思いがけない言葉はここから

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思いがけない言葉はここから

 翌朝、天希が目を覚ますと枕元に雪丸がいた。  頬に触れる柔らかい感触に驚いたけれど、もふもふと小さな尻を撫でると尻尾がゆらゆら揺れる。 「伊上は、仕事か?」  昨夜、散々汚しただろう隣の布団は伊上が片付けたのか、畳まれている。  室内に視線を巡らしても、当の本人は姿が見えない。  とはいえ、いないのはいつものことだ。  伊上のマンションに泊まっても、彼が先に起きて仕事の電話をしていたり、仕事へ向かっていなかったり。  二ノ宮邸なので部屋を出たらもう職場、みたいなものだろう。  少々だるい体を起こし、天希は布団から出た。  念のためスマートフォンを確認すると、五時過ぎに伊上からメッセージが届いている。 (昨日、何時までヤってたんだっけ?)  面接疲れか、いつもより早く眠ってしまった自覚はあった。  それでも伊上は天希を身綺麗にしたり、自身の身支度を調えたりと、あまり寝ていない気がする。 (普段から短時間睡眠っぽいけど、心配にはなるよな) 「って言っても、どうにもなんねぇしな」  天希は伊上の仕事には口を出さない。  暗黙の了解だ。 「よし、風呂だ、風呂に入ろう」  伊上が綺麗にしてくれたので汚れてはいないものの、朝風呂をしたい気分だった。  雪丸はまだ寝ているので、タオルケットを掛けてやる。  そっとふすまを開けて外を覗くが、もう七時になるのに、廊下は静かで人の気配がない。  元々客間なため、組の者は滅多に近づかないに違いない。加えて伊上に近づくなとでも言われていそうだ。  それでも脱衣所へ向かう天希の足取りが、無意識に足早になる。 「はあ、贅沢」  広い浴槽で優雅に朝風呂をしながら、天希は自身の肌を確認した。腕を上げたり足を上げたり。しかし珍しくほとんど痕が残っていない。  所有欲が強い伊上は、あちこちにキスマークや噛み跡を残しがちなのだが。 「うっすら赤いくらいだな。今日には消えそう。まあ、気にせず服を着られていいけど」  物足りなさは感じた。それでも最近暑いので、薄着になりたくなるのだ。  もしかしたらそんな考えを、伊上に見透かされているのかもしれない。 「うーん、そろそろもう一回、染めてもらいに行かないとかなぁ」  風呂上がりに鏡を覗くと、少し髪の色が落ちたように見える。  天希は色を抜いて金色に染めていたので、初めから暗い色は入りにくいと言われた。 「んー、社会人か。この先、色を抜くのはやめたほうがいいよなぁ。やっぱり少しずつ暗くするか」  天希が髪を金色にし始めたのは大学に入ってからだった。  元は地毛の大人しい焦げ茶色だったのだけれど、明るい色が似合うと周りに言われ、いまに至る。 「色が落ち着いてると余計に凄味が増すって言われるけど、仕方ねぇよな」  顔だけはどうにもならない。  やはり眼鏡かコンタクトを常用すべきなのだろうなと、天希の口からため息が出る。 (コンタクトより眼鏡かな。伊上、眼鏡萌えするタイプだし)  うん、と一人納得しながら部屋に戻れば、雪丸が鳴いていた。  目が覚めて誰もいなかったので、寂しかったのだろう。ふすまを開けたらものすごい勢いで駆けてきた。 「悪い悪い。寂しかったな。飯を食ってちょっと運動するか」 「うにゃ」  伊上は戻ってくる気配がないので、一人と一匹でキッチンへ向かうことにする。  タンクトップにハーフパンツ。さすがに屋敷内をそのまま歩くのは駄目だろうと、天希は薄手のパーカーを羽織って部屋を出た。 「おはよう」  玄関の付近で昨夜の彼に会った。  天希の声に振り返った彼は、いつもどおりに返事をしてくれて、もう屋敷に伊上がいないのだとわかる。 「天希くん、あんまり薄着で歩かないほうがいいよ」 「ん、これでも駄目か。まあ、すぐ部屋に戻るから」 「伊上さんはあと一時間くらいしたら戻るって聞いた」 「戻ってくるんだ。そっか、飯、食うかな」  意外な朗報を聞き、天希の口元が緩む。  ふと気づくと微笑ましそうな顔をされていたので、天希は適当な言い訳をしてその場を離れた。  キッチンに着くと、昨日の夜に炊飯器にセットしておいたご飯が炊けている。  伊上が帰ってくるなら、おにぎりにしようと冷蔵庫の中を覗く。足元でお腹が空いたと、にゃーにゃーコールが騒がしいので、雪丸の朝ご飯も手早く準備した。  小さな体のどこに、と思うくらい雪丸はよく食べる。  いまは小さいけれどあと数ヶ月もしたら、かなり大きくなるのではと思えた。  がつがつとご飯に食らいつく様子を見ながら、苦笑交じりに天希はおにぎり定食を完成させる。  おにぎりの具は梅しそと焼きたらこ。ナスと油揚げの味噌汁に大根の漬物を添えた。  伊上のおにぎりはアルミホイルに包んで、味噌汁は小鍋に移す。  味噌汁は卓上の電気コンロで温め直せばいい。 「にゃあ」 「もう食ったのか? 早いな。じゃあ、部屋に戻るか」  お盆に小鍋とおにぎりを載せて天希が歩き出せば、雪丸は後ろをちょこちょことついてくる。  こういうときはじゃれついてこないので、人をよく見ているのだろう。  天希が軽く朝食を済ませて、雪丸と遊んでいるあいだに、伊上がようやく帰ってきた。  時計を見ると九時になるところだ。 「おかえり、飯は?」 「ただいま、まだだよ」 「おにぎりと味噌汁が」  猫じゃらしを揺らしていた手を、止めようとした天希に頷き、伊上は着ていたスーツのジャケットを脱ぐ。 「うん、自分でやるから大丈夫。それよりあまちゃん、上着を着なよ」  部屋に入るなり、後ろ手にふすまが閉められ、廊下にいたらしい篠原の驚きの声が聞こえた。  しかし状況を察したのか、彼は黙って来た道を戻っていったようだ。 「あんたしかいないし」 「昨日は痕を残さなくて正解だね」 「うっ、痕があったらこんな薄着はしねぇよ」 「気づかない場所にあったら、どうする?」  ムッとして天希が言い返せば、意地悪げな眼差しで見つめ返される。  一瞬だけ伊上の言葉に焦りを覚えた天希だが、記憶を巡らしてからすぐに「ない」と言い張った。 「すごい自信だね」 「だってあんたが万一にでも、見える場所につけるなんて、ないし」  天希が薄着になると予想していてつけるわけがない。  そもそも伊上はその痕を見た他人が、天希の情事を想像するのさえ、許せない男だ。  以前の誘拐事件で相当、彼は腹を立てていた。 「あまちゃんはもっと危機管理をしたほうがいいよ」 「言動と行動が一致してねぇ」 「そう?」  腰を下ろしたと思えばスマートフォンを構える伊上。  シャッター音が聞こえないので動画を撮られている気がする。 (自分は俺に撮らせてくれねぇのに)  写真嫌いなのか、天希の危険を回避するためなのか。  形に残すのは相変わらず許可してくれない。 (俺も伊上の動画、ほしいのにな)  口元に笑みを浮かべて、スマートフォンに映る天希を見ている彼に、わざとらしく舌を出したら軽く笑って流された。 「可愛いね、あまちゃんは」 「いつまで撮ってんだよ!」  以前、なぜ写真ではなく動画を撮るのだと聞いたが、動いているあまちゃんがいいから、とよくわからない返しをされた。 (そういえば、昨日の夜。伊上のやつなんか言ってたな。なんだったっけ?)  寂しそうな目でなにかを呟いていた。  だがそれは昨日が初めてではない。わりと何度も見ている。  ただ天希が快楽に溺れているときばかり呟くから、真意が汲み取れないでいた。 「俺はもっと、伊上のこと知りてぇのになぁ。なにも知らねぇ」  ゆらゆらと猫じゃらしを振りながら、ぽつんと言葉がこぼれでた。  しまったと思ったけれど、伊上がなにも言わないので、天希も気づかぬふりで雪丸に集中する。 (好きな気持ちが大きくなると、色々と欲張りになるな。伊上が引く一線を越えないようにって思うけど、それじゃ我慢できねぇこと、増えた)  ふわふわの羽根にじゃれつく、雪丸をぼんやりと見ているあいだ、天希は無意識にため息を何度もついていた。 「あまちゃん、あんまりため息をつくと幸せが逃げるよ」 「……っ、悪い。考えごと、してた」 「就職活動、大変?」 「うん、まあ」  本当は違うことを考えていたのに、つい伊上の言葉にのっかってしまい、天希は自己嫌悪に陥る。  あまり伊上に対して、自身の気持ちを隠す真似をしたくない、そう天希は思っていた。 「なあ、伊上」 「ん? なに?」 「俺、あんたが、ほんとに好きだぞ」 「ふふっ、どうしたの、急に」 「なんとなく言っておきたくて」  天希の突然の告白に笑っていた伊上が、二人の関係はあと数年かもしれない――と、志築にこぼしたのはそれから数ヶ月後の話。 「伊上! 俺、就職先が決まった」 「おめでとう。今日はお祝いだね」 「おう。それよりあんた、ちゃんと志築に言ったか? 僕は新庄天希とは絶対別れません、って」 「んー、まあ」 「まあ、じゃねぇ! ほら二ノ宮にいくぞ」  けれど秋が終わる頃にはすっかり元通りな関係。  十八歳も年下の彼氏に振り回されて、嬉しそうな甘い甘い彼氏は健在である。  ずっと傍にいたい気持ちと、面倒な自分の傍にいるのが辛くなっているのでは、という相手を想うがゆえの微妙なずれ。  少しばかり言葉足らずですれ違った二人は、よく似たふたりでした。  end
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