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こづゑ
店主が人の気配を感じて顔を上げると、入り口近くの雪洞がぽうっと点灯した。同時に店の引き戸がカラリと開き、客より先に冷たい外気が店内に入り込んだ。
「あのう、予約していないんですが……いいですか?」
「まみあな耳かき堂へようこそ。どうぞ、ちょうどあいていますから」
店主が招き入れると、客はほっとした様子で狭い三和土に足を踏み入れた。五十代くらいの女性だ。身なりには清潔感があるが、無造作に結んだ髪や丸めた背中に疲れた雰囲気が漂っている。
「靴を脱いでお上がりください。こちらの台帳にお名前だけいただけますか?」
彼女はくたびれたスリッポンを脱いで四畳半の端に上がり、言われるまま文机に向かって鉛筆を持った。台帳には「月見里こづゑ」としっかりした楷書が綴られていく。
「ご記帳ありがとうございます。服はそのままでもいいですし、着替えも用意がありますよ」
「あ、じゃあ、このままで……二十分で終わりますか?」
「充分です。では早速、こちらへどうぞ」
店主が畳の上に正座して膝に手ぬぐいをかけると、こづゑは少し躊躇してから横になり、おずおずとそこに頭を乗せた。
「お忙しいんですね」
店主が薬缶から桶に浅く湯を張りながら言うと、彼女は入り口を向いたまま頭をわずかに傾けた。
「あと二十分で、ヘルパーさんが帰ってしまうので」
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