転校

7/9
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 担任の授業にもかかわらず、あたしは謎を解くようにノートに「屋上から落ちる」とか「死んだ?」とか「気のせい?」とか「自殺」とかいろいろ書きなぐっていた。  屋上のあの男子がどうしていなくなったのか、答えは出ないまま、気づいたら授業が終わっていたらしい。 「……ちゃん。麦ちゃん! 大丈夫?」  あたしの正面に誰かいる、とようやく気づいてハッとノートから顔をあげた。神宮さんが心配そうにあたしを見ている。 「次、体育だよ。更衣室で着替えるんだけど、一緒に行こう?」  ちらりと、神宮さんの目がノートを捉えるのがわかった。慌ててあたしはノートを閉じて、「更衣室、だと急がなきゃだね」と立ち上がった。変なふうに誤解されなければいい。  見れば、教室にはあたしと神宮さん、それからのんびりおしゃべりしながら出ていく女子の数人しか残っていない。  あたしは少し焦りながら、前の学校のジャージが入った体操着入れを手にした。  更衣室は1階の保健室の隣にあって、すぐグラウンドに出られるようになっていた。あたしと神宮さんが更衣室に入った時には、あらかたの女子は着替え終わっていた。明るめのネイビーに白いラインが入ったみんなのジャージは、手にした小豆色のジャージとは対照的に今風に見えて、あたしはこっそりため息をついた。 「先行ってるね!」と女子が口々に言いながら外に出ていく。いちおう声をかけてくれるけれど、たぶん、神宮さんに声をかけるついでなんだろう。 「急がなくて大丈夫だよ。どうせもう受験勉強の息抜きみたいな感じになってるから」と言いながら、神宮さんがばさりと制服を脱いだ。  下着の向こうに、レースの繊細なピングのブラジャーが見えて、あたしは急にどぎまぎして視線をそらした。同じ年齢だというのに、あたしのブラジャーはレースなんてない、シンプルな白一色だ。なんだか急に自分が子供っぽく思えて、あたしは自分の下着が見えないようにそっとロッカーのドアを衝立にするようにして紺色のセーラー服を脱いだ。 「麦ちゃん、高校はこっちの受験するんだよね?」  神宮さんはてきぱきと着替えて、髪の毛をロッカーの鏡でポニーテールにしながら聞いた。ふわふわした髪がしなやかに揺れて、白い光の下にさらされたうなじと、さっき見たブラジャーのかわいらしさが重なって、人気なんだろうなって思う。きっと佐々木くんは、神宮さんにたしなめられたから、あたしに謝ったのだ。でなければ、きっとそんなつもりはなかったに違いない。それくらい、神宮さんの存在は、あの教室では大きい。 「いちおうそのつもり」 「そっかあ。大変だよね、こんな時期に転校って。私でよければなんでも聞いてね。これでもけっこういろいろ調べてるから」  神宮さんはそうにっこり笑って、「急ごう」と促した。小豆色のジャージに包んだ身を縮めるようにして、あたしは神宮さんの後ろについて外に出た。具体的にどこの高校とか聞かれなくてよかった。この時期だっていうのに、本当は、前いた学校のそばの高校とかを受験したい。そんなこと、誰にも言えない。 「神宮、遅いぞ」  グラウンドではすでに準備体操が始まりかけていた。白い歯がまぶしいくらいの体育の先生が神宮さんに笑いながら注意して、それから不思議そうな顔をしてあたしを見た。誰だろうと言いたげにあたしを見ながらしきりに首をひねっている。お兄さん、と呼んでもおかしくないくらいに若い先生だからか、神宮さんの背中は猫みたいにやわらかくなって先生の足元にすりよっていくみたいだった。 「ごめんなさーい、皆川先生。天生さん、初めてだから更衣室案内してたんです」 「そうか、転校生か」と体育の先生はかわいいものを愛でるみたいに緩んだ顔で神宮さんに頷いて、準備体操に加わるよう促した。あたしの方を見なかったのは、たぶん、どんな生徒かまだわからないからだろう。  準備体操をけだるそうにやっている女子の中で、しっかり腕をあげたりしているのは、どうやら体育系の部活に所属している人たちらしい。  でも1人、目立つ子がいた。髪の毛がいろんな色に染まっている。赤と緑と紫と水色。まるであたしが窓から見たこの街の空に挑んでいるみたいに鮮やかな極彩色の人。朝教室にはいなかった。見かけたら絶対忘れそうにないくらいまぶしい。でもその色とは対照的に面倒そうに手足を動かしている。  神宮さんはその極彩色の女子をあからさまに避けた。わかりやすいほどのシカトだ。あたしは息を飲んで、そこに立ち尽くした。神宮さんは、その向こうにいる、やっぱりけだるげに体操しているグループに笑いながら混じり、あたしを手招いた。なんとなくあたしも、その極彩色の子を避けて群れの隅っこに身をおさめた。  なんだか急に自分の体が自分のものじゃないみたいに重くなった。 「今日バレーボールだって」 「えー。痛いのやだ」  女子の一人が神宮さんに話しかけて、神宮さんは顔をしかめながらひっそりと笑い合った。とりあえずあたしを体育の授業まで案内したことで、神宮さんはクラス委員としての責任を果たした、って感じだ。 「そこしゃべるより手足動かせー」  皆川先生の棘なんてゼロの注意が飛んできて、神宮さんと隣の女子がくすぐったげに「すみません」と笑って答えた。先生っていう感じよりも、本当に近所のお兄さんみたいだ。  前の学校は、先生と生徒って、圧倒的に上下関係があった。先生は大人。大人の言うことに子供は従うべき。しかも先生という肩書をもつんだから、なおのこと。教室一つ一つが、先生を頂点とした社会の縮図。でもここでは、まるで先生と生徒の境界なんてなくて、なんだか気持ち悪い。  あたしはまた目立たないように隅っこのほうで体を動かしながら、極彩色の子の背中をそっとうかがった。クラスの女子たちは誰も彼女を避けてるみたいだった。彼女もそうなのか、1人離れている。体を動かしていてもその極彩色のショートヘアがずっと目の端に見えていて、あたしの目の色をその極彩色に染め上げるみたいだった。  じっと見つめすぎていたのか、ふとその極彩色の子が振り向きそうになって、あたしは慌てて別の方角を見た。  視界に旧校舎が入った。  屋上にいたはずの彼。あたしの目の前を落ちていったはずの。  また思い出して、ゾッと鳥肌が全身にたった。本当に幽霊とかだったらどうしよう。  そう思ったら急に背中に氷がひたりと押し付けられた気分になって、慌てて前で準備体操をしている神宮さんに声をかけていた。 「どうしたの?」  神宮さんがあたしと話ができるように近くにきた。 「あの、さっきあたしがいた校舎って、もう使われてないの?」  あたしの視線を追うようにして、神宮さんがグラウンドを見下ろすようにして建っている旧校舎を見た。 「特別棟のこと? だったら、そんなことないよ。特別教室ばかりだからあまり人気はないけど、家庭科とか理科の実験とかでは使うしね。でも3年のこの時期だと使う機会はめったにないかも」  特別教室なんてあっただろうか。  あたしが見た階は一般教室で、しかも椅子も机もなかった。でも神宮さんがうそをつく必要もないのだし、あたしは校舎を隅から隅まで見たわけじゃない。  それ以上のことを聞くこともできないまま、あたしは旧校舎をもう一度見上げた。  自然とあの子がいた屋上に目が吸い寄せられて、あたしは小さく「あ」と声をもらした。 「どうしたの?」  屋上に、いる。  しかもあろうことか、落下防止用のフェンスの一番上に腰かけている。また落ちてしまう。そう思って、ぎくりと体をこわばらせた。 「あの屋上に人」 「屋上? 特別棟の屋上なんて行けないはずだけど……?」  思わず驚いて神宮さんを振り返ると、訝しげな顔であたしを見ている。急に心臓が大きな音を立てはじめた気がして、メガネの奥で探るような気配の両目から逃げるように目を伏せた。  方言をしゃべる子。しかも変なことを言う子。そんなレッテルが貼られたら、最初の予感通り、この学校でのあと半年未満の時間を、まともに過ごせるどころか、下手すればいい標的になってしまう。 「ごめん、屋上っぽく見えたけど、違ったみたい。前の学校はあったから、そう見えただけかも」  そう言って笑うと、神宮さんは「屋上があるなんてうらやましい」と小さく笑ってまた準備体操に戻った。あたしも手足を動かしながら、そびえたつ古い校舎を見あげた。神宮さんが言う特別棟には、やっぱり見えない。校舎の中に入れば、あんなにほこりだらけで、木の床はぎしぎし鳴っていた。  屋上だって、やっぱり、存在してる。  だって、学ランのあの男子、あたしに気づいて挨拶するみたいに手を軽くあげてる。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!