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【50】傷ついた世界(2)
カタカタ、カタ、カタタ……。
復讐。
そう、これは奴にとっての復讐なのだ。
泣いてる場合じゃない。
気持ちを立て直した坂東さんが、真っ赤に充血した目でキーボードを叩き、僕とめいちゃんの間に訪れた重苦しい沈黙を優しく押しのけた。僕の携帯電話にSNS通知が届き、見ると、
「幻子は何の夢を見た」
という文面が書かれていた。
ツァイくんが殺された日、僕が仕事用に借りているマンションでの出来事だ。壇滅魔の術によって4か月もの間予知夢を妨害されていた幻子が、
「おそろしいもの」
を見たのだ。その直後にツァイくんが惨殺されたことで、僕の中では幻子が見た恐ろしい夢は彼を襲った死の場面だったのではないか、という勝手な関連付けがなされていた。だが、坂東さんはそうは思わなかった。
「もしそうなら、幻子はそれをお前に黙っていると思うか。もしツァイの死を夢に見てしまったなら、お前を黙って帰したりすると思うか」
そう書かれた文面を読み、はっとなった。
優しさと思慮深さを兼ね備えた人間ほど、自分が窮地に陥った場面に限って他者を遠ざけようとするものだ。ましてや呪詛や霊障と言った目に見えない力を相手にすることの多い仕事柄、容易に他人を巻き込めないと考えるのも分かる。だが、もしも愛する人物の死を予見してしまったら、やはりそこは遮二無二助けを求めるんじゃないだろうか。例えばそれがツァイくんなら、ツァイくんが死なずに済む方法を皆で絞り出そうとするのが最善の手なのだ。
「幻子は、何を見たんだ?」
カタタ、と坂東さんの叩くキーボードが音を立てる。「何を、もしくは誰を」
時系列で見た場合、ツァイくんが殺されたのは一番最後である可能性が高い。1週間前に三因洞ビルから落ちた秋月六花、遺体が発見された場所(稼働していないエレベーターの上)から見て、少なくともこの1週間以内に亡くなったであろう土井零落。そう考えると、ほとんど差はないにせよ、やはりツァイくんの死が最も新しい。
では幻子は、予知夢でどんな未来を見てしまったというのか。もしその夢がツァイくんでないなら、彼より前に亡くなった2人の夢であるはずはない。
「幻子……君は……」
コンコン、と遠慮がちなノックが聞こえた。振り返ると居間と廊下を隔てる扉が開き、柊木さんが顔を出した。
「新開さん、ちょっと」
呼ばれて廊下に出ると、秋月六花の遺体の件で、と柊木さんは声を潜めた。今この話をするのは大変心苦しいが、警察が検死について煩く言って来ているとのことだった。
「チョウジ案件ということにして、私と、特例として坂東さんが立合うことは可能です。ですが、行政解剖をしない、という選択肢はありません」
「……分かりました」
僕は答え、居間に戻って坂東さんとめいちゃんに事情を説明した。2人は取り乱して抵抗するかと思われたが、そんなことはなかった。おそらくだが、喪失感のあまりの大きさに、無気力状態に陥っているのだと思われる。死んでしまったのだ。なら、あとのことなどどうなってもいい、どうでもいい。六花さんの死は、2人から日常的な感情を奪いつつあった。
「坂東さん、柊木さんと一緒に、お願い出来ますか」
僕がそう言うと、坂東さんは頭を振って、キーボードを叩いた。
「俺はやめておく」
「ですが」
他人の手に触れさせていいのか、と言おうとしてぐっと言葉を飲み込んだ。めいちゃんの前でそんなことを言えるはずがないのだ。坂東さんは僕ではなく、食卓よりも低い位置まで頭が垂れ下がっているめいちゃんのことを見ていた。
坂東さんは僕を一瞥すると、めいちゃんを見据えながら頷いた。
「めいのそばにいる」
キーボードは必要なかった。坂東さんの目には、何よりもその意思がはっきりと浮かんでいた。
そこから先の出来事を、実を言えば僕もはっきりとは記憶していない。
柊木さんに解剖の件はお任せし、翌日、死体検案書を貰いに行った。役場へは死亡届を提出しに僕とめいちゃん、そして坂東さんの3人で向かった。めいちゃんの衰弱は激しく、僕か坂東さんが横について支えなければまともに歩くことも出来なかった。受付で火葬許可申請の話をされ、僕はぼんやりと、人が死んだ時には火葬に許可が必要なんだな、とそんなことを考えていた。
葬儀はしない、とあらかじめ決めていた。六花さんの死を受け入れる準備も、送り出す準備も僕たちは誰ひとり出来ていなかったのだ。故人を強く思えばこそ、もっとしっかりとした対応と取らねばならないと頭では分かっていた。しかし、体に力が全く入らないのは、僕もめいちゃんと同じだった。
僕が遺体を発見した段階で、すでに六花さんの身体は腐敗が始まっていた。葬儀を行わないのであれば一両日中には火葬の手続きを、と柊木さんに言われ、火葬場への段取りを妻と一緒に行った。
六花さんだけではない。ツァイくんも、気丈に振る舞い続ける柊木さんの父、土井代表もいなくなった。彼ら一人一人が解剖され、検案書が発行され、火葬許可証を申請するのだ。いや、ツァイくんは本国に帰ってから荼毘に付されるのかもしれない。彼の死についてはその対応次第で外交関係の火種に発展する可能性が高く、チョウジの職員が慎重に動いてくれている。だが、台湾へ送還されるにしても今すぐにというわけにはいかないはずである。何故なら今現在も、ツァイ・ジーミンの頭部を抱えたまま三神幻子は行方を眩ませているからだ。
僕は少しの間ひとりにしてほしいと家族に断り、車で街をあてどなく彷徨った。最後にいつ眠ったのかを覚えていない。家を出しな、長時間車を運転しない方がいい、と妻に事故の心配をされた。僕は薄く微笑んで頷き返したが、いつまでたっても車を降りる気にはなれなかった。
どこにも行くあてがないのだ。
今僕は何をしているんだろう。
何がしたいんだろう。
考えがまとまらず、感情の整理もつかない、それでもだらだらと生温い涙ばかりが流れた。
ふと我に返った時、携帯電話の着信音が鳴っていることに気が付いた。どれくらい走っていたのだろうか、時間の感覚が失われたまま、僕は路肩に車を停めて電話に出た。
「新開オッパ?」
ミョンヨンだった。
「ああ。ミョンヨン、どうしたんだ?」
「話……したい」
「今?」
「……今、ダメ?」
「この電話で良いなら、聞くよ」
「おお、うん」
気の強いミョンヨンの歯切れの悪さが気になって、僕は背筋を伸ばして腕時計を見た。驚いたことに深夜2時を回っている。家を出てすでに4時間近く経っている計算だ。ガソリンの残量を見やると、エンプティランプが赤く点灯していた。
「あの時、私が見たものが、一体何なのか、今でも、分からなくって」
「……ああ。そうか」
ミョンヨンはあの日、大切な仕事、重要な任務を遂行するべく僕とは違うやり方で『暗鬼廊』へ乗り込んでいた。
実を言えば彼女は、坂東さんから紹介されて僕に出会うずっと以前から、『六文銭』本拠地へ近づく計画を練っていたという。僕はこの話をツァイくんの死後、仕事用のマンションで三神さん立ち合いのもとミョンヨン本人から聞いている。
「大切な、仕事」
だからあの日、『暗鬼廊』で白詰襟の衣装に身を包んだミョンヨンと鉢合わせしたことにも驚かなかった。問題は、彼女の目的である。ミョンヨンは壇滅魔の部屋に侵入することに成功し、僕が乗り込み、遅れて現れた阿頼耶識一休とともに部屋を出る際、壇の肩に触れている。そしミョンヨンはこう言ったのだ。
「見えた」
ミョンヨンは壇滅魔の身体に触れ、見たのだ。おそろしいものの、正体を。そう……ペク・ミョンヨンは、霊能力者である。
「人、だった」
と彼女は言った。
「人……見えたのは人なのかい? ミョンヨン」
「見えたよ」
「君が見えるというのは、君がその手で触れた人間の……過去、だよね?」
「うん」
「壇滅魔が何を企んでいるのか、君はそれを特定するために、野津天蓋を追って韓国から日本へやって来た。そして実際君は、あと一歩のところまで真実に近づいている」
「うん」
「君が見た、人物、それが何者なのか、君は分からないのか?」
「分からない」
「男かい? 女かい?」
「分からない。髪の長い、人。白い服を着て、とても、怒ってる」
「怒ってる?」
「怒ってるよ。とっても、とっても、怒ってる」
「……」
「オッパ。私、怖いよ」
「ああ。……僕もだよ、ミョンヨン」
「もうすぐ」
「……ん?」
「もうすぐ、あの怖いものがやってくるよ」
「……ミョ」
――― 恐ろしいものがやって来る。皆さんの大切なものが奪われる。気をつけて。気を付けて。恐ろしいものがやって来る……。
村瀬甘利の言葉が蘇る。
恐ろしいもの。
髪の長い、白い服を着た、怒れる人。
もしかして。
もしかしてそれは。
「壇滅魔でも、皆瀬九坊でもないのか……?」
ミョンヨンとの通話を終え、セルフのガソリンスタンドに立ち寄って燃料を補給した。妻から電話がかかって来たのは、その時だった。怒っているだろうな、と思いつつ電話に出ると、受話口を耳に当てた瞬間何も言われていないのに背筋が凍りついた。こういう時、僕の直感は嫌という程当たる。
「……先輩?」
何も言い出さない妻の空気に耐えられず、僕は自分から尋ねた。「何があったんですか?」
息を吸い込む音が聞こえた。しかし妻はなかなか声を発さず、僕は右手に赤い給油ノズルを握ったまま彼女の声を待ち続けた。
「せんぱ」
「めいちゃんが。……六花さんが飛び降りたっていう同じビルから、落ちた」
「……」
……え?
「……なんで?」
「聞いた話だから分からない」
「い、生きてるんですか!? 生きてるんですよね!?」
「分からないよ。まだ何も分からない。さっき柊木さんから連絡があって、めいちゃん、めいちゃんと一緒に、坂東さんも落ちたって」
「嘘だろ。嘘だよそんな……どうしてそんなッ!」
「新開くんお願いだから早く帰ってきて」
いつだって朗らかで、いつだって底抜けに明るくて、昔からずっと僕を勇気づけ、元気付けてくれた妻の怯えて震える泣き声に、僕はこの事件の本当の怖さというものを知った。
あの男の顔がちらつく。
あの男の笑い声がこだまする。
――― 事件は、まだ、終わっちゃないんだ。
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