【51】傷ついた世界(3)

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【51】傷ついた世界(3)

 本当のところ、何があったのかという正確は情報は分からない。  K病院に駆け付けた時、待ち構えていた柊木さんから聞いた話によると、病院に運び込まれた時にはまだ坂東さんには意識があって、ストレッチャーに乗せられて治療室へ向かう間中、柊木さんの手を握った彼の目がずっと何かを訴えかけていたそうだ。 「とても悲しそうな目でした」  と柊木さんは言う。「私個人的には、事件性はないものと思われます」  何故分かるのかと問うと、 「坂東さんの目を見た時、私、この人は謝りたがっているなって、そう感じたんです。自分がついていながらこんなことになって申し訳ない……そんな風に」  通報して来たのも坂東さん本人で、事前の取り決めにより彼からの入電は全て逆探知を掛ける手筈になっていた、という。そして電話をかける相手によって重要性が判断され、柊木さんへの電話であれば、彼女の方から坂東さんへ接触を図る。それが110番通報であれば、GPS機能で携帯の居場所を確認次第救急車両を向かわせる、という話になっていた。 「間一髪だったと思います。私たちが現場に到着した時すでに秋月さんに意識はなく、坂東さんも一時は意識不明でした」  ビルから落ちた、というのはどういう状況だったのか。 「確証はありませんが、秋月めいさん本人が、あのビルに入りたがったものと思われます。私の方にも坂東さんから、今現場に立ち入ることは可能かという問い合わせがありました。封鎖はされていますが、夜でしたから、入ること自体は可能だと、返事しました。……軽率でした」  めいちゃんから打診された時、むろん坂東さんは止めただろうと思われる。しかし、六花さんを失っためいちゃんの感情を無理やり押し留めることは、坂東さんにも出来なかったのだ。その気持ちは僕にも痛い程よく理解出来た。  だが。  だがしかし、だ。  それはつまり、と聞いた僕の問いに、柊木さんは頷いた。 「おそらくですが、秋月めいさんは、坂東さんの一瞬の隙を突いて、自ら飛び降りたのだと思います。坂東さんはそんなめいさんを助けるために追いすがり、自分も」  廊下の、少し離れた場所で僕たちの会話を聞いていた妻が、きゅるきゅると壁に両手をついたまま崩れ落ちた。硬いリノリウム貼りの床を叩き、どうして、と言って泣いた。 「幸い低階層だった為に即死は免れています。しかし軽傷ではありません、予断を許さない状況です」  駆けつけた公安職員の話によると、三因洞ビルの3階フロアに坂東さんとめいちゃんと思しき2人組の真新しい靴の跡が残っていたそうだ。窓が開いており、めいちゃんはおそらくそこから裏庭へと落ちた。六花さんが倒れていた同じ場所へ向かって、めいちゃんは飛んだのだ。 「それと」  柊木さんは声を落とす。「三神さんと、幻子さんにはまだ連絡がつきません。部下にも連絡先を伝えてかけ続けていますが、壇滅魔の放った毒物と催民術による認識の欠落が起きているのか、あるいは意識的に出ない可能性もあります」  後者だろう、と僕は答えた。  幻子とは、仕事で借りている例のマンションで会ったのが最後。三神さんとは『暗鬼廊』へ乗り込んだ僕に電話をかけて来てくれた時以来、連絡がついていない。だが2人に関しては、各々に何か強い意志を感じる。 「一旦退け。後のことはワシが引き受けた」  三神さんはそう言っていた。そこにはあるのは恐ろしいまでの覚悟だったのではないか……。 「成留ちゃんは」  と柊木さんに問われた。義母に面倒を見てもらっていると答えると、戻った方がいい、と言われた。 「ここまで待っていても辛いだけですから」  僕は柊木さんに頭を下げ、妻を連れて帰ってもらえないかとお願いした。 「新開さんは?」  少し頭を冷やして帰ります、と答えると、妻は頭を振って、 「新開くんのそばにいる」  と言った。 「なら、念のために人をやります。私も後でご自宅の様子を見に伺います。新開さん。坂東さんは頑丈な人です。絶対に死んだりなんかしません。めいさんもきっと……きっと、六花さんが守って下さいます」  そう僕たちを励ます柊木さんの視界は、きっと大きく歪んでいたに違いない。彼女は今、到底他人を気づかえるような精神状態ではなかったはずなのだ。  施された処置の甲斐あって、坂東さんとめいちゃんはなんとか一命を取り留めることが出来た。僕と妻は、意識の無い坂東さんとめいちゃんが並んで眠るベッドの間に座り、静かに話をした。今回の事件についてではなく、昔話だった。昔話といってもそれはついこの間、六花さんがいて、ツァイくんがいて、土井代表がいた頃の話だ。  思い出が溢れた。3人が亡くなったなどいまだに信じられず、実感もない。考えてみれば、僕たちの目の前で包帯をぐるぐる巻きにされている坂東さんやめいちゃんだけでなく、もちろん僕や、隣にいる妻、家で不安な夜を過ごしている成留や、三神さん、ひとりでこの街のどこかを彷徨っている幻子にも、壇の魔の手が伸びる可能性はいくらでも残されている。  しかし今僕たちの頭が思い浮かべるのは、幸せな日々の記憶だった。愚かな逃避と分かっていても、片時も現実の恐ろしさを忘れることなく前だけを見据え続けることなど出来やしない。  秋月姉妹と初めて出会ったのは、名前のない海上の喫茶店だった。坂東さんと初めて会ったのは、しもつげ村の古い家。僕たちはまだ大学生で、三神さんも今より随分と若かった。いくつかの事件を経て、『天正堂』という拝み屋の道を志すと決めた時、僕を導いてくれた三神さんは言うに及ばす、六花さんは何度も、 「本当に? ……え、本当に? 何で?」  と聞いてくれた。暗に、やめておきなよ、と言いたかったのだろう。拝み屋とチョウジ、そのどちらも経験して尚別の道を行く六花さんなりの、それが応援の仕方だった。偶然霊能を持って生まれたからといって、目の前に伸びている道をそのまま歩いて行ける程簡単じゃないよ、という叱咤の意味もあっただろう。それは、彼女が血のつながらないめいちゃんを引き取って家族に迎え入れた経緯を思い起こせば、十分過ぎるほど納得のいく意見である。  坂東さんもそうだった。  僕が拝み屋を志したのは、何も『天正堂』に憧れたからではない。三神さんの背中を見て、その生き様に感銘を受けたからだ。当時の僕らはまさに、霊障被害に日常を脅かされる弱き者の側に立っていた。事件に巻き込まれ、必死に抗う中で、戦い方と守り方を文乃さんや三神さんから学んだ。だからこそ、僕たちを救ってくれた三神さんの人柄に近付きたいと思うことは、僕にとっては極自然なことだったのだ。安易だとは思う。だが、今でもその時の気持ちに変わりはないし、後悔もない。ただそれと同時に、別の道もあるんだぞと新たな世界を見せてくれた坂東さんの存在も、僕は決して忘れるわけにはいかないのだ。  『広域超事象諜報課』、通称・チョウジ。ごりごりの公安エリート部隊である。僕はかつて、坂東さんの肝煎りと言われてチョウジの臨時職員をしていたことがある。一般的な犯罪事件ではなく、霊障案件であると思しき事件現場に出向いて行って、事の背景をつぶさに調査し、時には霊能力を駆使して解決に導くのだ。傍から見ればその仕事は警察職員となんら遜色のないものであり、大卒とはいえ何の資格も持たない僕が坂東さんと共に日本各地を飛び回っていたのだから、自分で思い返しても不思議な経験を積んだと溜息が出る。最初のうちはチョウジの同僚たちにも煙たがられ、快く受け入れてもらえたとは思っていない。それでも坂東さんは黙って僕を従え、警察の立場から見るこの国の現状というものを教えてくれた。 「被害者を救うということは、お前が考えている程甘いものじゃないし、綺麗なことでもない」  言葉ではなく、坂東さんと共に見る目の前の現実が、毎日毎日僕に直接語りかけて来る数年だった。若気の至りとは言え、僕は時に感情的になり、何度も坂東さんに食ってかかった。 「もっとこうすべきだった、もっと他にやり方があったんじゃないか、救う方法はあったはずだ、納得がいかない」  それはもしもと言い訳のオンパレードだった。坂東さんは、口は悪いが決して激情型の短絡思考ではなかった。つまり、僕なんかとは全然違う人だった。彼は常に優しく、思慮深く、根気強く僕を教え導いてくれたのだ。坂東さんがいなければ、僕はきっと、三神さんに憧れてただ後ろ姿を追いかけるだけの物真似呪い師になっていたに違いない。 「世界は、決して前にだけあるもんじゃない。後ろにも、横にも、上にも、足元にだって世界は広がっている。見たくないものだって全部見ろ、それがお前の生きてる現実だ」  ――― だけど坂東さん。僕はもう、目を開けて立っていられる自信がありませんよ。 「何で、こんなことになるのかなぁ」  妻が、坂東さんとめいちゃんを見つめたまま呟いた。僕はそれに対する答えを持たず、必死に探し続けた。しかし、泣き疲れた妻がいつの間にか眠ってしまった後も、やはりその答えは見つからないままだったのだ。  どうしても、眠ることなど出来なかった。  僕は鞄の中から封筒を取り出し、中から手紙を抜き取った。  秋月六花が書いた、遺書なのだという。  壇滅魔の言ったことが真実なら、それは六花さんが三因洞ビルから飛び降りる直前、自らの意志で書き残した最後の言葉である。  僕は今、その手紙に初めて目を通す。  これまでにも読むチャンスはあったが、その勇気が出なかったのだ。  B5サイズの便箋数枚からなるその手紙の書き出しは、こうだ。 「拝啓、これを初めて読むであろう、誰かさんへ。  おそらく、新開か、バンビか、三神さんのうちの誰かだろう。願わくば、何となくだけど、それが新開だったらいいなと思いながらこれを書いている……  
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