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花宮薫は作曲家としてデビューした際、明言した。
「花宮薫の曲を誰が弾くかは俺だけが決める」
その発言が許されるほどの才能を花宮薫は持っていた。誰もが彼の曲を演奏したがったが、花宮はその表明を覆したことはなかった。指名される者はほとんど固定されている。その代表が花宮のピアノと言われるピアニストの岸海鈴だった。澪木優菜ではない。
(でもそれは昨日までの話)
「先生」
優菜は花宮を見るとにっこり笑った。
「お話があります」
今日から私が花宮のピアノになる。
劇団ナゲヤ座の稽古場でひとりピアノを弾いていると澪木優菜が顔を出した。
「マネージャーさんにここだって聞いたから」
岸海鈴はピアノの手を止めると久しぶりと言った。優菜は同世代のピアニストで何かとよく比較された。国内外問わず取った賞の数はほとんど一緒だろう。仲がいいとはお世辞にも言えないが、彼女が参加していないコンクールはどこか寂しい。
「意外。花宮のピアノがこんな仕事してるなんて」
「あたし、ここの劇団の喜劇好きなの。それより、なにかあったの? 連絡なしで来るなんて」
海鈴は優菜の失礼な物言いを取り合わなかった。優菜もそれ以上言わなかった。
「近くまで来てたからちょうどいいと思って」
「ちょうど?」
「今度の演奏会、花宮先生の新曲を弾くことになったの」
優菜の顔は優越感に輝いていた。
「聞いたわ。よかったわね」
「見せてあげる。特別に」
優菜はタブレットを突き付けた。花宮の曲だとすぐにわかった。タイトルは――
「掃除? 変わったタイトルね」
「どう思う?」
「いい曲だわ。弾きたい」
その言葉に噓偽りはない。譜面を見ただけで曲の素晴らしさがわかる。でもなぜだろう。華やかで自然と体が動くような曲なのに心臓の奥が冷たくなる。
「ダメ。だって先生がわたし用に作ってくれたんだもの」
「あなた用?」
確かに花宮は演奏する人間を指名するが、専用とまではいかない。花宮のピアノと称された海鈴でさえ「君用」の曲などもらったことはない。
「そうよ」
「ねえ、どうしてあなた用の曲ってことになったの」
私は嫉妬しているのだろうか。海鈴は自問する。答えはすぐに出た。もちろん、嫉妬している。花宮のピアノとまで言われた私を差し置いて専用の曲をもらうなんてと思っている。もしかしたら、今後の花宮のピアノは澪木優菜のものになるのではないかという不安もある。胸のざわめきはそのせいだ。だが、それだけだろうか。
「秘密」
優菜はあでやかに笑った。
「でも、特別にここでだけなら弾かせてあげてもいいけど」
「ありがとう」
海鈴はピアノに指を走らせた。初見通り、とにかく絢爛豪華という言葉がよく似合う。まるで宮廷音楽だ。そのくせ古臭さがない。だが、心臓の奥底が冷たくなるという感想もまた当たっていた。肌が粟だったのは曲の絢爛さに圧倒されたからではない。心臓の奥底が冷たいからだ。初見というのも差し引いても指が上手く動かない。この曲が怖い。
(ファンタジックでもあるから、ほうきやはたきが雑巾がおしゃべりしたり踊ったりしながらしながらどこかの宮廷を掃除しているともとれるけれど)
だが、どこかしっくりこない。この曲の奥底の冷たさは何だ。なぜ、この曲を優菜に。海鈴はとうとう指を止めた。
「これ、本当に弾いて大丈夫?」
海鈴の偽らざる言葉はしかし、優菜は他の意味で取ったらしい。口の端に憫笑を浮かべた。
「嫉妬? かわいい。花宮のピアノ、岸海鈴もしょせんは人間ね」
「だってこの曲変よ。怖いの。タイトルだって。これ弾いてなにも思わなかった?」
「そんな話しに来たんじゃないの」
優菜は笑みを崩さないままチケットを差し出した。
「リサイタル、来てくれるわね?」
「え、あ。ありがとう。でも」
「最前列の一番いい席を取ったの。絶対見てね。先生の新曲、披露するんだから」
「優菜ちゃん、その」
言いかけて海鈴は口を噤んだ。これ以上何を言えばいいのだろう。すべては美鈴の想像で何一つ根拠がない。単に嫉妬しているだけと言われればそれも否定できない。悔しくて仕方がないのも事実だ。だが、何この曲を弾いて欲しくないのはそれだけの理由ではなかった。一言で言ってしまえば嫌な予感以外の言葉が見つからない。しかし花宮薫の曲を弾くのを止める理由としてはあまりにも弱かった。
「なあに?」
「楽しみにしてる」
その言葉が嘘だと優菜は見抜いたはずだ。だが、その嘘の意味までわかったかどうか。
「早くない? 集合十一時だよ」
海鈴は座付き作家の多摩桃絵が来るまで呆然とピアノの前に座り込んでいた。
リサイタルは盛況だった。あまたいるピアニストの中でやはりライバルは澪木優菜だと改めて思う。仲良くなんて永久にならない。でも失いたくない。曲はもう残すところ花宮の新曲のみになっていた。
「この曲は花宮先生が、私のために作って下さった曲です」
いやな予感に全身が汗ばむ。嫉妬や羨望に混ざった冷たい何か。
「聞いてください。ちょっと変わったタイトルで可愛いんです。掃除」
(なにこれ)
絢爛豪華な旋律。思わず体が動くような甘美なリズム。優菜特有の軽やかな運指が余すことなくそれを表現する。人間や掃除用具たちがくるくる踊りながら掃除しているのが目に浮かぶ。そこには冷たさも恐怖もない。優菜はやはりこの曲に絢爛豪華さ以外のものを見出してはいなかったのか。それとも岸海鈴が、私が、嫉妬と羨望のあまり、勝手に読み取ったのだろうか。あの薄気味悪い冷たさを。
曲が終わると割れんばかりの拍手が鳴り響いた。海鈴も手を叩いた。確かに優菜の演奏は素晴らしかった。そう、素晴らしかった。海鈴は拍手を終えると粟立った肌を撫でた。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
リサイタルの次の日。稽古場に行くと座付き作家の多摩桃絵がTVを見ていた。
「他のひとたちは?」
「まだ来てないよ。集合前だもん。海鈴早く来すぎ」
「おたまちゃんに言われたくないわ。ここのピアノ好きなの。弾いてて気持ちいい」
「ひとを調理器具みたいに呼ばないで。あ、花宮じゃん」
花宮の名前に反応して視線をTVに移した。一体何の番組なのか、珍しく花宮がインタビューを受けている。どうやら生放送だ。
「花宮先生の新曲“掃除”のご感想は」
「非常に残念です」
一瞬、レポーターは言葉を失ったが、何とか言葉をつむぐ。
「それはどういう意味ですか?」
花宮は表情のない目でじっとレポーターを見た。暗く整った顔立ちの彼にそうされると大抵の人間は黙ってしまう。さしもの有名レポーターもそれは同じらしかった。
「脅迫してまで僕の曲が欲しいのかと一生懸命曲を作りました。それがあのような低レベルな演奏になってしまって落胆しているという意味です」
今度は海鈴も言葉を失った。レポーターと違ってすぐに言葉が出てこない。滅多なことでは驚かない桃絵でさえ、瞬きもせずに海鈴とTVを交互に見ている。
「脅迫!? 誰に脅迫されたのですか?」
「澪木優菜さんです」
「ピアニストの澪木優菜さんですか!?」
どよめきがTVごしから鮮明に伝わる。
「婚約者のいる方と付き合っているのが澪木さんに知られたんです」
「その、方は?」
「大山穹子さん。大山卓巳先生のお嬢さんです。僕は彼女を愛していました。ですがもう、彼女とは会えません。なぜなら澪木さんに脅迫するよう依頼したのがほかならぬ大山穹子さんだからです」
大山先生は音楽界の重鎮ーーと言えば聞こえはいいが、実際は才能などとっくに枯渇し、過去の栄光にすがって威張り散らすことしかできない音楽界の恥だ。この男の無意味な傲慢さのために何人の音楽家たちが干されたことか。穹子はその恥知らずな傲慢さをよく受け継いでいた。花宮が本当に穹子と付き合っていたのかそれとも付きまとわれていたのかは知らないが、いずれにしても穹子と本気で結婚する気などなかったはずだ。あの男が本気の恋愛をしたことなど一度もない。間近で見てきた。
「証拠の音声もあります」
「なるほど」
桃絵は嫌悪の表情を隠しもせずに言った。
「タイトル通り、あの曲で掃除したわけだ。大山のドラ娘と澪木さん。クズしかいな」
桃絵の言葉を皆まで聞かず、稽古場を飛び出した。
とあるスタジオの一室で花宮はピアノを弾いていた。思ったっとおり、花宮は阿鼻叫喚の騒ぎから上手く抜け出したようだった。
「どういうつもりですか」
「よくここがわかったな」
花宮はピアノの手を止めもしなかった。よくわかったなどと白々しいことを言う。長い付き合いだ。抜け出して向かう先などわかっている。海鈴はピアノへ歩み寄ると力任せに手をついた。不協和音が鳴り響く。花宮は手を止めた。
「わかってるからここに来たんだろう?」
「あなたにあんな脅迫は無意味のはずです。大山の影響なんかあなたにはもう及ばない。どうして脅迫を突っぱねなかったんです」
海鈴は手を離した。
「どうしようが俺の勝手だろう。被害者は俺なんだ。脅迫されたのが俺じゃなかったら? 大山の影響を受けるやつだったら? 穹子に目をつけられたら結婚するか干されるかの二択を迫られるのか。悪魔の所業だ。それでも詰られるのは俺か」
花宮は笑みを浮かべた。
「でも、あなたは突っぱねられた。突っぱねていれば」
「澪木はピアニストのままでいられた? それはどうかな。花宮のピアノになるために別の手を考えたさ。そして遅かれ早かれ破滅していた。ああ、澪木を訴える気はないから安心しろよ。ピアニストとしてはしばらく無理だろうが前科はつかない」
「大山先生のお嬢さんはどうする気なの」
「インタビューを聞いてきたんだろう? もう会わない。まあ、会いたいと思ったことなんか一度もないけどな。全く鬱陶しい小娘だった。行く先々に現れて身をくねらせて結婚を迫る。退屈な婚約者より俺との刺激的な結婚生活がいいんだそうだ。結婚を断ったら澪木を使って脅迫してきた。澪木への楽曲提供とあの小娘との結婚を飲まなければ大山大先生に言うんだそうだ。あの小娘を弄んで捨てたと」
「なんで澪木が。関係ない」
「さあな。どこであのドラ娘と繋がったかは知らんが、利害一致と言ったところだろう。お嬢様はご自分の手を使ったりしないものさ。澪木はどうしても俺の曲を演奏したかったらしいな」
まるで他人事のように言う。
「そうだ。せっかくだから、あの曲、君が弾くといい」
「でもあれは、澪木の」
「俺の曲だよ」
「澪木専用だって」
「もう彼女はあの曲を弾けないだろう。せっかく作ったんだ。埋もれさせるのは忍びない」
「白々しい。最初からそのつもりだったでしょう」
海鈴は力なく言った。花宮は笑った。
「弾きたくないか? あの曲」
答えに詰まった。弾きたいに決まっている。ピアニストなら誰だって花宮の曲を弾きたい。あの曲も例外ではない。
「彼女が下手だったことに感謝するんだな。君は最初からそのつもりだったと言ったが、違うよ。インタビューの通りだ。俺は俺を脅してまで弾く曲というのがどんなものか知りたくて話に乗った。彼女があの曲を弾きこなせていたら、俺は喜んで脅され続けていたさ。曲もなんなら金もいくらだって提供した。穹子とも結婚したかもな。君ににこの曲を弾く機会は永遠に訪れることもなくね」
「嘘。だったらどうして掃除なんて曲名」
抵抗してみたものの、傲慢で残酷な物言いは憎悪を覚えるほど的を得ていた。海鈴はあの曲に心底恐怖しながら同時に私なら弾けると思っていた。澪木優菜よりずっとあの曲を弾きこなせると。
「別にあのふたりを掃除するから掃除ってつけたわけじゃない。あの曲に掃除とつけたのは弾き手が掃除の対象かどうか見極めるための曲だからだ」
だから心臓の奥底が冷たくなったのか。いつもの澪木なら気づいていたかもしれない。どんな手を使っても花宮のピアノを手に入れると思う前なら。
「君なら弾けると思うよ。澪木の”掃除”を聴く君を見た時、確信した」
甘い毒を手渡された気分だった。海鈴はかすれた声で言った。
「来月のリサイタルのトリに入れてもいい?」
岸海鈴は”掃除”を弾く。ほの暗い優越感とそれに対する罪悪感、曲の奥底の冷酷さへの怯えを抱きながら”掃除”を弾くだろう。例え、掃除される側になる可能性を孕んでいたとしても。拒絶するにはあまりにも魅力的な曲だった。
「いいよ」
弾いても弾かなくても苦しむなら、弾くしかないのだ。海鈴は部屋を出た。しばらく澪木には会えないだろう。もしかしたら、永遠に会えないかもしれない。自己嫌悪と体が震えるほどの寂寞の思いを心の奥底にしまい込み、海鈴は歩き出した。これから稽古場に戻って喜劇の曲を弾かなければならないのだ。
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