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時計の針が動くのと共に、恐怖が増幅されていく。
電話をしても繋がらず、携帯の電源が切れているというアナウンスが聞こえるだけだった。
鞄に入ったノートを、ぎゅっと握る。
私はただ、祈りながら走り続けることしか出来なかった。
辺りは薄闇に包まれている。
春が始まったとはいえ、まだ夜の訪れは早い。
大樹くん、どこに行ったの。
いなくならないで。
もう、失いたくない――。
必死に辺りを見回していたその時。
視界の端に見覚えのある姿が映った。
それが彼だと気付いた頃には、もう体が動いていた。
「大樹くん!」
「あ……桜良」
その柔らかい声を聞き、恐怖の心が解けていく。
そう、この声だ。私が惚れた彼の声。
彼は少し表情を歪めている。
「ごめん、桜良。この公園に来るのはまだ二回目でさ、道に迷っちゃって――」
「心配したんだよ。何回も電話して、そこら中探し回って……。もしも、もしも大樹くんに何かあったらどうしようって!」
私の呼吸は段々と荒くなっていく。
心配や安心、後悔や安堵が入り交じり、謎の感情となってうごめいた。
充電が切れ、力尽きた彼の携帯電話が目に入る。
私は歪んだ瞳で彼を見つめた。
彼は今も目を閉じている。
地面に一粒、雫が落ちた。
「無事で良かった……」
「桜良……本当にごめん」
私は彼をゆっくりと抱きしめた。
今度は離さない。そんな気持ちを込めて。
もう二度と、大切な人を失いたくない。
「……お父さんが死んだの」
ぽつりと言葉を吐く。
突然重い言葉を受け止めたからか、彼は言葉を詰まらせた。
私はそれを気にせず話を続ける。
「私が音楽に出会った日――十年前のあの日、さくらフェスの帰り道で事故に遭って亡くなった。ちっぽけな夢を押し付けて、私を守って死んだの」
「そう、だったのか……」
「馬鹿だよね。私なんか放って、生きて自分で夢を叶えれば良かったのに。本当に馬鹿だ……」
彼は何も言わなかった。
代わりに、その細い手を私の背中から掌へと移動させた。
温かい。彼の体温がじんわりと伝わる。
「……桜良、音楽やってて楽しい?」
しばらく間を開けて、彼はやっと口を開いた。
優しい問いが耳を通り抜ける。
私は答えてやりたい。
全く楽しくない、と。
押し付けられて始めた音楽なんて、楽しくもなければ幸せでもないと。
「楽しいよ。他の何とも比べられないくらい、楽しくて幸せ……」
私の口からは正反対の言葉が漏れた。
同時によく分からない感情がぶわりと溢れ出す。
彼はそれを分かっているかのように、また私を抱きしめた。
「桜良、こんな時に、こんな感情で言うべきではないとは思うけど、どうしても……言わせて欲しい」
彼が息を吸う音が聞こえる。
触れている体が、酸素を吸った分だけ膨らむ。
膨らんだ体が私の高鳴る心臓を圧迫する。
彼の心音が伝わる。騒ぐ。
「明日、俺らのステージが成功したら……付き合ってくれないか」
桜の花びらが舞った。そんな気がした。
私はしばらく口を開くことすら出来なかった。
彼は分かっていた。
私の本当の気持ちを。感情を。
心の奥底に閉じ込めた、父への思いを。
「桜良?」
「……もちろん!」
私はとびきりの笑顔で答えた。
彼に表情が見えていなくとも、この笑顔は、声に乗せて届いている気がするのだ。
本当に宙に舞っていたのは、花びらではなく、目から溢れ出した雫だった。
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