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【56】鳴動する穢れ(3)
一休女史が走り出しても廊下の明りは点灯しなかった、という。
……電気くらいつけてほしいね。
滝さんがボヤいた言葉がよぎり、なるほど、と一休女史は納得したそうだ。
いつの間にか寺川歩庸の接近を許したからくりも、分かってしまえば単純なことだったのだ。一度でもこの場所を訪れたことのある者ならば、廊下を歩けば照明が点くことを無意識に予測してしまう。つまり照明が点かないということは動くものがない、と脳が勝手に思い込んでしまうのだ。接近を許したのはその為だろう。おそらくこの時、廊下のセンサー制御はオフになっていたのだ。いかにも、人を翻弄することに長けている輩の考えそうなことである。
一気に距離を詰めた。
一休女史にとって暗闇は大した足枷にならない。肉眼ではっきりと、とまではいかないまでも、廊下のどの辺りに日隠が立っているのかくらいは確実に見えていた。
廊下を蹴って、大振りの右ストレートを奴の顔面に叩き込む。しかし一休女史が飛んだ瞬間、目の前で強烈な光が炸裂した。
「ぐッ」
視界を奪われ、着地した所を狙われた。鳩尾に前蹴りを食らって一休女史はひっくり返り、その上から大地を割るようなストンピング(踏みつけ)を受けた。なんとか両腕でガードするものの、反動で背中と後頭部を廊下の床に強か打ちつけた。タイミングを合わせて左脇で日隠の足を抱え込み、右手に握ったナイフを横一線に走らせる。しかし寸での所で真上に逃げられ、そのまま日隠は壁を蹴り後方に飛んで距離を取った。
一休女史は勢いよく立ち上がり、
「ペッ」
と口の中の血を吐き出した。「……お前、名前を何て言うんだ?」
突然の質問に面食らったのか、日隠は答えなかった。
「日隠というんだろう? 下の名前は何だ。私は阿頼耶識一休。何でも屋をしている」
「……何故聞く」
「知りたいからだよ」
「どうして」
「いやぁなに、どことなくお前には親しみを感じるんだよ。同じ世界を見て来たような匂いがする。しかしいくら思い出そうとしても日隠という苗字に覚えなどないし、私の記憶にはない。だがひょっとしたら下の名前を聞けば……」
「視力が戻るまでの時間稼ぎか? ならもっとましな話にしてくれ」
言われ、一休女史は「ふふん」と笑った。
「そうか、ならば話題を変えよう」
――― お 前 が 野 津 な の か ?
「……」
一休女史の問いに、日隠は無言で答えた。緊張感漲る数秒間が流れた後、
「当たりか?」
と一休女史がさらに問うた。
「何かと思えば」
日隠は溜息を吐き出し、やはり時間稼ぎか、と言った。落胆振りを相手に分からせる口調に嘆息を交え、「一体何の話だ?」と一休女史に聞いたという。
「ほお」
意外な返答に一休女史はニヤリと笑った。暗闇の中にいて尚、自分の笑みを日隠が見ているという確信があった。一瞬至近距離で相まみえた時、暗視ゴーグルのような代物を被っているのが見えた。廊下の照明を消していること、任意のタイミングで強烈な光を炸裂させたこと、そしてゴーグル。相手は全て準備していたと見える。一度はこの廊下を通った事のある人間が陥る罠に対し、奴らは用意周到で臨んでいたのだ。
「野津天蓋という名に聞き覚えがないと?」
一休女史が問う。
「ないな。誰だ、恋人か?」
「あははは、面白いじゃないか」
「そうか?」
「ただし」
「……」
「秋月六花を殺したのは間違いだったな。全くもって面白くないぞ」
「あ?」
「あの女は、当代随一と謳われた殺し屋の命さえ救おうとするような、生粋のイカれた女だったのだ。だがそんな人間をお前らは殺した。要するに、今この地球上で私に不殺を強制できる人間はもういない、ということなんだ」
「……はあ」
「さらには、力もないくせに下らない正義を喚き散らすあの新開をも、お前らは心底怒らせてしまった」
「下らないのはお前だ。能書きは良いから来い」
呆れたように言い放つ日隠に、一休女史はこう返した。
「結局の所、お前の敗因はそこだよ。自分から攻めてこない。今お前は私が視力を回復させようと時間稼ぎをしていると思っている。そしてそれが全くの無駄だと高を括っているんだろう。見えた所でどうにもならないと、奥の手を仕込んで待っているんだろう。だが違うんだよ」
「……」
「どうやら貴様はあまり目がよろしくないようだな。お前はそのゴーグルで何を見ていた? 私がずっと目を閉じている姿が見えていれば、悠長に私の無駄話に付き合うはずはないんだがな。催眠術か……それは目を閉じていて効くもんなのか?」
「な」
一休女史には、日隠の揺れ動く心情さえも見えていた。
「楽しみじゃないか。我らが黒の団と呼ばれる所以を教えてやろう」
――― 以前から話には聞いていました。
滝さんは穏やかな口調でそう言った。
目の前には5、60代と思しき声の男、『六文銭』術師・寺川歩庸。相手の姿は見えないが、距離は5メートルと離れていないように感じたそうだ。
「六文銭という団体のことは、私も小耳に挟んだことがある」
ゆったりとした滝さんの口調に、
「そうですか」
と寺川も呑気な声で返す。
「今はウォーターフォールサーカスという曲芸一座で、一応座長をやらせてもらっています。ですが、もともとは私も拝み屋でした。天正堂の」
「ほほう、そうでしたか」
寺川は驚いたような声を発し、道理で、と感心してみせた。「普通のお人とは違う貫禄を漂わせているなあとは思っていましたよ。……で?」
それがどうした、という意味だ。
「聞いた話では六文銭は、技術屋の集団だった筈なんですよねえ」
と滝さんは続ける。「膨大な知識と呪術を用いて現代の典薬寮とまで呼ばれた、誉高い一団だったんだなあ」
「いささか大袈裟に聞こえますが、まあいいでしょう。いかにも?」
「壇さんと仰る代表の方のことはよく存じませんが、なかなかどうして、人の道を外れていらっしゃる」
「……」
「そこに個人的な思いや理由があるんなら、真相を知らない私なんかが穿り回した所で納得のいく答えは出てこないのでしょう。だから寺川さん、あんたに聞いてみたいんだ」
「何です?」
「あんたや、後ろにいるお若いのや、着物姿の女性までいるというこの狂おしき一座は、一体何の為に揃いも揃って外道を歩んでいるのかな、と思いましてね」
滝さんの問いに寺川は黙り、間を置いて、こう答えたという。
「何の為に……かあ」
「よもや何も目的を持たず、人を殺して回っているなんて言いませんよねえ?」
「いやいや」
寺川は狼狽えた様子で否定し、質問の仕方がね、と続けた。「質問の仕方が、その前提の踏まえ方からしてもう、変なんですなあ」
「どういう意味かな? 私は何を間違えましたか?」
素直に尋ね返す滝さんに、寺川は言った。
「目的はもう遂げてしまったんです」
「……はい?」
「だからもう今更になって、何故、どうして、何が目的だ、と言われても困るんですな。もう別に、我らはこれ以上何もしませんから」
「つまり殺すことが目的だった? 台湾から来た結界師や、天正堂の代表や、喫茶店のマスターとして静かに暮らしていた女性の命を奪うことが目的だったと、そう言いたいわけですか」
「ええ」
「復讐ですか」
「それもひとつの理由ですね」
「壇滅魔という人はそれを良しとしますか?」
滝さんのこの質問には、さしもの寺川も押し黙った。
難しい問い掛けである。
寺川たちは常に『六文銭』であることを名乗って活動を続けて来た。現在彼らの頭領が壇滅魔なる浅黒い肌の男であること自体は、恐らく間違っていないと思われる。ただし、中身が違う。実際に存在している『六文銭』壇滅魔という男の肉体には、今現在『北桑田六文銭』皆瀬九坊という男の魂が入り込んでいるのだ。
此度の一連の事件において、全ての鍵を握る壇滅魔の中身が皆瀬九坊であったと知れた時、思考は混乱し、分裂する。
「この事件を企てたのは果たして壇ですか、皆瀬ですか」
滝さんがさらにそう問うと、寺川は溜息をついて、
「正直、分かりません」
と答えたそうだ。「私の知る壇がいつからその魂を手放してしまったのか、それは誰にも分からない。私などよりずっとあれに懐いていた刑部でさえも、本当の所は分からんらしい。だが」
「……だが?」
「別にいいんですよ。もともと壇が話していた夢と、今のアレが話す夢は同じでしたから。要するにそこに至るまでの道中が、まあ、あんたの言う人の道を外れてしまったというだけの話であって、結局は同じゴールに辿り着けたわけだから、別にいいじゃないかと。私も刑部も、後ろの日隠もそこは納得していますよ」
「恐ろしくはないんですか」
と滝さんは聞いた。中身が入れ替わり、別人になっていると知りながら、それでも別にいいと言ったのだ。滝さんは寺川の話を聞きながらずっと怖かったそうだ。
「いえ」
と寺川は答えた。「我々はもっとおそろしいものを知っていますから」
「あんたら……一体何をしたんだ」
滝さんはこの時、ただ単に邪魔な人間を殺した、復讐だ、と語った寺川の心のその奥に、秘められた真実が存在していることを感じ取っていた。まだ何かがあるのだ。まだ、何かが起きるのだと。
「さて」
と寺川が言う。「おしゃべりも飽きました。死にたくなければお引き取りを」
「あー。いやいや」
滝さんは言いながら、両手を使ってポンポンと体を叩き始めた。それは埃や蜘蛛の巣でも払っているような仕草で、
「そういうわけにはいきませんよ」
答える間も両手は全身をくまなく叩いて行った。
「何をしてるんです?」
寺川の問いに、
「選択肢を消してるんです」
と滝さんは言う。
「はい?」
「私は目があんまりよくない。こうも暗いと何も見えない。だけどあんたやあんたの後ろの若い人は何故だかよく見えているようだ。だからひょっとして、私の後ろにある重たい扉がどーんと閉まった拍子に、天井から光る粉のようなものが降り注いだんじゃないかなあと思いまして。そういう可能性もあるんじゃないかなあと思いまして」
「……」
「暗視スコップというんですか。暗視ゴーフルというんですか。何か、そんなヘルメットみたいなもの被って光る粉を見てるんじゃないかなあと思いまして」
「……それで、もしそんな粉が身体についているとして、それってぱたぱたと手で払った程度で落ちると思いますか?」
寺川に問われ、滝さんははたと両手を止めた。
「ありゃ。……確かに無駄かも」
「何をやってるんだか」
聞えよがしに罵る寺川にツツと滝さんは歩み寄り、
「あの、全然落ちてません? 全く?」
と尋ねた。「普通に光って見えてます?」
「……ええ、バッチリです」
――― バッチリ!
滝さんが叫んだ瞬間彼の眼前に火柱が立った!
猛烈な火の勢いと突然現れた光源に寺川は、
「ギャ!」
と悲鳴を上げてたたらを踏んだ。「貴様ァ!」
滝さんはもうもうと燃え盛る火柱を突き出しながらこう言った。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 種も仕掛けもありません! 仰天びっくりショーの始まりだよー!」
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