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目の前に建つ3階建て鉄筋コンクリートのくすんだ灰色を見上げた。
古い校舎だ。デザインだったらしい外壁に格子状に走る薄黄色か薄水色かのラインの塗装ははげているけれど、たぶん一つ一つの教室を表してたんだろう。その壁には至る所にひびが走って、補修したらしい黒っぽい跡がよけいに惨めな状態を晒してる。窓には色あせたカーテンが下がっていたり下がっていなかったりして、よけいにみすぼらしかった。
さっきチャイムは鳴ったはずだから、もう授業は始まったに違いない。
転校初日だというのに、あたしはどうしようもなく泣けてきて、大股で前屈みになりながら廊下を駆け足寸前の速度で歩き続け。そして今ここにいる。
途中の廊下ですれ違った誰かの気配もあったけど、たぶん、あたしが誰なのかわからなかったんだろう。おい、とか、きみ、とか、呼びかける声は積極的には追いかけてこなくて、それがまたあたしの視界をもっと曇らせた。
前の学校だったら、生徒指導のヘビ女、じゃなくて、辺見先生が容赦なく「放課後、職員室!」と甲高く厳しい声であたしの背中を凍りつかせてたに違いない。すごく嫌だったはずのことが、やたら懐かしい色味を帯びて思い出されて、無性に苛立った。どこにいても光が降り注いで明るい教室も、磨かれて綺麗に光を反射するかのような廊下も、何もかもあたしを笑ってる。
どうせ、あたしは地方から来た転校生ですよ。
しかも町に1軒しかないコンビニまで自転車30分はかかるような田舎ですよ。なまってるのも方言が出るのも、仕方ないじゃない。生まれてから15年、その町を出たことなんてなかったんだから。
指定の上靴が用意できずに履いていたスリッパを、床にこすりつけるようにして、階段を降り、下駄箱を目指した。そのはずだったのに、いつのまにかあたしは転校初日の学校の中の迷子。
学校の中で迷子だって。たかが公立の中学校だよ、大型ショッピングモールでも行ったことのない渋谷の街でもない。
登校する時に職員玄関から入ったせいで、一般の生徒が使う昇降口がどこにあるのか知らなかったせいだ。それ以前に、あたしのローファーは職員用玄関に置きっぱなしだ。
まだ転校生以前、お客さんどまりの天生麦。全然、この中学校の生徒なんかじゃない。しかも転校初日、あの3年2組の教室にわずか30分弱いただけの。
そんなふうにして歩き回っていたら、目の前に薄汚く佇む古い校舎にたどり着いていた。
後ろを振り返れば白くて新しい校舎。目の前にある校舎はまるでこの世界でもう用済みなんだと言わんばかり。
正面の飾り気のない昇降口はガラスの扉が締め切られていて開かない。
なんとなく校舎に沿って歩き、正面玄関よりは扉の数が少ない昇降口を見つけた。一つずつ扉を押したり引いたりして、一番端の扉だけ鍵が壊れていたのか、強く押すとわずかに開いた。全部は開ききらないけれど、体を滑り込ませられるほどの隙間は開いた。体を押し込んで、古い校舎の中に入る。
いつから閉じ込められている空気なのか、ほこりっぽくて、乾いてる。少し肌寒い。
昇降口にあがると、ふわふわした埃やゴミで散乱している床は木造で、ツヤもなくささくれている。たわむ部分もあって、踏み抜いてしまうかもしれないと少し怖い。
目の前には左に向かう廊下と、2階にあがってく階段のふたつ。
右を見ると、教室が一つだけあって、どんづまり。
とりあえず左に行こうと足を踏み出した。ずっとまっすぐ伸びた木造の廊下。前の学校も木造のところが残ってたけど、ニスがけされていたし、生徒が雑巾がけしているから、滑りのいいこっくりしたつやがあった。人の手が入らないだけで、こんなに荒れてしまうんだと思うと、よけいに今のあたしの気分と重なった。
ほんの2、3歩足を踏み出すと、木造の廊下はきしんだ音を立てる。誰かに見つかるんじゃないか、なんて思ってそっと音を鳴らさないように苦心する。でも結局、ぎしぎし、ぎしぎし、あたしが歩くたびに音がついて回る。いまさら先生に見つかったところで言い訳もできない。いちいち気にするのも面倒になって、普通に歩き出す。慣れれば、ぎしぎしの音も、ちょっとは風情に変わる、かもしれない。
そのうち、歩くたびにまとわりつく空気の中の小さな光の粒に気づいた。窓から差し込む光にきらきら反射している。
なんだろう、そう思って立ち止まって見つめていて、あ、と思う。たぶんほこりだ。制服の袖を伸ばして、口を抑えた。この校舎を出る頃には、あたし、真っ白になってたりして。
一番手前の教室のドアのドア上に示す札には1-5。ということは、2階は2年生、3階は3年生。輪郭だけ残して本体はない長方形から中をのぞきこむ。あるはずの机や椅子はなく、がらんとした空間だけが広がっていて、ただ光の粒だけがしんしんと踊ってる。
この古い校舎の、この板張りの古い床を鳴らしながら、どれだけの子が笑ったり泣いたり怒ったりしてきたんだろう。その中には今のあたしみたいに、どうやって教室に戻ればいいのかわからないまま途方に暮れた子もいたんだろうか。
そんなことを思いながら、教室を出て、隣の教室に入ってみる。1-4。がらんどうの教室には、中央に倒れた椅子が1つ。
忘れられたまま、ぽつんと置き去りにされてる。
それを起こして、少し強度を確かめてからそっと腰掛けた。
黒板にはよくわからない落書きと、それを乱暴に消した跡。くすんだクリーム色みたいな掲示板はもう永遠に時間割もクラスだよりも知らせてくれない。
役目を終えたただの箱になった教室。そのたくさんの教室が集合した校舎。
きっと近いうちに取り壊されるんだろう。
ぼうっと窓の向こうを見上げた。やっぱり空の形は、あたしが知らないもの。かたくて冷たい空なんて、初めて見た。
――帰りたい。
ふっと私の体の底であぶくとともに浮かんだ言葉を飲み込んだ。口にしたら、あたしはこの空に負けたことになる。
なにより、ママがため息をつくのはもう二度と見たくない。パパと暮らしてた時、ママのため息で家はいつも沈んでた。いつかママの重いため息で、家が傾くんじゃないかって思ったくらい。そのため息が、パパの足を遠のかせてたのに、ママは1日1回はため息をつかなくちゃ生きていけないみたいに「はあ……」、「はあ……」、「はあ……」、「もう……」。
だからこそ、引っ越してきた新しい家をそれでいっぱいにしちゃいけない。前よりも全然狭くて小さいアパートでも、ママのため息の代わりにあたしのため息で、新しい家の隅々まで染めちゃいけない。
立ち上がって窓のそばまで行くと、鍵を外して開けた。
あたしの意に反してあっけなく窓は開いて、ふいに入ってきた外の違う空気に教室中の空気が戸惑うように廊下側へと逃げていく。
漂うばかりだった光の粒もただびっくりしたみたいにあっという間に散って消えてしまった。
窓の外に身を乗り出して、あたしは、大きく息を吸った。
「う、る、さーい!」
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