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時は数時間前に遡る。
「母さん、やっぱり柳の携帯繋がらない。晃人くんにも連絡を入れているんだけど、ずっと電話にも出ない。やっぱり二人に何かあったんじゃないかな」
「そうね……。事件か事故か、それとも……。私は宗一郎さんに連絡するわ。樹、頼みたいことがあるんだけど、いいかしら」
樹はこくりと頷いた。
目を覚ますと辺りは明るくなっていた。
いつの間に眠りに落ちていたのだろう。隣を見やると錫杖を腕に抱え、静かに座っている柳の姿があった。
「寝てる……?」
ふわりと目を開け、晃人に視線を送る柳。
「起きたか」
「あ、おはよ」
こんな場所で寝られるわけないと思っていたのに、案外自分はどこでも寝られる性質なのかもしれない。そんなことを思いながら晃人は体を起こし、あくびをしながら背中を伸ばした。
「よく眠れたか?」
「え?あぁ、体はちょっと痛いけど、意外とちゃんと寝た気がする」
「そりゃそうだ。御札で眠らせたからな」
「え!?何それ知らないんだけど……」
「晃人さん昨日言ってただろ、中々眠れないって」
昨日、そんなことを言っていただろうか。記憶を辿って思い出してみる。
昨日は珍しく柳が自分のことを色々と話すものだから、「どうせなら朝まで語り尽くそうぜ」と自分から言い出したのだ。まるで修学旅行の夜のように、他愛もない話題を出しては夜通し話し尽くすつもりでいた。
しかし、慣れない早起きや、シーグラス探し、悪霊との遭遇に、出られない空間での緊張感。それによる情緒不安定と、色々なことが立て続けに起きて晃人の心身は意外と疲弊していた。けれど眠気が来なかったのだ。体は確かにぐったりしている。それなのに、一向に眠気が来ない。
そんなことをぼやくように呟くと、柳が目を瞑れと言い出したのだ。目を瞑って眠れるのならこんなに苦労はしない。そんな風に思っていたら、次に目が覚めた時には朝だった。
「嘘でしょ……?睡眠作用のある御札?何それ逆に怖い」
「害は無いから安心しろ。むしろ深く眠れたおかげで目覚めは良かっただろ」
「た、確かに……」
「菓子はまだあるから、それ食べたら探し物の再開を――」
そう言って立ち上がろうとした柳だったが、よろめき再び膝をついた。
「柳!?」
側に寄って肩を抱くと、柳の表情に疲弊の色が伺えた。
「お前昨日睡眠取ったのか?」
「少しくらい取らなくても平気だ。夜は悪霊が活発になる。もしもの時の為に警戒はしておく必要はあるだろ」
柳は晃人がぐっすり寝こけている間、一人ずっと起きていたのだ。悪霊が襲ってくる危険性を考えて晃人をずっと守っていた。
体力を使い、ろくに食事もとっていない。そのうえ術を発動し続け、おまけに晃人へ睡眠を促す術を行使していた。そんなの疲弊するに決まっている。
晃人は柳の肩を掴むと、勢いよく自分の膝元へ倒した。
「は!?何する――」
柳は仰向けになったまま晃人を見上げ反論しようとした。しかし晃人はそんなことお構いなしに手のひらで柳の目元を覆い視界を遮った。
「寝ろ!」
「何勝手に言って……ていうか手、どけてくれない?」
抵抗しようと柳の手が伸びる。晃人の手首を掴んで離そうとするが、晃人も負けじと堪え、押し当てる力を一層込めた。押し当てる力と離そうとする力、どちらも引かず均衡状態が続く。
「いいから寝ろっつーの!」
しばらく抵抗していた柳だったが、ようやく観念したのか柳は掴んでいた手を離した。
「ったく、本当お前ってやつは……。もっと自分を大事にしろよ」
何か言いたそうに口を開いたが、柳はすぐに口をつぐんだ。
「……シーグラス探しは一時休止だ。気が急くのも分かるけど、今はここを出る時のために体力残しておこうぜ。心配すんな。ここから出た後もシーグラス探し一緒に付き合ってやるよ」
柳が小さく頷いた気がした。
「悪霊の動きは今度は俺が見張っててやる。何かあった時は起こすから、それまでお前は寝ていろ。いいな?」
その問いかけに対する反応は無かったが、しばらくすると規則正しい静かな寝息が聞こえてきた。
目元を隠していた手をそっと離すと眠っている柳の顔が露わになった。
祓い屋の仕事をこなしている姿や、普段会話している時の柳はいつも淡々としていて、10代の高校生にしては落ち着き払っていた。
纏っている空気が他の同年代の子と違うのは、幼い頃経験した壮絶な過去ゆえ無理もない。
けれど、そんな柳も眠っている時だけは等身大の高校生に見えた。
剥がれた天井の隙間から朝日が舞い込む。そっと頭を撫で、眠る柳を眺める晃人。滑る指に柳の黒髪がさらりと絡む。瞳を閉じた瞼。一本一本細く伸びる睫毛。整った鼻筋に、薄く広がる唇。眠る柳の顔が朝日に溶け込む。
晃人は恍惚とした表情で柳を見つめた。その瞳にじんわりと熱が帯びる。
静かな廃工場の中、柳の寝息だけが側で小さく聞こえた。こんな状況なのに、この時間が何故だか特別に感じてしまう。胸の奥がむずむずしてざわめく。この湧き起こる気持ちは一体何なのだろうか。
太陽が差す光でほのかに明るくなる廃工場。二人だけの時間が静かに過ぎていった。
柳が目を覚ましたのはお昼過ぎだった。
持っていたチョコレート菓子もこの時食べきってしまい、持ち合わせている食料は遂に底を尽きた。この廃工場に閉じ込められて丸一日が経つ。自分たちにとっても、ここからは時間との戦いになった。
外は再び日が落ち始め、景色は次第に夜へと変わっていく。
仰向けに寝そべり空腹に耐えながら晃人は呟くように言った。
「いっそ死んだフリして悪霊を誘い出すってのはどうだ?」
「いいんじゃない?どっちみち体力は温存しておく必要があるし、勘違いして出て来たら好都合だ」
「よし、いっちょやってみるか」
15分経ち、30分経ち、晃人は痺れを切らして起き上がった。
「無理!」
「諦め早いな」
「ずっと微動だにしないって無理じゃない!?」
「まぁ、晃人さんのことだからそうなるだろうとは思ってたけど」
その時、後ろ側で金物の軋むような音が聞こえた。また何か崩れ落ちたのかと振り向くと、どうやらそうではない。音が段々と近付いてくるのだ。
「何だ……?」
すると軋む音が急に大きく響いた。何かがスピードを上げて近付いてくる。そう思った瞬間、晃人は体を押しのけられ体勢を崩した。勢いよく何かが目の前を通り過ぎた。過ぎ去った方向に目を向けると、そこには垂れ下がっているクレーンフックが振り子のように揺れていた。どうやら軋む音の正体は天井クレーンだったらしい。
しかし何故いきなり動き出したのか。電気など通っていない。ここは廃工場だ。そう、この場所は悪霊の胃袋の中だ。
「晃人さん避けろ!来るぞ!」
再び大きな音を立てて向かってくるクレーンフック。こんなものが頭に当たろうものならただじゃ済まない。直線的な動きでなかったら晃人は避け切れなかった。
突然のことで息が上がる晃人。そんな晃人に追い打ちをかけるように次々と音が増えていく。
「今度は何だ!?」
そこら中に転がっていたタイル片やコンクリート。剥がれたトタン板や錆びたドラム缶。それらが次々と宙に浮かんでうごめき始めた。
「何なんだこれ……!」
「俺たちで遊んでやがるのか……。相変わらず癪に障るヤツだな」
柳は視線を配らせるが、本体は依然隠れたまま姿を見せない。御札を取り出し晃人へ飛ばすと柳は詠唱を唱えた。晃人の体に張り付いた御札は一瞬の光を放つ。
「えっ何これ!?」
「簡易結界だ。物質攻撃ならそれで凌げる。だからと言ってバカスカ当たるなよ。攻撃されればそれだけ結界も脆くなっていく」
更に重ねた御札を天井へ向かって投げると、たちまちライトのように辺りを照らし出した。
「柳……!こんなに術使って大丈夫なのかよ!?」
「人の心配してないで集中しろ。ここからは持久戦だ!」
次々と飛んでくる工場内のありとあらゆる物。避けろと言っても容易にできるわけではない。前から飛んできた物を避ければ、右から飛んできた物にぶつかる。避ければ当たる、その繰り返しだ。
魂魄の時のように、当たった際に痛みは無いものの強く押し出されたような衝撃はある。結界のお陰でその程度に留まっているが、柳が言った通りこれは持久戦だ。いつまで攻撃が続くのかも分からない。こちらの分が悪いのは二人とも分かっていた。それでも耐え凌ぐしか方法はなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。晃人の足取りは既に重くなり、もうほとんど避けることが出来ていなかった。
分厚いコンクリートが晃人の腹部に直撃すると、衝撃で仰向けに倒れ込み晃人は二度三度咳き込んだ。ふと、ライトの光が遮られ影が落ちた。何だ?そう思って目を開くと、晃人の姿をすっぽり覆うほどの大きなドラム缶が頭上に構えていた。
大きな衝撃が来る。咄嗟に身構え目を瞑ると、大きな音を立ててドラム缶が吹き飛んでいった。何が起こったのだろう。そっと目を開けると、目の前には錫杖を両手で持ち、振り下した柳の後ろ姿があった。
柳の肩も大きく上下している。
「立て!次が来る!」
「……お、おう!」
右往左往飛び回る物体。二人の体力も限界が近くなっていた。ライト代わりに放った御札は何枚か効力を失い地面へ落ちている。晃人へかけた結界も効き目が無くなっていき、晃人自身にかすり傷が目立ち始めた。
そして、いつしか二人は二階へ続く階段の元へと追い込まれていた。逃げ道は二階しかない。小さく舌打ちをして二階へと駆け上がる柳。
「二階へ行くぞ!」
後に続いて晃人も駆け上がる。しかし柳はどこか違和感を覚えていた。飛び回る物体は最初こそ二人を目掛けて飛んできた。避けたり叩き落すことに集中していたが、段々と足元を狙ってくるようになったのだ。足元ならば避けやすく逃げやすい。
しかし、その避けやすさが引っ掛かった。何かを見落としているのではないか、柳はそう思い視線を後ろに向けた。
おかしい。飛び回っていた物体が後を追って来ていない。二階に近付けない何かがあるのか。一階へ視線を向けたその時、柳は凄まじい光景に目を見開いた。そこに広がっていたのは木の廃材や鉄パイプ、コンクリートからむき出た鉄筋など、鋭利な物体がまるでこちらを見上げるように並んでいた。
一瞬で理解した。自分たちはこの二階へと誘い込まれたのだ。
「晃人さん!」
咄嗟に名前を呼び振り返った柳。その瞬間、階段を支えていた鉄骨が不自然に崩れ始めた。まだ上り切っていなかった晃人は重力の成すまま階段と共に落ちていく。
腹部に響くような鈍い音が工場内に反響した。
明かりが消え失せた薄暗い廃工場。仄暗い土煙が舞い、次第に晴れていく。短い呼吸を繰り返す柳。その両手は晃人の腕を掴み間一髪のところで支えていた。
「柳……」
目下には依然立ち並ぶ鋭利な廃材たち。晃人にかけた結界の効力も恐らく既に失われている。このまま落ちれば串刺しだ。そして何より柳はもう、術を出すことはできない。
階段が崩れた刹那、柳は錫杖を手放した。それはつまり、術を使う体力はおろか両手で支えなければならない程、柳の体力は限界まで来ていたということだ。
掴んだ晃人の腕を強く握り締める。引き上げようとしたその時だった。
柳の背後に立つ黒い影。それは突然現れた。晃人はその姿を見て一瞬で悟った。悪霊の本体だと。
「柳っ!後ろに本体が――!」
晃人の叫ぶ声と同時に、黒い影から帯のようなモヤが飛び出し、あっという間に柳の首や腕に巻き付いていった。
「うっ……」
締め付けていく力は次第に強くなり柳の表情も一層険しくなる。
「や、やめろ……。お前、柳に何するんだ……柳から離れろ……離れろよ!」
晃人の叫び声がむなしく響く。叫んだところで状況が変わることなどない。晃人は苦しむ柳の表情をただ見ているだけしかできなかった。このままでは柳が死んでしまう。晃人は奥歯を噛みしめると低い声で言った。
「柳。……手、放せ」
心臓の脈打つ音が体中に響いている。怖い。怖くて堪らない。だけど。
「だ、大丈夫だ。この高さならどうにか……なるさ。隙間だってほら、あるし、着地の瞬間にさ、体捻って避ければ何とか……」
不安の滲み出る顔で柳をもう一度見上げた晃人。その瞳に映ったのは、揺るぎない強く真っ直ぐな柳の眼差しだった。
「諦めるな!!」
柳の瞳は晃人にそう強く訴えかけていた。
こんな絶望的な状況でも柳は諦めていない。そう、ここに閉じ込められた時から柳は信じると決めていたのだ。信頼する家族が、必ず助けに来てくれると。
途端、天井から何かが割れたような音が響いた。
ひらりと何かが舞った。そう思った時には黒い影の悪霊が廊下の突き当りまで吹き飛んでいた。大きな音を立てて壁にめり込む悪霊。
柳の側に降り立ったその人はゆっくりと立ち上がる。ロングスカートを風にはためかせ、長い髪を耳にかけてその人は言った。
「私の大切な息子たちに、これ以上触れないでくれるかしら」
悪霊が吹き飛ぶと、柳に巻かれていた黒いモヤが気化するように消えた。しかし柳に支える力はもう残っていなかった。晃人もろとも一階へ滑り落ちる柳。
「うわぁぁぁ!」
晃人と柳は確かに落下した。なのに衝撃が無い。恐る恐る目を開くと、晃人の体は透明なボックスに覆われていた。その四隅には御札があしらわれている。隣を見ると同じ状態の柳が横たわっていた。手を伸ばそうとしたがクッションのような膜に覆われており、跳ね返されてしまった。
「これは……」
「僕が飛ばした簡易結界だよ」
声の方向に顔を向けると、空け開かれた出入り口に人影が見えた。肩を上下に揺らし、片手を膝についている人影。顔を上げると息を整えて言った。
「間に合って良かった」
「樹さん!」
「待たせたね。遅くなってごめんよ。各所に残る御札の痕跡からここを割り出すのに時間がかかってしまってね」
晃人と柳の元へ駆け寄る樹。
「樹さん、これは……」
「僕の術だよ。と言っても、僕は術にさほど精通していないからこれくらいしかできないけど。待ってて、今解くね」
術が解かれると晃人はすぐさま柳を抱き起した。
「柳!おい!しっかりしろ柳!」
その声に柳は薄っすらと目を開いた。
「晃人さん……」
「柳!良かった……生きてる……」
涙ぐむ晃人が視界に入る。そしてその先に見える女性の後ろ姿を瞳に映す。
「母さん……」
その言葉に晃人はハッとして樹に迫った。
「そうだ!鈴江さんに加勢しないと!あの悪霊、縄みたいに体縛ってきて厄介なんです!」
「加勢?その必要はないよ」
「え……?」
樹は不敵な笑みを浮かべると、二階へ顔を向け鈴江の後ろ姿を眺めた。
鈴江はゆっくりと、そして悪霊をしかと目に捉え歩み寄る。
「私を誰だと思っているの?榎本鈴江、二児の母であり妻。そして……」
悪霊の目の前に立ちはだかると鈴江は瞬時に体を捻り、悪霊へ渾身の回し蹴りを食らわせた。
「榎本宗一郎の、式神よ」
一階スペースへ吹き飛び宙を舞う悪霊。鈴江はその後を追うように二階から飛び込んだ。悪霊の真上まで飛ぶと、踵を大きく振り上げ悪霊を勢いよく地面へと叩き落した。
辺りに土煙が舞う。その時、シャランと金物の鳴る音が背後に聞こえた。
聞き覚えのある凛と響く音。柳がいつも手にしていた黄金色の錫杖と同じ音だ。けれど何故だろう、音の厚みが全然違う。それは、強く芯の通った鋭い音。
近付く足音。見上げたその出で立ちに晃人は思わず圧倒された。
言うなれば仁王像か。その背中から放たれる覇気。闘志。それはまるで、子を守らんとする獅子のようにも見えた。
「柳」
宗一郎は背中越しに伝えた。
「よく守り抜いた。あとは任せなさい」
悪霊へ向けて腕を差し向けると、何枚もの御札が飛び、一瞬にして悪霊を囲い尽くした。すると次の瞬間、御札から無数の錫杖が出現し瞬く間に悪霊の体を串刺し貫いた。
悪霊から呻き声のようなものが漏れる。隙間からゆらゆらと揺らめく黒いモヤ。その一本が宗一郎に向けて鋭く伸びる。
片足を引き、上体を低く構える宗一郎。引いた足を強く踏み込むと、手にしていた錫杖に力を込め、悪霊目がけて大きく振り投げた。まるで豪速球が投げ入れられたかのように、それは目にも止まらぬ速さで一直線に悪霊を貫いた。
鋭く伸びていたモヤが徐々に気化していき、やがて悪霊は完全に消滅した。
「柳!」
鈴江が樹たちの元へ駆け寄る。柳の側へ行くと、鈴江は手を握って柳の顔を覗き込んだ。
「柳、とても心配したのよ!」
「母さん……ごめ――」
「よかった」
柳の頬に雫がこぼれ伝い落ちた。
「諦めないで待っていてくれて良かった」
次から次へと絶え間なくこぼれる雫。くしゃくしゃになった顔で、鈴江は笑って伝えた。
「生きていてくれてありがとう」
柳の瞳が滲んで揺らめく。瞳を閉じ、柳はわずかに震える唇をぎゅっと結び、振り絞るように言った。
「……うん」
こぼれ落ちた雫が柳の目尻へ伝うと、そのまま頬を伝って流れ落ちた。
こうして晃人と柳の凌ぎ合いの戦いがようやく終わったのだった。
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