521人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
【43】暗夜行(2)
ドオン!
突如重たい音が響いて背後で観音扉が閉じた。唐突さに驚き振り返った僕の、すぐ後ろ、
「ギャアアアアアアアアッ」
「何だ!?」
唐突に響いたそれはいつぞやに聞いた、キヨミちゃんの絶叫だった。驚きのあまり次の語を失う僕を見つめる刑部の目が、三日月型に嗤っていた。
「スイッチ、オン」
その言葉の意味が分かった瞬間、全身から血の気が引いた。
……まさか、あの時聞いた絶叫が催眠術のトリガーだったのか? つまり僕は、三神さんに出会い蛤を食べる前から催眠をかけられていたのだ。ミョンヨンが僕からの電話を認識せず、エレベーターホールで白い手を見たという記憶を失った理由も、同じくこれだったのか。
「お前……」
やはりあの日、あの時、秋月六花はビルから落ちていたのだ。幻覚を見たのはキヨミちゃんではなく、刑部の催眠術に落ちた僕の方だったのだ。この女は、ビルから人が落ちたと本当の事を叫び、だがその真実を僕の目から覆い隠したのだ!
「ぐううぅッ!!」
……ひいらッ
はたと気付いた時、今の今まで僕の隣に立っていた筈の柊木さんの姿が消えていた。僕は慌てて観音扉を力任せに押し開いた。
「な」
その時僕は信じられないものを見た。柊木さんだけではない。玄関ホールに居並び気色の悪い掛け声を上げていた40名からの若者たちが、ひとり残らずいなくなっていたのだ。
「あははは!」
刑部が高らかに笑い声を上げて走り出した。着物姿だと言うのに恐るべき足捌きで暗がりの廊下を奥へと逃げて行く。彼女の姿が遠のくにつれ、センサー制御の照明がガガンガガンと明滅を繰り返しいくのが弥が上にも焦燥感を煽った。しかし僕はただ茫然とその姿を見送るばかりで、消えた柊木さんを探して視線をあちこちに彷徨わせた。
「う、噓だろ……」
何が起きたのか分からなかった。
僕と柊木さんは揃って暗闇の回廊に足を踏み入れた筈だ。しかし突然背後で扉が閉まり、そして殆ど時間を置かずに押し開いた時には柊木さんも、白詰襟の若者たちも消えていたのだ。
「催眠、術。……これが?こんなにいとも容易く?」
柊木さん、と大声を上げて呼んだ。僕が認識出来ていないだけで、本当はこの場に皆いるんじゃないのか、そう思ったのだ。だが、僕の目に映るのは巨大な洞窟を思わせる空虚な広がりと、背後には濁った気配が漂う光のない廊下が口を開けているばかりだ。
「柊木さんッ!」
一体、どうやってこんな……。
「どうし」
――― いや。
どうしてもこうしてもない。最初から柊木さんを殺すつもりならわざわざ連れ去る意味などない。全ての答えはこの先の部屋にいる壇滅魔が持っている。行くしかなかった。例えひとりでも、先へ進むことでしか答えは得られないのだ。
50メートルは歩いただろうか。
数秒間隔で天井から照らされる光はかなり眩しかったが、それでも前方と後方は共に漆黒の闇に包まれており、距離感を狂わされた。動く廊下の上を延々と歩かされているような気にもなり、本当にこの先に壇がいるのかさえ怪しく思えたきた。その時だった。
ドタッ。
かなり重たい何かが落ちる音が聞こえた。20メートル程後方だった。僕はぞっとして振り返るも、音のした場所にはなぜか照明が灯らなかった。何かがいるのは気配で分るものの、もちろん視界はきかない。もしかしたら照明は一度に一か所しか点灯しない仕組みなのかもしれない。ならば、僕がこのまま立ち止まり、後方の何者かが動けばそちらに照明がつく道理である。
だが、正体の分からない存在が閉塞感のある廊下に現れたのだ。ただ待つという行為は生来の臆病者である僕を芯から震え上がらせた。
「何だ……」
感じたことのない気配だった。距離が離れているからだろう、人なのか、霊体なのか、それさえ判然としない。あの音を聞いた限り、質量のある何かであることは間違いない。しかし、霊体特有の濁りのような怖気も漂よわせている。
三神さんたちの話では、この廊下には魔が潜んでいるという。長い髪の女で、身体が蜥蜴のようだったそうだ。まるで妖怪である。そんな物がこの世に存在するとは思えないが、あるいは催眠毒がもたらした幻覚という可能性もあった。
もし、先程聞いた刑部扇雀の絶叫が催眠効果への引き金だったなら、僕は世にも恐ろしい怪物を目の当たりにする羽目になるかもしれない。
ガガン!
照明が灯り、僕は思わず1歩後ろへ下がった。
「……」
それはほとんど動いてはいない様子だった。
僕が歩いてきた廊下の後方20メートルの地点に、それは立っている。いや、立っていると形容していいのかも分からない。まず、髪の長い女の顔が見えた。泥水につけてそのまま何日間も放置したような髪の毛束が邪魔をして、人相はよくわからない。問題は身体。はっきりと見えるわけではないが、確かに人間の身体ではない。緑がかった太く短い両手を廊下についてこちらを見ている様子は、僕には座っているようにも見えた。
「蜥蜴……いや、蛙か?」
四つ足で地を這う爬虫類か、もしくは両生類のようである。腕の外側の皮が黒ずんでおり、見ると両手には水かきのようなものがついていた。
「何のつもりだ」
だがここへ来て、不思議と恐怖心が消えた。人間の女の顔をした化け物は、その場から動かずにじっと僕を見ている。もしこれが刑部のかけた催眠による効果でないなら、壇滅魔は自分の城に半人半妖の怪物を飼っていることになる。悪趣味だとしか言いようがないし、そもそもどのようにしてあんなものを生み出したというのか。
「……腹蟲、なのか?」
ふと、その可能性に思い至った。呪禁師である壇滅魔の出自を辿れば、ありえない話ではないと思ったのだ。
蟲毒、という術がある。爬虫類、昆虫、小動物などを何十匹も同じ容器、あるいは小さな洞穴などに閉じ込めて殺し合いをさせ、生き残った者の生命力と死んだ生物の恨みを呪力に変えて術と成す禁じられた呪詛である。本来呪禁師はそれらの呪いから人々を防衛する為の呪医だったわけだが、彼らはその技法を熟知していたのだから扱えぬはずがない、という推測も成り立つ。
そして腹蟲とは、その蟲毒で生き残った勝者を死んだ人間の腹に詰めて蘇らせる呪術である。するとたちまち人間の肉体は時の勝者である犬猫、昆虫、あるいは何某かの爬虫類に似せて変化し、頭部は人のままという恐るべき呪物が完成する。人間の死者は若ければ若い程良いとされ、より強く無念を抱いた死者が好ましいとされる。これは本来の蟲毒よりもはるかに強力な呪いとして効果を発揮し、この呪物を庭や家の下に埋められた一族はことごとく崩壊し、血筋が完全に途絶えるとも言われていた。
が、もちろんそういう技法が伝承として文献に記録されているに過ぎない。そもそも成功などするはずがないし、そんな禁呪を人体相手に行う術師などいるわけがない。いないと思っていた。今、この瞬間までは。
「こんなの……僕にはどうすることも出来ない」
三神さんも幻子も、暗鬼廊から出る時にはその魔に出くわさなかったと話していた。人間に敵意を持った存在ではないのかもしれない。今僕の目に映るそれこそ、催眠によるまやかしだったらいいのに、そう思った。しかし、
「私が何者であるかご存知ならば、その言葉の意味は分かるはず」
呪禁師である壇がそう言ったということは、僕の推測は間違っていないのだろう。あの哀れな怪物はやはり、壇の作り出した愛玩用のペットなのだ。
「残念ながら、僕にはあんたにかけられた術を解く力はないんだ」
僕がそう言うと、その怪物は右手を一歩前に出した。
「来るな。……敵意がないなら、頼む、来ないでくれ」
左足が前に出た。
ペタ、という水気のある音が廊下に響く。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
照明が明滅し、怪物が一歩また一歩と僕に向かって近づいてくる。
僕は少しずつ後退し、ぐっと拳を握り込んだ。
あの怪物が本当に現代の腹蟲による犠牲者なら、土台となった人間はすでに死んでいる。そしておそらく腹部に埋められた蟲毒の生き残りは蜥蜴か蛙である。見た目にも恐ろしく、醜悪である。だがそれは悲しくも、人の底知れぬ悪意によって玩具にされた非生命体なのだ。あれが人間でないなら、呪い師として生きてきた僕にも止める手立てはある。だがその手立ては怪物の活動を停止させるという意味であって、決して命を救えるわけではないのだ。
「お願いだ、来ないでくれ」
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
怪物と、目が合った。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
「嘘だ……?」
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
ガガン。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
「……文乃さん?」
ペタ。
怪物の足が止まり、僕たちはほとんど手の届く距離で向かいあった。
生臭い匂いがした。
醜悪な肉体を持った出来損ないの蛙である。
しかしその蛙の身体にのっかった顔にある、両の目。僕が決して見間違えるはずのない目が、怒りでもない、悲しみでもない、ある種の優しさともいえる崇高な光を称えたまま僕の顔をじっと見上げていた。
怪物の目は、左側だけ色素が薄かったのだ。
4年前、僕が公安の収容施設に入ってすぐ、彼女が面会に訪れた時の記憶が蘇って来た。彼女はこれから先の見えない日々をそこで過ごすと決めた僕に、詩を読んでくれた。
「だけど俺は悲観しない。獣だらけの世界で、君という清廉な魂に出会えたからだ。ただそれだけで俺は前を向ける。この手紙が届くころ、君を悩ませ続けた夜が遥か後ろへ過ぎ去っていることを願ってやまない。邪悪な獣どもを置き去りに、さあコートを着よう、ブーツを履こう、外はまだ寒い」
俯いた僕の魂を導くように、文乃さんは力強い声で語りかけてくれた。
「俺は行く。決して誰にも辿り着けない、俺たちだけの地平線にて……いつまでも君を待っている」
僕はその醜悪な蛙を力一杯抱きしめた。
村瀬甘利はこう言っていた。
西荻文乃は、どこにも行っていない。
「文乃さん!文乃さんッ!文乃さんッ!」
彼女はずっとここにいたのだ。
いつ助けが来るとも知れない、この真っ暗な回廊にひとり。
最初のコメントを投稿しよう!