転校

3/9
前へ
/9ページ
次へ
 ここにいてもしょうがない。そう思って教室を出て、入ってきた昇降口の方へ向かった。  教室を飛びだしたのはあたしだから、あたしは自分の足で戻るしかない。  転校生以前のあたしを気にかけてくれる友達なんて、ここには誰もいない。あやのんもチッカもいない。  昇降口に降りようとした時だった。 「君だったんだ」  誰もいないはずの廊下に穏やかな声が響いた。というより、明らかに意図をもってあたしの背中に届いた。  まさかほかに人がいると思ってなかったあたしは、文字通り、小さな悲鳴をあげて飛び上がった。 「ごめんごめん」  辺りをはばかりながらひっそりと、でも楽しそうに笑う声がした。  もしかして、いわゆる旧校舎の幽霊?  少し怯えつつ振り返ると、ちょうど2階に続く階段の踊り場を回りこんで降りてくる子がいた。  なによりも真っ先に足を見てしまった。  ちゃんと、制服らしい黒いズボンに包まれた両足がある。  ホッとしつつ視線をあげると、学ランを着た男子だった。ここの中学校はブレザータイプの制服だから、違う中学校の子かもしれない。 「さっき、叫んでなかった?」  その子は階段を降り切ると、それ以上はあたしの方に近寄ってこずに言った。  はい。叫んでました。  でもそう素直に言わずに黙っていると、学ランの男子は少し困ったように両方の眉をさげた。 「その制服、ここのじゃないよね?」  あたしの制服を指差して、男子はかすかに首を傾げた。  転校初日。中途半端な時期の転校だったあたしに、ここの制服の用意は間に合わなかった。 「ごめんね。ママ、制服注文するの遅れちゃって。学校始まるまでに間に合わないんだって。ねえ麦、相談なんだけど、この前知り合ったご近所さんがいてね、ちょうど卒業したばかりの女の子がいるお家があるんですって。で、せっかくだし捨てるのももったいないからって、そこのお宅が熱心にどうかってすすめてくれてね。ママもむげにお断りするのもなんだし、ほら、これからここでうまくやってかないとだし、ね、どうかしら、そこのお下がりとかでもいいかな? あ、もちろんサイズが合わなきゃ意味ないんだけどね」  ママも両眉を八の字にして、おっとりと、でもあたしに口を挟ませないくらいの熱心さで言いながら、あたしの顔色を伺うように見ていた。  でもママの場合、あたしがそこでいやだなんて絶対言わないこともわかっていたはずだ。だからママは、はじめからお下がりとかで済ます気だったに違いない。それを、ご近所さんとか、注文遅れたとか、そんな言い訳でごまかしてるのが透けて見える。そんなだからパパに愛想尽かされたんだよ。  なんてことは、あたしがママを選んだ時点で、絶対口にはしない。パパと離婚したママに経済的な余裕がないことくらい、十分わかってる。むしろそんなママだから、1人でやってけるのかって不安になったのだ。  反論すれば、「ママを責めたってなんにも出てきやしないわよ。ママだって贅沢してないんだから」なんてうじうじと泣かれながら、卒業までの7ヶ月、このセーラー服で過ごせと遠回しに言われかねない。  それだけは勘弁だ。それでなくても、あたしはこうして初日からつまずいてるんだし。 「そっちも違う制服だよね?」  そう聞き返すと、学ランの男子は少し下がっていた眉の片方をわずかにあげながらほんの少しの沈黙の後に頷いた。 「まあ、そこの学校のじゃないね」  まるで他人事みたいな言い方が引っかかって、改めて学ランの男子を見つめた。同い年か学年が1個下かくらい。しかもあの神宮さんより肌が白くて、まるでそのまま透き通っちゃうんじゃないかってくらい。袖の手首や詰襟の首はすごく細いし、学ランを着てなければ一見、男子ってわからない。しかも体とサイズが合ってないのか、学ランがぶかぶかしてる。あたしの体重の半分くらいなんじゃないか。ちゃんとこの子、ご飯食べてるのかな。 「ねえ、ここって、校舎だよね?」 「校舎だね」 「もう使われてないのかな」 「そうみたいだよ」 「なにしてたの?」 「外、見てた」 「この校舎で?」 「そう、この校舎で」 「授業、始まってるのに?」  そう言葉にしてからハッとした。この子はきっとここの生徒じゃない。  あたしは転校してきたばかりだけど、目の前の子は同じ転校生には見えない。なにせ、あたしは第ニ学期の始業式でもなく、中途半端な10月末に引っ越してきたのだ。  せめて卒業してからでもよかったんじゃないか、とは言えなかった。受験に影響することをママなりに考えてくれた結果だからだ。どちらにしても、あたしと同じタイミングで転校してくるなんてことはめったにないはずだ。 「いいんだよ、僕は」  そう言ってその子はふっと視線をあたしから逸らして、横を見た。その横顔に、あたしはほんの少し、自分の心臓が不思議な色に染まるような気がした。心臓に色があるなんて、自分でも意味がわからない。でもなんだか薄い青と紫の遠く霞んだ色が心臓を循環したみたいで、体がすうっと寒くなった。  でもその子はあたしが叫んでいた教室のある廊下の方を見たままで、時計の針を止めたように身動きしない。呼吸さえしてないんじゃないかって思うくらい。その子の横顔の向こうにある感情なんて、こそりとも音を立ててくれない。  震えた。少し、寒い。  スカートの下の足に昇降口の扉の隙間から、風が入ってきてるみたいだった。 「あたしも、いいんだ」  その子に聞かせるともなく呟いた。でも思ったより声が響いて、その子はあたしをまた見た。呟いたつもりでも、普通の話し声の大きさと変わらないってあやのんに呆れられてたっけ。  あと半年で受験する高校を決めて、それに向かってがんばるなんて至難の技、成績なんていつもクラスの真ん中のあたしがどうこうできる問題じゃない。前の学校なら、県内のどこの高校がどんな感じでどんなレベルかなんて、先輩や友達からなんとなくわかってたのに、東京のなんて全然わからない。だから、あたしに見合っていてアパートから自転車通学できる公立高校なら、どこでもいい。  だいたい、我が家の経済状況を考えたらむしろ卒業して働いた方がいいんじゃないかなあ、なんて。  あたしのことじゃなくて、と前置きしてからそんなことをママに聞いたら、険もほろろに「この時代にありえない」とばっさり、たてつく島もなかった。 「ねえ、外見てたって言ってたけど2階?」 「違うよ。屋上」 「うそ、ここ、屋上出られんだ? そこの階段あがってけばいい? 鍵、開いてんのがな? さっき向こうの教室でさ、空の形がこんなに違うって驚いたんだ。でも屋上からだったら、また違って見えるがなと思ったんだべ」  まくしたてた後でハッと口をつぐんだ。つい興奮すると、あたしは抑えようとしていた方言が出てしまうみたいだ。  あたしが生まれ育った町は、標準語のような言葉遣いでも、終わりの語尾があがるようにしてなまる。大阪や福岡みたいにわかりやすい方言だったりかわいく聞こえるものだったら、周りの反応も違ったんだろう。  その子は、あたしの、東京の人間が使いもしないなまりにわずかに目を見張った。一瞬だけ見開かれた両目は、まるでガラスで作られてるみたいにひんやりとあたしの心の奥底をのぞき込むみたいだった。 「屋上、行きたいの?」  やんわりと聞かれて、なんだか急に恥ずかしくなった。なまり全開の大声で初対面の男子に屋上行きたいとか、空の形がとか、何言ってるんだろう。  別にいいと小さく否定したけど、その子はすでに踵を返していた。 「こっち」と言いながら。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加