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結婚相談所を訪れた俺は、すぐ解約手続きを申し入れた。
碓井さんは、何も言わずに解約の書類を持ってきた。
「……志水さんには、大変ご迷惑をおかけしました」
志水さんとは、結婚相談所のアプリで連絡を取り合っていた。
俺が発情期を終え、改めて志水さんにお詫びをしようとした時には、志水さんは既に退会していた。
「お詫びを伝える方法はないんでしょうか?」
「お気になさらず。そういうシステムなんですから。縁がなかった方とはさらりと後腐れなく終わる。気まずさは早く忘れるのが一番いいんです」
淡々と碓井さんは告げた。こことここチェック入れて署名をお願いします、と指で示す。
「しかし、あんな恥ずかしい目に遭わせて、何もお詫びしないのではあまりに失礼です」
「狭山さん」
碓井さんは書類から顔を上げた。
「私は、皆様からお金を頂いている以上、スムーズに事を進めるのが仕事だと思っていますし、色々お節介もいたしました。婚活を円滑に進めることが私の仕事です。しかし、結婚相談所とは、必ずしも結婚を成立させる場所でなくとも良いという持論があります」
碓井さんは、そこでわずかに微笑んだ。今までのそつのない綺麗な笑みではなく、はにかむような表情だった。
「自分はなぜ結婚が必要なのか。一人で生きていける人だっているわけです。皆様、それぞれ事情を抱えていらっしゃる。自分はどういう人間なのか、何を求めているのか、それを知るだけで相談所に登録した意味がある。そう思って頂きたくて、きちんとカウンセリングも行うんです。しかしながら、カウンセリングというのは時間がかかります。問題に気付くのは自分、解決を見いだすのも自分。答えは自分の中にしかないからです」
人と人が知り合うことで、その答えが早く導き出されることがある。碓井さんは続けた。
「あなたも、私には言えなかったことを、志水さんには言えたんでしょう」
碓井さんの声は、俺を責めてはいなかった。労るように、瞳が微笑む。
「傷ついても、気づかなければ前に進めない。結婚相談所は、人生の通過点なんですよ。意味がなかった。結果が全て。そうおっしゃる方のお気持ちも分かりますけどね。でも志水さんは」
登録して良かった。そうおっしゃって頂けました。碓井さんはそう言った。
「身内に勧められて登録して、適当に時間を潰せばそれでよかった。また自分が誰かを想うようになるなんて思わなかった。自分の心は、死んでいなかった。それが分かっただけで、あなたに会えて良かったとおっしゃっていましたよ」
コーディネーターとして、感無量でした。碓井さんは感慨深げにそう締めくくったが、俺は足が震えていた。
申し訳なさでいっぱいだった心に、焦りや、後悔が滲んでくる。もっと、もっとあの人に向き合えば良かった。志水さんの表情や言葉を思い出そうとしても、後悔の渦に巻き込まれ、かすかな記憶が消えてしまう。俺の足は焦燥で震えが止まらなかった。
「碓井さん、ルール違反なのは承知の上です。何とか、志水さんに連絡を取って頂けませんか。お願いします」
机に身を乗り出した俺を、碓井さんは椅子を引いて避けた。
「そんなことができるとでも?」
「そこを何とかお願いします。碓井さんを通して手紙を渡せるだけでも構いません。どうかお願いします」
俺は机に頭を押しつけた。碓井さんの椅子が、もっと遠くなる気配を感じる。
やはり、駄目か。身体の力が抜けていくのを感じ、俺はそのまま机に突っ伏していた。
「……志水さんには、登録したままでもいいじゃないかと言ったんですけどね。これからは、自分の足で動きたいって言われました。あなたの連絡先を教えるのは断らせて頂きましたけどね」
顔を上げると、碓井さんの指に挟まれたメモがぶら下がっていた。
「万が一あなたが連絡先を教えて欲しいと言ってきたら、教えてもいいかと訊いたら、これを渡されました。私は守秘義務を遵守しましたよね?」
微笑む碓井さんの手から、メモを受け取る。
それをしばし見つめた俺が礼を伝えるより先に、変わらぬ口調で碓井さんは告げた。
「またご利用になりたい時は、いつでもいらしてください。その際は入会金を半額にいたします」
◇◇◇
待ち合わせ場所に現れた志水さんを、一瞬誰なのか分からなかった。
志水さんの格好は、和服ではなかった。黒いセーターにダークグレーのコートを羽織っている。首に巻かれたマフラーだけが、和服の時と同じだった。
「志水さん……このたびは」
駆け寄ってすぐに頭をさげようとした俺を、志水さんは片手を差し出して止めた。
「待ってください、狭山さん。最初から、お願いできませんか。できたら、初めましてから」
下げかけた頭を戻すと、志水さんの穏やかな微笑みがあった。
「知り合いから、でいいです。私はあなたと、婚活ではなく恋愛をしたいんです」
俺は、どういう言葉を、どういう態度を示せば良いのか分からずに立ち尽くした。
ただ、志水さんの優しい顔を、見つめるしかなかった。
志水さんは、迷子を見つけた大人のように、俺を安心させるように言葉を紡いだ。
「洋服を着るのは久々なので、身体が馴染みません。妙な歩き方をしそうですよ」
笑う志水さんに、俺は疑問を口にした。
「そういえば、どうして今日は和服じゃないんですか?」
「そりゃあ、今までは取り繕う必要などありませんでしたから格好など気にしませんでしたが、これからは少しでも好かれようと思って」
照れくささを隠すようにぶっきらぼうに答える志水さんの様子に、俺は思っていたことをそのまま告げてしまった。
「和服、とてもお似合いでした。俺は好きでしたよ」
志水さんが驚くより先に、俺は自分の言葉に驚いた。思わず口元を手で押さえる。
顔を上げると、志水さんは、嬉しそうに笑っていた。
「今度は、狭山さんもスーツ以外の服を見せてくださいね」
彼のように、気持ちをそのまま伝えるように、笑えていたかどうか分からない。
俺があんな笑顔を見せるまでには、まだまだ時間がかかるかもしれない。
だが、時間はある。
この人は、自分を見せるのが下手くそな俺に、ゆっくりと寄り添ってくれるだろう。
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