【53】それぞれの今日、明日

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【53】それぞれの今日、明日

   一命を取り留めためいちゃんは後に、 「死ぬ気なんかなかった」  と、はっきりとそう述懐している。  ただ、悲しみの縁に立って見据えた人生の向こう側には何もなく、生きることや死ぬことを考える余裕もないまま、足元に口を開けて待っている穴に落ちるしかないのだという絶望に、意識を絡めとられたまま窓の外へ飛び出して行ったそうだ。  六花さんが待っているだとか、死にたいだとか、はっきりとした意志があったわけではない、という。  坂東さんに無理を言って三因洞ビルを訪れた時、3階のフロアで長い間ただ壁際に座って外を見ていたそうだ。窓は初めから開いていたらしいが、空が見えるわけでもなかった。見えるのは裏庭に面して建つ向かい側のビルの外壁であり、目的を持って何かを見るという感覚も沸いて来なかった。  窓際に立てば見下ろすことの出来る裏庭に、秋月六花は落下し、死んだ。その事実を受け入れる為に現場を訪れたのか、真実を覆す何かを探し求めて訪れたのか、めいちゃん自身にもよくわからなかったそうだ。  坂東さんはめいちゃんの前に立って、丁度フロアの真ん中辺りで同じく窓の外を見ていた。めいちゃんではなく窓の外を見据えていたことが、今回の悲しい事故を未然に防ぐことが出来なかった原因だと、坂東さん自身がそう語っていた。  めいちゃんは壁にもたれてただ座っていた。その時は何故か、姉と過ごした時間が夢か幻のように遠く感じられたそうである。2人で生きた20年以上の時間が、嘘のように感じられた。突然別れも告げずに死んでしまった姉。優しくて、強くて、絶対に死なないはずの姉が、死んだのだ。何だったんだろう、私たちの時間は、何だったんだろう。 「お姉ちゃん」  気が付いた時にはめいちゃんは立ち上がって走り出していた。 「死ぬ気はなかった」  とめいちゃんは言った。ただし、 「生きていたいとも思わなかった」  とも言った。 「めい」  という坂東さんの声を聞いた気がするという。しかし坂東さんは声が出せないはずで、人よりずっと耳のいい自分が聞き間違えるはずはない。幻聴だろうと思ったそうだ。  めいちゃんはそのまま3階の窓から外へ飛び出し、六花さんが倒れていた砂利だらけの裏庭を見降ろした。死んで間もない今ならまだ、姉の声が聞こえるかもしれない。自分ならきっと、もう一度姉の声が聞こえるはずだと思った。  背後から追いかけてきた坂東さんが一緒に飛び降りたことを、めいちゃんは知らなかったという。耳元で、馬鹿野郎、という声が聞こえたらしいが、そこから先の記憶はないそうだ。  阿頼耶識一休から電話がかかって来た時、時刻は午前4時を回っていた。坂東さんとめいちゃんの眠る病室前の廊下に立ち、僕は携帯電話を耳に当てた。 「新開です」 「朝一番で、もう一度あの場所へ行く」  と一休女史は言った。「お前も付き合え」  聞かなくても分かった。『六文銭』本拠地、『暗鬼廊』である。 「分かりました。でも、何故あなたが?」 「直政から連絡がきた」 「生きていたんですね!?」 「生きているから連絡できるんじゃないか。何を言ってるんだ?」 「あ、いや」  当たり前の話と言われればそれまでだ。だが僕は心のどこかで、直政はもう自分から連絡を寄越す気がないのだろうと腹をくくっていた。携帯電話も解約したと聞いていたし、行動を共にしているであろうビスケさんからも折り返しがかかって来ることはなかった。そこには諦めというよりも、直政なりの覚悟を感じていたのだ。 「あいつらも朝一番であの場所へ向かうそうだ」 「直政が。何故なんでしょう?」 「知らん。最後に片付けるべき仕事が出来た、とい言っていた。あの山にほど近い公衆電話からの発信だったからな、もうすでに近くまで行ってるんだろう。何をするつもりなのかは知らんが、わざわざ連絡してきたところを見ると、やはりこの私の手助けが必要なんだろうな。まったく最後までの手のかかる奴だよ」  言いながら、やはり一休女史はどこか嬉しそうだった。それは直政の無事が判明したからという理由で間違いないのだろうが、僕にはまだ喜ぶことなど出来なかった。例え今直政が生きているとしても、明日どうなるかは分からないのだ。ビスケさんに会って、直接直政の死因を確かめるしかない。それには再びあの場所、『暗鬼廊』を訪れるより他はない。それに、僕もこのままでは終われないと思っていたところだ。 「ついでに」  と一休女史が言う。「あの男を潰してやろうと思ってな」 「あの男。……壇、滅魔ですか?」 「名前は知らんよ。あの、グレーの詰襟を着たお前くらいの年の男だ」 「日隠、ですね」 「ヒカゲというのか。私と同じ匂いを感じるよ。あいつは多分私じゃないとどうにもならんだろうな。お前にはそれ、あの奇術を使う鷲鼻の地黒のジジイをくれてやると言っただろう?」 「分かりました。あの場所にはいまだ囚われの人間がひとりいますから、そちらの救出もかねて、僕も今から向かいます」  曽我部与一である。青南の身柄がこちら側にある以上、やはり何とかして救出する方がいいに決まっている。壇の打つ呪術をいかようにして掻い潜るかという難題は未解決のままだが、現段階で呪詛が打たれていないのであれば、まだ僕にも手段は残されている。 「そっちに三神はいるか?」  と一休女史が聞いた。僕は一瞬どう答えたものか迷ったものの、 「いいえ、いません」  と正直に答えた。 「そうか」 「何故ですか?」 「電話がかかって来た。だが出ても何も言わないし、その後折り返しても今度はあいつが取らない。面倒な男だな、あれも」 「はあ。……三神さんが」  僕や柊木さんがかけても出ないくせに、自分は一休女史に電話をかけていたのか。 「……」  いや、果たして、本当にそうか? 「なんだ、急に黙りこくって」  ……まさか? 「ひとつ聞いてもいいですか」 「なんだ?」 「直政や三神さんからかかって来たという電話は……本物ですか?」 「ああ?」  どういう意味だと問われ、説明に困った。僕としても確証があって言っているわけではないのだ。僅かな綻び、いや綻びとも呼べない程の小さな違和感を頼りに思いついたままを口にしたに過ぎない。あの日、阿頼耶識一休も『暗鬼廊』にて壇滅魔や刑部扇雀と顔を合わせている。どこかの段階で催眠術を掛けられていても不思議ではないのだ。  催眠術というものは、第三者が見れば馬鹿馬鹿しく滑稽にも映るだろう。だが当の本人が術に落ちた場合、全くそのことを自覚出来ないばかりか、前後の記憶を失う事さえ起こり得るのだ。例えば『刑部の声』や『毒物』が術に落ちる起爆剤だと理解出来ても、その前段階である催眠への導入部、いつ何をされたのかということに関しては絶対に認識出来ない。認識出来るなら、最初から催眠術になどかかっていないのだ。  ずっと連絡の途絶えていた穂村直政からの電話。  何度かけてもつながらない三神三歳からの電話。  果たしてそれらが本人からのものであると、一休女史は認識、証明できるだろうか。 「い、一休さん、ひょっとすると」 「何だって構わないさ」  快活とも言える一休女史の声が耳に響いた。「向こうで会おうじゃないか。答えはそこにある。握った拳が当たる相手なら、私には何も問題などない。だがお前のことはお前でやれよ、私は知らんぞ」 「……分かりました」  じゃあどうして電話して来たんだよ、とは思った。だがある意味一休女史らしい言葉だとも思ったし、実際彼女はその言動から受ける印象程冷徹なわけではない。自分の意思を最優先させる人種なだけで、決して非情ではないのだと今の僕ならば分かる。  それに、僕たちの目の前に広がる真実がどうであれ、何であれ、このまま手をこまねいて見ているわけにはいかないのだ。六花さんも言っていたじゃないか。……絶対に諦めるな、と。  眠っていた妻を起こし、彼女と坂東さんに、壇滅魔のもとへ行くと伝えた。この先何が起こるか分からない以上、嘘をつくわけにもいかなかった。むろん妻は止めた。しかしただ待つことの恐ろしさを全員が理解していた。  次は誰がいなくなるのか。  皆がその恐怖に震え続けている。  壇の計画が全て終わったとも思えない。  誰かが壇滅魔を、皆瀬九坊を止めなくてはいけないのだ。 「君じゃなくたっていいじゃないか」  と妻は言った。成留はどうなるのか。もし僕の身に何かが起きた時、残された私と成留はどうなるのか。何故君なんだ。何故新開水留なんだ。 「考えがあります」  と僕は答えた。「絶対に生きて戻ります。それだけは約束します。問題は、人を呪う壇滅魔の術がどこへ飛んで行くのか読めない点にあります。例え今この病院でじっと待っていても安全とは言えないんです」  僕は坂東さんを見据えて言った。 「動けないめいちゃんの為にも、坂東さんはここで彼女と妻をお願いします。可能なら柊木さんに頼んで成留もここへ呼んで、一緒にいてもらう方がいいかもしれません」 「待て」  坂東さんが答えると、妻は驚きのあまり体をびくりとさせた。今の今まで坂東さんが話せるという事実を知らされていなかったのだ。坂東さんは驚きのあまり身を固くする妻の気配を感じ取りながらも、 「俺が動けるようになるまで待て」  と言った。だが、そう言う坂東さんはむろん、全身を包帯に覆われたままである。僕は見えないと知っていながら首を横に振り、 「時間がありません」  と答えた。 「……西荻も一緒か?」  と坂東さんは問う。 「いえ、文乃さんは、一緒ではありません」 「どうして」 「用事があるそうです」 「この期に及んでどんな用事があるってんだ」 「分かりません。ですがあの方がそう仰るんなら、余程大事な用事なんじゃないでしょうか」 「三神のオッサンとも連絡がつかないんだろう。ならお前、ひとりで行くつもりなのか?」 「いえ。この世で最も強力な助っ人が一緒です。それに」 「それに?」 「念には念を。あともうひとり、おそらく奴らの計画の外側にいるであろう、あの方にも……」  そして、僕たちは本当の闘いの火蓋を自らの手で切って落とした。しかしそれがどんな意味を持っているのかを知らないままだった。僕たちはまだ、壇滅魔の本当の計画を、なにひとつ理解していなかったのだ。
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