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「うわぁ、びしょびしょ。柳、先シャワー浴びてこい」
「晃人さん先に行きなよ。俺は別に後からでも――」
「お前が先に行け。また熱出されたらこっちが困るんだ」
晃人のその言葉で折れ、先にシャワーを浴びることにした柳。
浴室に置いてあるシャンプーとコンディショナーを見て柳は思う。晃人からほのかに香るいい匂いはこの香りなのだろうか。柳はそのボトルをなぞった。
晃人の好きな音楽、好きな映画、好きな食べ物、色んなことを知っていく。
「もっと知りたい」そう思っている自分がいる。他人に興味を向けることなんて無かったのに、自分がこんなことを思う日が来るなんて思わなかった。
けれど、それは無意味なことなのだ。この先、それらは何にもならないことを柳は知っている。
頭では分かっている。なのに今、望んではいけないことを考える自分がいる。
柳は降り注ぐシャワーを浴びながら憂を帯びた表情を浮かべ、目を閉じた。
浴室から出ると、着ていた服が無くなっていた。確か浴室の前に置いていたはずだ。晃人に確認しようと部屋を覗くと何やらごそごそと探し物をしている後ろ姿が目に入った。
部屋に入ると、晃人は肩にタオルをかけ、まだ乾ききっていない髪のままクローゼットを漁っていた。
「晃人さん、俺の服……」
「あ、あったあった」
着替え上下一式を柳に投げて渡す。
「今お前の服乾燥機にかけてるから、乾くまでそれで我慢してくれ」
「別にいいのに」
「濡れたまま帰らせるわけにはいかないだろ。その間タオル一丁でいる気か?それ着て待ってろ」
浴室から聞こえるシャワーの音。借りた服に着替え、床に座って晃人を待つ柳。ふわりと香る晃人の匂いに、乾かす手が止まった。
「晃人さんの匂い……」
膝を抱えると、服から香る晃人の匂いが一層際立った。頬に触れ、すうと息を吸う。その香りが心地よく、ふわりと瞳を閉じた。
タオルの隙間から濡れた髪が覗き、水滴が柳の頬を伝う。
「……柳?」
肩に優しく手が触れた。顔を上げると、シャワーを終えた晃人がそこにいた。
「あ……、なんだ」
晃人はホッとしたような表情を見せていた。
傾げるように見上げる柳に晃人は続けて言う。
「てっきりお前泣いてんのかと思った」
思いがけない言葉が返ってきて動きが止まる柳。ぽたぽたと水滴が滴る。ああ、髪から水滴が伝ってきたのか。
「お前まだ髪乾かしてないのかよ。ホントに風邪引くぞ」
「……ドライヤー、どこにあるか分からなかったから」
「今持って来るから、ちゃんと頭拭け!」
そう言って柳の頭を乱雑に一拭きすると晃人はドライヤーを取りに行った。
スイッチを押し、柳に向けて温風を送る。片手で柳の髪をかき上げ、タオルでガシガシと拭いていく。何とも雑な乾かし方だ。
「ガキじゃないんだから自分でやるよ」
「いいじゃんたまには」
にひひと悪そうな笑みを浮かべながら柳の頭をわしゃわしゃと撫でる。柳は隙をついて晃人のドライヤーを奪い、晃人の顔に温風を当てた。そして同じようにわしゃわしゃとタオルで髪を拭く。
「わっ!……何すんだ!てか、雑だなオイ!」
「晃人さんも雑だよ」
「コノヤロっ」
負けじと晃人もタオルだけで挑む。拭き合いが始まり、やがて乾く頃にはお互いの髪はボサボサになっていた。晃人は笑いが込み上げ、ふはっと声を出して笑った。
「お前、髪ボサボサ!」
「晃人さんだってボサボサだよ」
柳もつられるようにははっと笑みをこぼした。柳が笑った。いつも澄ましている大人びたような表情でも、控えめな微笑みでもない。等身大の、高校生という少年の笑顔だ。その表情に胸が高鳴る。
「柳、ずっとそうしてろよ」
「え?」
「お前、今笑ってた」
柳はハトが豆鉄砲を食らったような表情を見せていた。
「……気付いてなかったのか?」
全く気付かなかった。笑い方なんて、とっくの昔に忘れたと思っていた。柳は思わず手で口元を隠した。
ふと、晃人はその手に目が行った。
「柳、その傷……」
口を覆っていた左手。その左手首の切り傷に晃人は手を伸ばす。柳の左手首の甲に刻まれた二本の傷跡。
「この傷は……」
「式神転生術の術式で付いたものだ。式神転生術は硬化させた御札で体の一部を切り、傷を刻むんだ。その御札に自身の血を含ませ対象者に術を施す。それが式神転生術の契約方法なんだ」
痛々しく残る切り傷の痕。こんなにくっきり残るほど、深く刻まなければならない術なのか。
「触っても、いいか……?」
「……あぁ」
傷をそっとなぞる。
「痛むか?」
「別に。もう傷塞がってるし」
「そうじゃねぇよ」
晃人は柳を見つめ、ゆっくりと言葉にした。
「お前の、心の方だよ」
晃人のその言葉に、柳の瞳が見開いた。
「まだ、この傷が“罪の証”って思ってるか?」
晃人は傷をさすると、優しく微笑んで柳に言った。
「もしそう思っているなら、俺は何度でも言ってやるよ。これは“罪の証”なんかじゃねぇ。柳が“二人の人間を救った証”だ」
柳の瞳に光が差す。ああ、この人はとても眩しい。灰色だった世界がどんどん明るく照らされていく。
柳は両手を伸ばすと、晃人をふわりと抱き締めた。
「わっ、な、何だよ柳いきなり!」
突然のことで晃人の顔が赤く染まっていく。柳は抱き締めたまま晃人に伝えた。
「そうだな……。今までこの傷は“罪の証”だと思ってた。その傷を見る度、過去の俺が、ずっと側で俺を睨みつけている、そんな気がしていた。あの日からずっと、過去の自分と向き合うのが怖かったんだ」
回した腕に一層力が入る。柳の声は微かに震えていた。
「そんな俺に、晃人さんが言ってくれたんだ。一人じゃないって。それだけじゃない。晃人さんの言葉一つ一つに、俺はいつの間にか背中を支えられていたんだ。晃人さんはさっき“二人の人間を救った”と言っていたけど、本当はもう一人いるんだよ」
「え?」
母親にずっと言えなかったことを伝えられた。あの時、見えた気がしたのだ。10歳の自分も母親の側で一緒に大粒の涙を流していたのを。
「俺もその一人だ。式神転生術で晃人さんの命を繋いだ。あの出会いがあったから、巡り巡って俺は過去の俺を救ってやれたんだ」
回した腕が解かれると、柳は左手を晃人の頬に滑らせた。
「晃人さんとの出会いで俺は救われたんだ」
乾いたばかりのブロンズの髪はふわりとしていて、指に絡む一本一本さえも心地よい。柳の顔が近付く。唇が触れ合うその数センチというところで、晃人が制止させた。
「や、柳どうした?俺、今魂魄じゃねぇぞ?」
ハハっと軽く笑って見せるが、柳は真剣な眼差しで晃人を見つめていた。顔が熱い。柳が触れている所が熱を帯びてくる。心臓の音がうるさく耳に響く。この状況は一体何なのだろう。自分たちがキスを交わしたり体を重ねるのはDNAを摂取するという理由があるからだ。今は、そうじゃない。わざわざ今する必要はないのだ。
「この間は拒否しなかったのに」
「この間って……」
柳の言う「この間」というのがいつのことなのか、晃人はすぐに分かった。廃工場での一件、あの翌日。柳の部屋で変な雰囲気になったあの時だ。
「あっあれは、その……何て言うか、ボーっとしてたっていうか……つか、柳だって俺のことなぎ倒したじゃねーか!」
「兄さんに見られそうになって、つい」
“つい”でなぎ倒されたのか自分は。晃人は額に手を当てて脱力する。
「……晃人さんは、俺とキスするのは、嫌か?」
「嫌とか……、そういうことじゃなくて……。俺らがそういうことをするのは生命維持の為だろ?ちゃんと理由がある。でも俺は今魂魄じゃない。柳が俺にキスをする理由は無いだろ。だから……」
「じゃあ、理由があったらいいんだな」
「え?」
晃人が言葉を漏らすよりも早く、柳はあっという間に晃人の体を床に押し倒した。体に跨り両手を掴む柳。身動きが取れない。
「柳、何を……」
夕立はいつの間にか止み、まばゆい輝きを放つ夕日が窓から降り注ぐ。二人の影がシルエットのように伸びていく。
「晃人さん、今だけでいいから……言わせて」
反射したオレンジ色の光が柳の姿を色濃く染めた。
「晃人さんが、好き」
そう言った柳の表情が、何故だか悲しそうで、苦しそうで、今にも泣き出してしまいそうな、くしゃくしゃになった子供の顔をしていた。まるで、これが今生の別れかのように。
そんな顔をされたら、抵抗なんて出来やしなかった。
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