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ぼくは出来ることなら、その場からダッシュで逃げ出したいと考えていた。Aさんも顔を引きつらせていることから気持ちが同じなのが見て取れた。田中さんも歪めた表情を浮かべながら白い老婆にカメラを向けていた…… この道三十年で色々なものをカメラに収めてきた彼でさえもこんな表情をするのだから、このミュージカルは相当な精神的苦痛を与える拷問であることは明らかだった。ぼくは早く終わらないかなと思いながら白い老婆の独壇場を眺めていた。
拷問は終わった…… その時間は10分程、ぼくにとってはその10分が100時間にも思えるぐらいのものであった。
「「「……」」」
場が暫しの沈黙に包まれた。こんなものに拍手を送ったところで手が痛くなるだけで無益なのだが、一応は取材を受けてくれたと言うことで敬意を払わねばならない。ぼくは嫌々ながらに拍手を送った。誰かが拍手をするとそれに続いて拍手がやりやすくなるもの、Aさんも続けて拍手を送る。
白い老婆はゼェゼェと息を切らしながらカーテンコールに応えるようにぼくたちに手を振っていた。息を切らしながらも満面の笑みを浮かべるその姿は、言っては悪いがやはり不気味としか言いようがなかった。
「駄目ねぇ、70年前の時みたいに可愛く出来ないわ」
ぼくは我が耳を疑った。今、白い老婆が言った「70年前」が真実であるなら、ミュージカルスターとして歌っていたのは70年前と言うことになる。ぼくは「70年前の子役時代の栄光に浸ってるんじゃねえよ、ババア」と、心の中で呟いてしまった。
Aさんも限界が来ていたのか、強引に取材の締めに入った。
「では、本日の取材は以上です。本日は貴重なお時間を私共のために割いていただきありがとうございました」
ぼくたちは白い老婆に向かってペコリと頭を軽く下げた。すると、部屋の隅でずっと眠っていた赤い老婆の車椅子がAさんに向かって凄い勢いで突っ込んできた。
赤い老婆がAさんにだらぁりとしがみつく。Aさんは赤い老婆を受け止めて抱きしめる形になってしまった。
白い老婆がゆっくりとした動きで車椅子を引き、ストッパーをかけた。
「ごめんなさいねえ、よくストッパーをかけ忘れるのよ。大丈夫? おねえさん?」
Aさんは赤い老婆の両肩を掴んだ。その瞬間に彼女は全身が青ざめたような顔をした。白い老婆はよいしょと言った感じで赤い老婆を車椅子に座らせる。その間、赤い老婆は終始口を開くことはなかった。
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