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「そうでしたか」
店主は柔らかなガーゼを湯に浸し、少し空気に触れさせて冷ましてから彼女の左耳を包んだ。
こづゑがほうっと息を吐く。耳の中で温められた空気が緊張を溶かすように、彼女の横たえた体から力が抜けた。温かいガーゼでゆっくりと外耳を拭っていくと、膝に触れる頬の動きで、彼女の口角が上がったのが分かる。
「熱くないですか?」
「いえ……大丈夫です」
こづゑが微笑みながらまぶたを下ろすと、店の入り口にある雪洞から灯の珠がふわりと浮き上がり、明度を下げながらゆらゆら移動して来て店主の手元を照らした。
店主はガーゼを桶に戻し、水で薄めた薄荷油に綿棒を浸す。その濡れた先端で外耳のひだを優しくなぞっていくと、こづゑが目を閉じたまま息声で呟いた。
「いい匂い…… 」
いきなり耳かきを差し込まれるより、こうして手順を踏んだ方が客はリラックスできる。店主は綿棒を竹の耳かきに持ち替え、傍らに黒い懐紙を置いた。
「あの、お婆さん……いえ、店主さんは」
こづゑが耳かきの感触にぴくりと肩を震わせ、遠慮がちに聞く。
「失礼ですが……老眼は、大丈夫なんですか?」
「ええ、私は運がよかったようで。目だけは衰えませんでした」
何か不自然なことを指摘されたとき、「運がよかった」は便利な言葉だ。大抵の齟齬はこの一言で穏便に済ませられると、店主は長年の経験で学んでいた。
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