162人が本棚に入れています
本棚に追加
しとしとと、静かな雨音が聞こえる。ゆっくりと目を覚ました柳は、そこが自分の部屋だと分かると安堵したように小さく息を吐いた。
外が明るい。どれだけ眠っていたのだろうか。ぼんやりと覚えているのは、あの後かかりつけの病院へ連れて行かれ、そこで点滴を打ったことくらいだ。帰宅してからずっと眠っていたということか。
ぼんやりとした記憶の中で、晃人も同じように点滴を受けていたように思う。あの後どうなったのだろうか。体は、怪我は、具合は。晃人は無事なのだろうか。
気だるい体を起き上がらせる。すると、そこにはベッドに体を預け、眠りこけている晃人の姿があった。
その姿を目にした柳は、気だるさがどこかへ去ってしまったかのように、肩の力が抜けて体が軽くなったように感じた。
もごもごと、間が抜けた寝顔で何か言っている。夢でも見ているのだろうか。
その頬に、そっと指を近付けた。指の背で二、三度撫で、目にかかる髪を優しくかき上げた。ブロンズの癖毛が指に絡む。以前もこんな風に寝ている晃人の髪に触れたなと、柳は思いふけった。
晃人を見つめる柳の瞳に温もりの明かりが灯る。
「やなぎ……」
晃人がぽつりと呟いた。柳は髪に触れていた手を止めると、もう一度、今度は温もりを確かめるようにゆっくりと触れた。わずかに開いている薄い唇。柳はじっと眺めると、触れていた指を滑らせ、かたどるようにその唇をなぞった。
途端、部屋のドアが開いた。入って来たのは樹だった。
「あ、起きた?」
樹の手には綺麗に畳まれた洗濯物。どうやら柳の洗濯物を置きに来たらしい。
「どう?体の具合は」
「平気」
柳に手渡すと樹は眠っている晃人に視線を向けた。そして穏やかに目を細めると言った。
「晃人くん、柳のことが気になって仕方ないみたい」
「え?」
「あの後、晃人くん、父さんや母さんに頭を下げて言ったんだ。どうか柳を叱らないで下さいって。全然頭を上げないからちょっと困っちゃったけどね。そのうち晃人くんも倒れちゃって一緒に病院に運んだわけだけど」
肩をすくめて困った笑みを浮かべる樹。そして柳を見つめながら続けた。
「その後うちで休んでもらったんだけど、晃人くん、柳の部屋の前をずっと行ったり来たりしててさ。柳のことよっぽど心配だったんだろうね。だから言ったんだ。目を覚ますまで柳の側に居てあげてって」
柳の視線が晃人へ移る。
「そう……なんだ」
柳の眼差しはどこか苦しそうで、けれど温かな情のこもった瞳をしていた。
「柳」
そう名前を呼んだ樹の声は、それまでの穏やかなものではなく、低く真剣な声だった。
「晃人くんは、ああ言っていたけど、本来なら仕事の依頼以外で立ち入り禁止場所へ行くのはご法度だ。それは柳自身よく分かっていたことだよね。どうしてそんなことをしたんだ」
柳の指がピクリと動いた。目を伏せたまま口を結んだ柳。聞こえるのは雨の降る音だけだ。樹は沈黙を破るように言った。
「ま、僕にだけ伝えてもね」
樹は柳の肩に手を伸ばすと優しい口調で話した。
「柳、父さんも母さんも、柳が立ち入り禁止場所に行ったことを叱りたいわけじゃないんだ。柳はそんな分別がない行動はとらないって分かってる。だからこそ話してほしいんだ、どうして黙ってそんな場所に行ったのか。柳の口からちゃんと話してほしい」
真剣な眼差しで柳を見つめる樹。
「柳が僕たちのことを待っていてくれたように、僕たち家族も柳のことを待ってる。落ち着いてからでいいから、話せるようになったら声をかけて」
樹は柳の頭をひと撫ですると踵を返し、ドアに手をかけて言った。
「それじゃ柳が目を覚ましたこと母さんに伝えてくる」
静かに閉まるドア。柳は視線を下げ、深く物思いにふけっていた。
そんな柳の側で、起きるタイミングを失っていた晃人はいつ起き上がろうか決めあぐねていた。柳を心配してウロウロしていたことがバレてしまい、恥ずかしくて顔も上げづらい。柳がもう一度寝たタイミングで起き上がろう、そう思って視線だけ柳へ向けた。
すると目に飛び込んできたのは、服をめくり胸元まで露わになっている柳の姿だった。
「のあああああああああ!!」
思わず後ろにでんぐり返しを繰り出して柳の机に頭をぶつけた。
「……何してんの」
頭を押さえながら起き上がり晃人も言う。
「お前の方こそ何してんだよいきなり!」
「何って、着替えようとしただけだけど」
柳は先ほど樹から渡された洗濯物を手に取り晃人に見せた。ぽかんと口を開けながら次第に状況を把握する晃人。何を勘違いしているのか。自分が本当に恥ずかしい。そもそも柳の裸を見て驚くなんておかしなことだ。わざとらしく咳ばらいを一つして、晃人はこれまたわざとらしく言った。
「あー、そう、着替えね。うん、言われなくても分かってたけどね!」
泳いだ目をしたまま立ち上がりドアまで進む。
「もう大丈夫そうだし俺は下に降りるわ」
じゃあ、と軽く手を上げドアを開けようとした時だった。
「痛っ……」
振り向くと柳が腕を押さえて顔をしかめていた。
「柳っ、大丈夫か!?」
思わず側まで引き返し、しゃがんで様子を伺った。押さえている右腕に目を向けると、包帯が巻かれていた。首元も同様だ。そこからわずかに覗く紐状の青いアザ。手首から腕にかけて巻かれている包帯。その下には、きっと同じアザが残っているのだろう。晃人の脳裏に昨日の光景が蘇る。そのアザは、あの時黒いモヤに締め付けられた痕だ。
「平気だ」
そう言って再び着替えようと服を持ち上げる柳だが、左腕も同様に痛みが走るらしい。上手く脱げずに苦戦していた。
「ほら、手伝ってやるからこっち向け」
「いいよ、一人でできる」
「いや、今できなかったじゃん。変な意地張るなよ」
不服そうに眼を逸らす柳。晃人は軽く溜め息を吐いて言った。
「あの時、柳が手を離さずにいてくれたおかげで、俺はほとんど無傷で済んだんだ。だからこれくらいはさせてくれ」
柳は少しの間黙っていたが、観念したように手を伸ばした。
安堵したように微笑み、晃人は柳のスウェットの裾を捲り上げた。が、しかし。
「痛っい!晃人さんもっと丁寧にやって!引っ掛かってる!痛っザツっ!」
「え?あれ……?」
脱げない。
「おい……わざとやってないよな?」
「んなわけあるか!」
傷に響かないように優しく、そして柳の裸を直視しないように捲ろうとすると、上手く脱がすことができない。そもそも柳は横を向いたままだ。脱がせるにもやりづらい。
「柳、ちょっとこっち向いてくれ。正面からじゃないと脱がしにくい」
「やだ。晃人さんが動いてよ」
「はぁ!?ちょっと体向けるだけだろうが!」
柳はふいっと顔を背け体を動かそうとしない。
「しゃーねーなぁ。じゃあ……ベッドの上、ちょっと借りるぞ」
立ち上がりベッドの上にあがると、柳の前に跨る形で膝をついた。
「ほら、手出せ」
「ん」
今度はするりと服が滑っていく。晃人は細目で柳の裸を見やる。胸がざわざわしてどうにも落ち着かない。
「ねぇ、脱がすだけ脱がして放置しないでくれない?」
「あっ、わっ悪い悪い!」
人に服着させるってこんなに難しかったっけ?そう思いながら、首を垂れて脱力している晃人。言い出しっぺんのくせに、着替えが終わってホッとしてしまった。
「晃人さん」
「ん?何だよ」
柳は布団を捲って指差した。
「まだ下替えてないんだけど?」
晃人の頬が一気に赤く染まった。
「し、下は自分で履き替えられるだろ!」
すると柳は声色を少し変えてボソリと言った。
「……これくらいはさせてくれ」
先ほど柳に伝えた言葉だ。晃人の頬は更に赤みが増す。
「おまっ……」
「やるなら最後までやってくれないと」
けろりとした表情で柳は再度下半身を指差した。目を細め、眉をぴくぴくと動かしながら柳の下半身を見つめる晃人。
平常心、平常心。そう心の中で呟きながら再び柳に跨った。男子高生の着替えを手伝っているだけなのに、どうしてこうも心臓がバクバクと鳴っているのだろうか。そろりそろりとスウェットパンツへ手を伸ばす。
「ねぇ」
柳の声に片目を開けて手を止めた。
「そんなに俺の裸見るの緊張する?」
覗き込むように聞く柳の声がどこか色っぽく、耳元を伝って全身に響いた。耳まで赤く染め上げた晃人は眉を吊り上げ反論した。
「は、はぁ!?んなわけないだろ!何で俺が緊張なんか……!」
こういうのは勢いだ。意を決して柳のスウェットパンツを掴み、一気にずり下そうとした。
「あっ、ちょっと晃人さん!下着も一緒に掴んでる……!」
柳は咄嗟に上げ直そうと反抗した。すると晃人はその反動で引っ張られ、バランスを崩し柳を押し倒してしまった。と、同時に開く部屋のドア。
「柳、母さんがお粥作ってくれたから持って来たよ」
にこやかに向けた笑顔の先には、下半身が露わになりかけている柳の姿と、その上に四つん這いで跨っている晃人の姿。どう見てもこれは襲っているようにしか見えない。
晃人の額に冷や汗が滲み出る。
「ち、違います!これは事故で……!」
「晃人くん」
「は、はいっ」
笑顔が崩れない樹が逆に怖い。
「そういうことは、柳が全快した後にしようね」
樹はそう言うと、土鍋を乗せたお盆を机に置いて颯爽と部屋を後にした。
完全に勘違いされた。晃人は再びガックシとうなだれた。
「晃人さん、そろそろどいてほしいんだけど」
押し倒された反動で着替えた服が捲れ、脇腹が覗いている。下半身は中途半端にずらされたままだ。晃人は慌ててベッドから降り、背を向けた。
「お腹空いたし、晃人さんそのお粥こっちに持って来てくれない?」
「へ?あ、ああ。わかった。スプーンは持てるだろ?さすがにこれは自分で食えよ」
そう言って振り向くと、柳は既にスウェットパンツから私服へと着替えを済ませていた。結局自分で履き替えているじゃないか。
熱々のお粥に息を吹きかけ、ゆっくりと口へ運ぶ。その首元、そして袖口から覗く包帯。何て痛々しいのだろう。柳の体に傷を増やしてしまった。それに、シーグラス探しの件だって、理由を話したところで了解を得られるだろうか。もうあの場所に行くこともできないかもしれない。
「何突っ立ってんの?これくらい一人で食べられるから、晃人さんはもう――」
「理由」
柳の言葉を遮って晃人が言った。
「今回の件、俺も一緒に話しに行ってもいいか?いや、行かせてくれ。あのシーグラスは柳の大事な物なんだろ?説得したらまた探しに行けるようになるかもしれない!」
「……晃人さん、起きてたの?」
「あ……」
柳は掬ったスプーンを器に戻すと、少し間を空けて聞いた。
「いつから、起きてた?」
「え?えーと、樹さんが部屋に入ってきたとこから」
「そう……」
柳は軽く溜め息を吐くと、自分の手元に視線を落として続けた。
「理由はきちんと話す。嘘付いていたことも。でもそれで納得してはいそうですか、とはならないだろうな。どんな理由であれ、禁止事項は禁止事項だ。俺はそれを破ってる。例えもう一度あの場所に悪霊が現れて、依頼が入ったとしても、俺に行かせてはくれないだろうな」
「そんな……」
「いいよ。そもそも、あの瓦礫の山であんな小さなシーグラスが見つかる確率なんて相当低かっただろうし」
「でも、お前あんなに一生懸命探してたのに……」
脱力したようにベッドに腰を落とす晃人。項垂れた頭。晃人の肩が段々と沈んでいく。
「何で晃人さんがそんなに凹んでんの」
「だってよぉ」
口を曲げ、眉をハの字に下げる晃人。その顔はまるで泣きべそをかく子供のようだ。
「いいんだ。シーグラスは結局見付からなかったけど、小さい頃の思い出とか、忘れていた記憶を色々思い出した。シーグラスは失くなっても、あの時の思い出はここに残ってる」
柳は瞳を閉じて、あの海辺で交わした母親との約束を脳裏に映した。それは眩しく輝く温かな思い出。
「それに」
顔を上げ、晃人へ向けた柳の表情は穏やかな空気を纏っていた。
「生きて、戻って来られた」
「柳……」
途端、晃人のおでこが弾かれる。
「痛って!」
「辛気臭い話はこれで終わりだ」
「だからってデコピンする必要ある?」
晃人は口を尖らせ、さすっていた手を下ろした。膝上に下ろした自身の手。その手を眺め、晃人は柳の名前を呼んだ。
視線を上げると、そこには柔らかな微笑みを浮かべる晃人がいた。
「助けてくれてありがとな」
はにかんで首の後ろに手を回すと軽くハハっと笑って見せる。
「ちゃんと言ってなかったなと思って。それと……」
晃人は腰を上げ、柳の側まで来ると膝をついた。そうして柳の右手を優しく掬い上げると、両手で丁寧に包み込んだ。晃人の体温が、手のひらを伝って柳に伝わっていく。
「生きててくれて、ありがとう」
柳の瞳が思わず見開く。
この人は本当に不思議な人だ。感情が全部表に出て騒がしいヤツ。最初はそれくらいにしか思っていなかった。でも、目の前のことに全力で、一生懸命で、しつこいくらい真っ向から向かってきた。いつも隣に居ようとしてくれた。側にいる、そう思うと不思議と張り詰めた気持ちが落ち着いたのだ。一人じゃないんだと、そう思えるようになった。
『生きててくれてありがとう』その言葉はむしろこちらの台詞だ。
「晃人さん……」
柳の纏う空気に色が乗る。頬はほんのり暖色に染まり、瞳は潤い、艶の乗った唇は瑞々しく映えた。
柳の指が晃人の指へ絡んでいく。じんわりと熱を帯びた柳の眼差し。心臓の鼓動が次第に大きく響いていく。近付く柳の瞳。頬が熱い。
何故だろう、このまま近付くと柳の唇が触れてしまう。そう思うのに、止めたいと思わない自分がいる。晃人はとろける瞳をゆっくりと伏せていった。
「柳、水とお茶どっちがいい?」
突然部屋のドアが開き、ペットボトルを両手に樹が入ってきた。
「あれ?」
床にはうつ伏せに転がっている晃人の姿。
「……何してるの晃人くん」
「兄さん……部屋に入ってくる時はノックして」
「あはは、ごめんごめん」
柳にペットボトルを手渡し部屋を後にする樹。ドアが閉まってもしばらく起き上がらない晃人に柳が声をかけた。
「いつまでそうしてんの」
「……お前、今俺が生身の体だってこと分かってるよね?」
「当たり前じゃん」
思いっきりなぎ倒された。こんな急になぎ倒すことはないだろう。いや、そんなことより危なかった。樹に見られそうになった。それ以上に、今、自分たちは明らかに変な空気になっていた。柳と何をするつもりだった?今は魂魄の状態じゃない。その必要がないはずなのに、今確かに唇を重ねようとした自分がいた。徐々に熱くなっていく頬を晃人は隠すように手で覆った。
「晃人さん」
「へ?な、なな何?」
思わず声が裏返ってしまった。対して柳は何も無かったようにいつも通りの澄ました顔をしている。さっきの空気は一体何だったのだろう。
「……やっぱ何でもない」
ふいっと顔を背ける柳。
「はぁ?何だよ言いかけたなら最後まで言えよ」
「言わない」
「何だそれ、言えっつーの」
「やーだーね」
柳の考えていることはよく分からない。けれど、周りと関わりをもつようになった柳の確かな変化に、晃人は明るい兆しを感じていた。今はまだ小さな一歩。それでも、暗く冷たかった牢獄は少しずつ開き始めている。柳が自分自身を赦すまで、きっとまだ時間はかかるだろう。それでも構わない。飽きるほど言い合いをしよう。ふざけて笑わせてやろう。苦しい時、辛い時、「助けてほしい」と、そう言葉にできるようにあいつの隣に居てやろう。いつも笑って傍に居よう。
晃人はそっぽ向いた柳の、どこか子供に戻ったような表情を見て、そう心の中で静かに誓ったのだった。
最初のコメントを投稿しよう!