足跡をつけたのは?

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 村上教授は後ろを振り返って、その日何度目かのしかめ面をした。十メートルほど遅れて歩く新聞記者の伊藤に、眼鏡の位置を直しながら苦々しげに言った。 「伊藤君、若いのにもっと早く歩けんのか? 日が暮れてしまうぞ」  伊藤はゼイゼイ息を切らして泣き言を口に出す。 「先生が体力あり過ぎるんですよ。確かもう五十代なんじゃ?」 「まだ、五十代だ。人生百年の時代だぞ。まったく今どきの若い者は」  大学の古生物学の教授と若手の新聞記者というコンビが、過疎化著しい山奥の村へ徒歩で向かっているのは、もちろん珍しい物が発見されたからだ。  鉄道どころかバス路線も通っていないその村へは、麓の町のタクシーからさえ乗せてもらう事を拒否された。運転手はこう言っていた。 「いやあ、勘弁して下さいよ。ま、山道の入り口まではお送りしますがね。そっから先を車で通るのは、わたしらでも怖いんですよ」  確かにオフロード車でも走るのが難しそうな、もう何十年も手入れがされていない山道を、二人はひたすら自分の足で上り続けた。  林を抜けると、突然急な下り坂になった。二人の身長をはるかに超える高さの土の壁を背にして少し行くと、その村が見えてきた。  村というより、限界集落と言った方がよさそうな、二百戸に満たないその集落は、半分以上が空き家だと、出迎えた村長は告げた。  禿げ上がった頭から流れる汗をタオルでぬぐいながら、村長は白くなりながらもふさふさとした村上教授の髪をうらやましそうに眺めながら言った。 「いや、遠い所をこんな辺鄙な山の中まで、よくおいで下さいました」  村上教授はじれったそうに、しかし丁重に挨拶した。 「こちらこそ、お世話をかけます。早速ですが現場へ案内していただけますか」  村長は伊藤に向かって深々と頭を下げながら、かまわず続けた。 「記者さんですね。ひとつ、よろしくお願いします。おたくの電子版に取り上げてもらえば、この村の人口の増加とかがですな……」  伊藤は村上教授がいらいらし始めているのを察して答えた。 「まずは現場へ行きましょう。ええ、もちろん面白い記事になりそうだと期待してますよ」  三人がわずか数分で到着したのは、一面に広がる野原だった。かつては見渡す限りの水田だったと村長は言った。 「普段はほとんど人が近寄りもしない場所でしてね。これを見つけた時は驚きましたよ」  村上教授が地面に伏すように体を倒し、大きなルーペで地面のくぼみを凝視した。 「これは! 間違いない! 動物の足跡だ。おそらく二日ほど前についた物だな」  伊藤が目を輝かせてカメラをリュックから取り出す。 「やはりそうですか。おお! 僕の足の数倍の大きさ」  村上教授が怒鳴る。 「君! 間違っても踏むなよ。貴重な標本なんだ」  その巨大な足跡は一見鳥のそれのように見えた。だが大きさとは別に、村上教授は全く別種の生き物だと断言した。 「爪が三本、反対向きの鉤爪らしき一本。これは一時的に後ろ足で立ち上がって走る事ができるタイプの爬虫類の足跡の特徴だ。現在確認されている爬虫類の構造から推測すると、全長十メートルは優に超える」  村長がうれしそうに質問した。 「恐竜ですか?」  村上教授は腕組みして顔をしかめた。 「恐竜の生き残りとも違うな。この足跡の生物は明らかに二足歩行だ」  伊藤が足跡の写真を撮りながら言った。 「二足歩行? ティラノサウルスとかじゃないんですか?」 「恐竜の獣脚類なら、鳥の足跡に似るはずだ。かかとの跡がこんなにくっきりと、一定の幅で続いているという事は、普段から二足歩行、つまり後ろ脚だけで立って歩いている事になる。現存する爬虫類に、そんな種はいない」  教授は地面に這いつくばるようにして足跡を調べ、伊藤は写真を撮りまくった。そうこうしているうちに、あたりが暗くなり始めた。  村長があたりを見回しながら教授と伊藤に勧めた。 「そろそろ日が暮れます。この辺は盆地なんで、日没が早いんですよ。私の親戚の空き家を掃除してありますんで、そこへお泊り下さい。明日ご到着になる、先生の調査チームの方々の宿の用意もできてますので」  農村の家という割にはこぎれいな一軒家に案内された村上教授と伊藤は、用意されていた浴衣に着替えて、居間でビールを酌み交わした。  伊藤が興奮冷めやらぬ口調で言う。 「こりゃスクープ間違いないですよ。過疎化した山奥の農村に謎の巨大生物。それも二足歩行の恐竜か? こいつは局長賞もんだ」  村上教授は顔をしかめて、しかし穏やかに言葉を返した。 「恐竜ではなく爬虫類だと言っただろう。この二つは全く別の進化の派生系統なんだ。だが、地球温暖化の影響で新種の巨大爬虫類が生まれた可能性はある」 「ところで先生、こんな山奥にこんな深い盆地があるのも珍しいですね」 「実はそれも長年のミステリーなんだよ。地学の連中にとってはな。通常盆地というのは土壌が侵食されるか、地層の配置、あるいは火山の影響などで出来る物なんだが、このあたりの盆地はそのどのパターンにも当てはまらん。なぜ盆地になったのか、原因が不明なんだ。この地形も新種の爬虫類誕生と何か関係があるのかもしれん」 「じゃあ、教授、前祝いにもう一杯!」 「明日は早くに起きなきゃならんのだ。私は自分の寝床へ行く。君も早く寝ないと明日はもっときつい思いをするぞ」  二人が深い眠りに落ちた頃、すさまじい雷鳴が鳴り響いた。それは教授と伊藤が驚いて目を覚ますほどだった。  その数分後、ゴゴゴゴという雷鳴とは別な、不気味な低い大音響が響いてきた。浴衣姿の伊藤が教授の部屋へ駆け込むと、村上教授は既に作業着に着替えて部屋を飛び出すところだった。伊藤が叫ぶ。 「先生、どこへ行く気ですか? この真夜中に」 「ゲリラ豪雨だ! 山崩れが起きたのかもしれん。あの足跡のある場所が埋もれたら!」  伊藤があっと声を上げる。伊藤もあわてて服を着替え、教授の後を追って外へ出ると、滝のような雨が降っていた。  傘を探す間もなく、びしょ濡れになった伊藤があの場所へたどり着くと、村上教授が茫然と野原の端に立ち尽くしていた。  あの謎の足跡がある、いや、あった場所は、近くの崖から崩れ落ちて流れてきたらしい土砂に、一面を覆われていた。  伊藤も愕然とした顔で、村上教授に話しかけた。 「先生、あの足跡は……」  村上教授は力なく答えた。 「失われてしまった……あれほどはっきりした証拠が、果たしてまた見つかる事が、私の生きている間にあるかどうか」  翌朝、村上教授と伊藤は別の原っぱで新聞社のヘリコプターを待っていた。伊藤の新聞社が空撮用に派遣した物だった。  がっくりとうなだれる村上教授と村長に、伊藤はなぐさめるように言った。 「まあ、これで全て終わったとは限りません。僕が撮った写真がたくさんあるんですから、きっと次のチャンスはありますよ」  そう言う伊藤も、今の時代に足跡の写真だけでは大したニュースにならないだろうことは予想していたのだが。  ヘリコプターが到着し、村上教授と伊藤が乗り込み、名残惜しそうに手を振る村長を見下ろしながら、再び飛び立った。 「うん?」  村上教授は上空から村を見下ろしながら、眼鏡をハンカチで拭いて、掛け直し、目を凝らした。教授は首をかしげながら、ため息とともにつぶやいた。 「まさか、な……」  その村がすっぽりおさまった、その盆地は、長さ約二キロ、幅一キロほどの、三本の尖ったような窪地とその反対の端に、鉤でえぐったような窪地がある地形だった。  それは、あの失われた謎の足跡を、数百倍に拡大した何かのように見えた。
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