飢餓のグルメ

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飢餓のグルメ

   腹がへってどうにもならなくなった私は目についた食堂に入ることを決意した。 「いらっしゃいませー」  暖簾をくぐり木製の引き戸を開けると、店内の温かな匂いが私を包んだ。炒め物、揚げ物、みそ汁、その奥には白米のほのかに甘い香り。嗅覚が鋭敏になっているのか、あるいは錯覚か、匂いの一つひとつをかぎ分けることができる。途端に胃が騒がしくなり、急き立てるような空腹に襲われた。 「お好きな席どうぞ」  中年の女性店員が言った。  奥にカウンター席があり、手前にはテーブル席が並んでいる。私は平静を保ちながら入り口近くの席に腰を下ろした。  さっきの店員が水とおしぼりを運んできた。 「ありがとう」 「ご注文決まりましたらお呼びください」 「はい」  手を拭き、コップに口をつける。口に含んだ水を常温にしてから喉に流す。  メニューを開く。どれもこれも魅惑的だ。欲を言えば全部食べたい。だが全部頼むと目立つし、何より食べきれないからそんな馬鹿はしない。  迷っている時間が惜しくなった。私は一刻も早く食事にありつきたいのだ。この間に別客の注文をとられでもしたらと考えると気が狂いそうになった。  すみません。口の中で言いながら、顔の前でそっと手を上げた。 「お決まりですか」 「ポークステーキ定食の300グラム、ご飯大盛りで。あと野菜炒めもお願いします」 「はい。かしこまりました」  店員は軽やかに言って厨房へ戻った。  注文が通ったことに安堵した。なんだかおかしくもある。  ふと店内を見回す。学生風の男二人組を除く他の客は皆一人だった。それにしても他人の食事風景が視界に入っている状況というのは拷問に近いものがある。私は俯き、心を無にして料理の到着を待った。 「お待たせしました」  はっと意識が戻り、顔を上げる。 「ポークステーキ定食300、ご飯大盛りと、野菜炒めです」  テーブルに並べられていく品を目で追う。まず定食を載せた盆が置かれ、その奥に野菜炒めの皿が置かれた。眼前に湯気が立ちのぼる。白飯をかっこみたくなる匂いに口の底がきゅっと締まり、腹が鳴った。 「ありがとう」 「ごゆっくりー」  燦然と並ぶ品々を凝視しながら箸を割る。ポークステーキに箸を伸ばす。肉厚で透明感のある見た目にうっとりしつつ、切り分けられたその一切れを半分かじる。  うまい……。  胸のうちで声が震えた。  噛めば柔らかな旨味があふれ――たまらず白飯で追っかける。ぐぐう。腹が鳴った。食べているのに腹がへって倒れそうだ。白飯を多めにすくい上げ、追加で口の中へ放りこむ。ろくに噛まず飲みこむ。次だ、早く、もっと、と猛る食欲に憑依されたかのように体が前傾する。私はがっつきたい衝動をぐっとこらえた。  落ち着け。胃がびっくりしてぴりぴりするのは嫌だろう。廊下を歩くように、焦らず慌てず冷静に。よく噛み、ゆっくり食べるんだ。  私は食べるペースが早くなるのを防ぐため、上品に食べるのを意識して箸を進める。  食べかけのステーキ半切れと程よい量の白飯を口に入れる。咀嚼に時間をかけ、飲み込む。みそ汁をすすったあと野菜炒めをつまみ、白飯で追っかける。水を一口飲んでからステーキを単体で楽しむ。次にステーキの皿にこんもり盛られた千切りキャベツで舌をリセットし、再びステーキ。  やはりうまい。重くないからずっとうまい。柔らかいのに弾力があって、噛みしめるたび罪悪感が溢れた。  空腹の極致を脱し、あたりを観察する余裕が生まれた。  客入りはそこそこ。ちょうどいい混み具合だ。ほとんどの客が黙々と食べ進めている。  食事に集中していて食べ方がひどくない見知らぬ人間というのはなぜこうまで善人に見えるのだろう。そういう一人客との会話も挨拶もない空間で生まれる、自分勝手で綺麗な関係性は心地がいい。  がっしりした体格の中年男が立ち上がった。 「ごちそうさん」 「はーい」  店員が奥のカウンター横に設置されたレジに立つ。  男は会計をすませ店を出た。  視界の端に視線を察知したのは、それから少し後のことだった。  見ると、目が合った。六十がらみの、どこか哀愁を感じさせる男だった。男はきまり悪そうに目を伏せた。  いささか警戒しつつ、私は食事を再開した。  しばらくしてまた見られていることに気づいた。さきほどの男だった。私は気づいていないふうを装ってラストスパートに入った。  途中ご飯をおかわりし、やがて完食した。大満足だ。からっけつだった腹も今やはち切れそうなほど膨れている。少し落ち着かせてから店を出ようと一息つく。 「お兄さん」  声をかけられた。私を見ていた男だった。私は軽く尻を浮かせた。 「じろじろ見てしまったお詫びに奢らせてほしい」  突飛な申し入れに私は言葉を失った。 「綺麗だった。集中して食べる姿がというか……とにかくありがとう」  それじゃ、と、まるで私の言葉を制すように、蛇足になるだけだとでもいうように、男は去った。千円札を二枚、テーブルに置いて。  ありがとう。男の言葉は柔らかく、しかしずっしりと私に染みこんでいった。    何か苦しい状況にあったのだろう。晴れやかな表情の中に消え切らない脆さがあった。自分勝手に食事していた結果、知らず、見知らぬ男の救いにわずかばかりなったらしい。  そして、私にとっても彼は救いとなった。  こうして誰に咎められることなく、この上なく常識的に店を出られたのだから。
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