰かのものになったのに?」
「誰かのものになったのに。それでも好きなんだよ」
「……」
早見は、また沈黙で答える。俯いて自分の足元を眺める早見は、きっと僕が今どんな顔をして、この言葉を口にしているか知らないんだろう。もしくは、すべてを知った上で、あえて俯いてくれているのか。
あぁ、おそらく後者のほうなんだろう。
僕はそう思い、また続けた。
「だから、お前の気持ちに、良い返事はできない」
「……知ってますよ」
早見は、部室の時とは打って変わった、細々とした声でそう言った。
去年の冬の事だ。
その時は、雪が降っていた。
耳が凍ってしまうような寒さの中、かじかんだ指を必死に温めようと口元で手を温める僕に、早見は言った。
「好きです、先輩」
たった、それだけの言葉だったけれど。たったそれだけの言葉でも、早見の気持ちの真意を確かめるには充分なほどだった。
早見の耳は、僕よりも真っ赤で、ほんのり紅く火照った鼻と頬を見て、彼女が本気だという事を理解した。そして、今にも泣いてしまいそうなほど潤んだ彼女の瞳が、僕にこう問いかけのだ。
――人に好かれるっていうのは、こういう気持ちなんだよ。
早見は、僕が芦田美香の事が好きということをずっと前から知っていたらしいし、僕だって芦田美香が僕以外の男子の事を好きだということは理解していた。
この恋愛劇場において、僕と早見は、等しく部外者なのだ。
それは、芦田美香に彼氏が出来た今、より鮮明な事実として照らし出された。おそらく早見も、その事実に気づいている。
僕らは、芦田美香と飯島が主役のラブコメに出演しているモブキャラなのだ。二人の恋を横目で観測しているただの他人であり、いつか幸せになってゴールインする二人に拍手をする参列者のうちの一人にすぎない。
あの冬の日、早見が僕に告白をした日。
早見は、ロングヘアーをばっさりとカットして、今より少し短めのショートヘアーで部室に現れた。今思えば、全部僕にアピールするつもりだったのかもしれない。いや、現にそれはアピールだった。若干恥ずかしそうに、すっかり短くなった自分の髪を弄る早見は、どう考えても恋する乙女だった。
去年の夏。
初めて、僕らが相合傘をして気まずい雰囲気を腹いっぱいになるまで頬張ったあの日。もう、すでにあの時には、彼女は、僕の事が好きだったらしい。
それから沢山のアピールを僕にしてきたらしいが、僕はそれをまったくと言っていいほど自覚していない。つまり、ほとんど僕に効果がなかったのだ。だから、最終的に早見は僕に「先輩、好きな髪型はありますか?」と訊いて来たのだ。それは覚えている。今になってようやく気付いたことだが、僕はその時、かなり適当に返事をした。その時、ハマっていた映画だったかドラマだったか、あまり詳しく憶えていないけれど、そこに出演していた女優のことを何となく考えていた僕は、彼女に「ショートヘアー」とだけ答えたのだ。
そうして、その翌日、彼女は本当にショートヘアーに髪を切り、僕に告白をした。
結果、僕は彼女にとって満足のいく答えを返すことはできなかった。
だって僕は、どうしようもないほど芦田美香のことが好きなんだから。
「……僕と相合傘をしても、ろくなことがないだろう」
「……えぇ、本当ですよ。一年前のあの日も、結局先輩は一ミリも私にときめいてませんでしたし」
「……それは、……悪かった」
「謝らないで下さいよ」
「ごめん」
きっと、芦田美香も、ずっとこんな気持ちだったのだろう。学校で最も人気のある彼女は、この高校生活で数多くの男子から告白を受けてきた。その度に、「今度はアイツがフラれた」という噂が学校中に広まる。高校一年生の時からずっとそうだったし、おそらく中学の時からもそうだったのだろう。そうして、ようやく彼女は一人の男子生徒のものになった。その後、まるでずっと縄張りを維持してきた魔物を幾人もの勇者たちが討伐しようとして、ようやくそれが達成できた、そんな雰囲気が学校中に広がった。
そして、その勇者は、決して僕ではなかった。
きっと芦田美香は、自分にふさわしい男子がいてくれて安心しただろう。
今までずっと、興味のない男子からの愛の告白を受け続け、耐え続け、断り続けてきたのだ。そんな生産性のない流れに、ようやく終止符が打たれたのだ。
彼女の心は、新しいパートナーと共に過ごせる喜びと、繰り返される負の連鎖から断ち切られた事に対する安堵で満たされていることだろう。
「……お前には、もっといい相手がいるだろ」
「……はい……」
「わざわざ相合傘で、距離を縮めようとして……」
そんな努力と苦労は、きっと水の泡になるというのに。
早見は俯いたまま、籠った声で頷くだけだった。
「お前なら、もっとイケメンで、もっと身長が高くて、もっと優しくて、頭もよくて、気が利いて、運動ができて」
「……」
「もっと完璧なやつの事を好きになればよかったのに」
そう。例えるなら飯島のような。
「なんで、僕なんかのことを好きになったんだよ」
僕はもう、早見のことなんか見れなかった。今、彼女がどんな顔をして僕の話を聴いているのか。想像さえしたくなかったのだ。
「――先輩だったからですよ」
「……?」
早見が、少しだけ力のこもった声で言った。僕は思わず、早見を見てしまう。
「私が好きなのは、先輩だけです。先輩だから好きになったんです。他に理由はないんです」
早見は、今にも泣きそうだった。
手を強く握って、涙が溢れてしまうのを必死に堪えようとしているのが分かった。
「……でも、な…」
僕は、だらしなくそう言うしかなかった。
「ゆうた先輩が、芦田先輩のことが大好きで大好きで仕方がないのと同じです。この感情に根拠も制限もないんです!」
目を赤くして、鼻をすする彼女は、それでも涙だけは流さなかった。
雨が止む。
僕らは、見つめ合っていた。
今度は、呼吸の音すら聞こえなかった。ただ、音のない沈黙だけが僕らの間を包んでいく。しばらくして、彼女が苦しそうに息をしているのに気が付いた。唇を噛みしめて、必死に涙を抑えているのだ。
僕と早見が出会って、もう一年が経つ。彼女が正確にいつから僕のことを好きでいてくれているのかは分からない。けれど、もしも一年前からずっと僕のことを好きでいてくれているのであれば、一体彼女はどれだけの間、その涙を堪え続けてきたのだろう。
考えただけで、息が詰まりそうだった。
早見は、ただなんとなく二年間恋をしていた僕よりも、ずっと勇敢で正しくて――苦しかったはずなのだ。
可能性を自分勝手に放棄した僕とは違い、彼女は微塵ほどしかない可能性を必死に掴もうとしていた。
その努力が、今、この状況を生み出したのである。
「……それでは、また……」
早見は、震えた声で、そう言った。
見つめ合っていた目を逸らして、僕を横切り、駅へと走り去ってしまう。
何の根拠もないけれど、彼女は走り去る時、少しだけ泣いていたように思えた。
ただ僕は、その場で立ち止まることしかできなかった。
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