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一秒でも早くこの家を出たい。Aさんがチラチラとぼくの方を見ながらアイコンタクトを送る。ぼくのメモ帳もテロップに起こせるぐらいに白い老婆の言葉が溜まっていた。
正直なところ、もう十分だ。ぼくはAさんに向かって「引き上げましょう」と無言のメッセージを送るかのように軽く頷いた。
すると、白い老婆がぼくたちに満面の笑みを浮かべながら口を開いた。
「これ、全国で放送されるのかしら?」
正直なところ、地上波に乗せられたものではない。しかし、ゴミ屋敷の主人として報道する義務がある。ぼくとAさんは考えが同じだった。Aさんは白い老婆に向かってコクリと頷いた。
「はい、全国放送の予定です」
「まぁ嬉しいわ! 折角全国放送のテレビさんがお見えになったのよ! 久しぶりに歌いたいわ!」
何を言っているんだ…… この婆さんは。ぼくは少しだけ顔を歪めてしまった。Aさんも氷てついた笑顔で老婆の顔を見返す。
「あたし! 日本に来る前はミュージカルスターだったのよ!」
先刻「名前はない」と言っていたのにミュージカルスターだったとはどういうことだろうか。全く以て意味がわからない…… ぼくの顔の歪みが増していく。白い老婆はそんなことに構わずに口を開き続ける。
「連日、お客さんで超満員だったのよ! あたしの歌声を聞くためにいっぱいいっぱいいーっぱい人が集まってくるのよ!」
「ははは…… 凄いですね」と、Aさんは苦笑いをしながら白い老婆に軽い称賛の言葉を送る。それにしても白い老婆の口調がまるで「褒められたことを嬉しがる少女」のようで不気味としか思えない。それが少女の鈴を転がすような声であれば微笑ましいだろう。だが、目の前にいるのは齢八十を超えたような老婆、嗄声で少女のように喋られても不気味としか言いようがない。
「ピアノがあればよかったんだけどねぇ。仕方ないわ、アカペラでも仕事をこなしてこそ一流のミュージカルスター! 聞いて! 『私は家族が大好きです』」
白い老婆は1.2.3と足でリズムを刻んだ後、手を大きく広げくるくるとその場で回りだした。その風圧に乗ってスカートが捲れ上がり老婆の枯れ木のような足が露わになる。もう少し勢いが乗っていれば太腿より上のズロースが丸見えになっていただろう。言っては悪いが、目に毒である。
白い老婆は回転を止め、足でステップを数回踏んだ後、部屋中に響き渡るような声で歌い始めた。正直なところ、何を言っているのかがわからない…… 英語でもない、フランス語でもない、ドイツ語でもない…… どこの国の言語で歌っているのかが分からない。ただ、その歌い方はミュージカルの天才子役(と、称される舞台専門の子役)が歌っているものに雰囲気がよく似ていた。自慢ではないが、ぼくは舞台やミュージカルの映像編集を何度か行ったことがあり、耳は肥えている方だ。これぐらいはわかる。
歌い方は確かに天才子役そのもの、しかし、目の前にいるのは老婆。ヨロヨロとしたステップを踏み、枯れ木のような生足を晒し、嗄れた声を一心不乱に放っているのである。言っては悪いが目と耳に毒である。踊りながら無理矢理裏声を出して叫び狂っているようにしか見えない。見ているだけで居た堪れない気もちになり、共感性羞恥に襲われ、恥ずかしく思えてくる。
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