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校舎はどこもかしこも、前を歩く男子のガラスの目みたいにひんやりしていた。生徒はもちろん先生の気配なんてものもない。
ただあたしが歩くたびに、ほこりやちりにまとわりついた光の粒が空気中に舞って、なにかあたしには理解できない言葉で話をしてるみたいだった。
黙って3階分の階段をのぼり続けたその先に1つの重そうなドアが見えた。
鉄製の、小さなガラス窓が付いている扉。クリーム色に塗装されてたんだろうけど、もう使われないそれは、ところどころ皮膚が剥けるみたいにはげて、下の赤っぽい錆がむきだしになっていた。
のぼってきた階段も、隅には丸まったほこりがたくさん落ちていたし、壁のコンクリートもところどころ欠けたものが床に落ちていた。
どんどん時間が、この校舎を蝕んでいた。
ギイ、と甲高くて重さを感じさせる音がして、あたしは振り返って見下ろしていた3階から屋上の扉の方に顔を向けた。
少しドキドキする。
ママが子供だった頃よりも昔、屋上って生徒も出られる場所だったらしい。でもあたしは、前の学校でも屋上に出るなんてことをしたのはたった一度きりだ。しかも美術の授業で、好きなものを写生していいって言うから、題材に空を選んだ。
あたしが屋上からの空を描きたいって美術の高橋先生に言ったら、あやのんやチッカも、ほかのクラスメイトも描きたいって言い出した。特に男子なんかはほとんど出られない屋上と聞いて、ほぼ全員が希望の手を挙げたと思う。本来の目的とは別の思惑をもって。といっても、ここの学校と違って男子の数なんて10名ちょっとの少なさなんだけど。
でも高橋先生の監督のもと出た屋上は、とにかく広かった。
空と、あたしたち。空と、あたし。
何も遮らない、邪魔しない。
屋上ってあたしには縁のないものなのに、目の前の男子はさして感慨もなく、扉を開け放った。
もう少し、封印をとくみたいな厳かさがあればいいのに。なんて勝手なことを考えてたら、「鍵、壊れてるんだ」と少し言い訳がましい口ぶりで呟きながら、その子は屋上に出た。
あたしもその後ろについて足を踏み出した。
「あ」とこぼれた声は、尻つぼみに下がって消えた。
膨らんでいた期待が音を立てて抜けていくのが、あたしの耳には確かに聞こえていたと思う。
灰色のコンクリートそのものの床はごつごつとして職員用スリッパでは歩きにくいけど、ほんの少しだけ祈る気持ちであたしの背よりもはるかに高い鉄柵に近づいた。
教室の窓から見た空と、ほんの少し位置と高さが変わっただけで、どうしてあたしのほしい空がそこにあるなんて、思ったんだろう。
歪にカッターで切ったみたいな空の線。あたしが知らない空だ。
「なにを期待してたの?」
少し距離を空けて並んだその子があたしと同じ方を見あげながら聞いた。
あたしはあまりにも見たことない空に泣けてきて、返事の代わりに口の中で奥歯をきゅっと噛みしめた。日本のどこにいても地球のどこにいても空なんて見えるし、違う空なんてない。そう思ってたのに、急に1人ぽっちで放り出された空は歓迎なんてしてくれない。
教室に戻ることもできず、この屋上を去ることもできず、黙って空ではなく、地上を見下ろした。あたしの目の位置よりも高いところには、たくさんの冷たい線が走ってる。数学みたいな世界の羅列に、あたしはうんざりする。白や黒や灰色や、そして、空の色をした、どっかで見たことのある風景。きっとテレビやネットや誰かの声に乗って流れてきたんだろう写真や映像の中の街。
その端っこの方に、まるで這いつくばってるみたいに低い建物。あのうちのどれかが、きっとあたしがママと住んでるアパート。なんとかこの街にへばりついてる。
「ぼくは、ここからの眺めが好きなんだ」
ろくすっぽ返事もしないで、目の前の光景を睨んでいたあたしは、隣に人がいたことを思い出した。
「これが?」
「これ?」
少しムッとした声が返ってきた。
「……だって、なにも、ないじゃん」
「なにも? なにもって?」
二度繰り返さなくたっていいじゃない。
「きみの目、ちゃんと見えてる?」
鼻を鳴らすようにその子が笑った。ばかにされたんだ、とわかった。
隣を見ると、その子は鉄柵の向こうじゃなくて、まっすぐあたしを見ていた。そのまなざしは、ひんやりを通り越して、凍えそうになるくらい透き通っていて冷たい。それを跳ね除けるように見返した。
「ビルとか道路くらいは見えてるに決まってんだべ。でもそればっかじゃん。全然、空なんて狭くてさ、くすんでるしきれいじゃない」
「だから? それがぼくがこの風景を好きだっていうことを否定する理由になるの?」
唇を噛んだ。
正論だ。謝るのはあたしの方だ。
そうわかっていたけど、でもごめんなさいの言葉は喉の奥に引っかかって出てこない。この風景を、建物ばかりで空が狭い、窮屈なこの世界をどうして、好きだなんて言えるんだ?
「きみが見てきた景色がどんなにすばらしく美しいものかは知らないけど、それはぼくの主観を否定する理由にはならないよね?」
繰り返された言葉は辛辣だった。
返す言葉もない。
屋上のフェンスから離れた。振り返らずに早足で鉄の扉へと向かった。
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