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戸が閉まると、雪洞の中に戻って入り口を照らしていた灯がふわふわと飛んで来る。畳に正座して客を見送った店主の指差しに応え、灯は台帳に書かれた文字の上に留まった。
「久しぶりに見たね、この字。覚えているかい? 『こづえ』と読むんだよ」
灯は了承を示すように、ちかちかと点滅した。
「じきになくなってしまう字かもしれないけれど、お前は覚えておきなさい。あとこの苗字はね、『やまなし』だよ。山が無いから月見ができる里という言葉遊びだ。風情のある名前だね」
店主は三和土に下りて草履を履くと、二つ折りにした懐紙を片手に引き戸を引いた。暦の上ではもう春だが、吹きすさぶ風は一年で一番冷たい。
店主は飛び石伝いに小さな平屋の裏に回り込み、一本の木の前に座り込んだ。木の根元に半分埋まった小さな祠に、そっと懐紙を納めて手を合わせる。
寒さに葉を落とした木がほんのひととき、ぼんやりと光ったように見えた。
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