序章/霧雨の山脈

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序章/霧雨の山脈

皐月上旬 霧雨が静かに空気を濡らしていく 列島には梅雨の季節が訪れていた。 湿気に霞む山を黒い軽自動車がゆっくりと登っていく。 運転手は時折ハンドルをゆるりと握り直しながら、所在なく視線を左右の木々に彷徨わせていた。誰が見てもこの山に目的地を定めているようには見えない。事実、彼女はもう三時間ほど山中をうろついている。 自分以外に人の気配が一切ない道路をひた走りながら、運転手はもうすっかり空になったペットボトルを後部座席に放る。コンっと硬い音がろくに反響もせず響く。 窓を開ける。どうやら霧が辺りを包んでいるらしい。視界が白く煙っている。緑の匂いと雨の残り香が、ふわりと車内に漂った。 車を停めて、深くため息をついた。 もうどこまで行っても同じだろう。 車を降りてドアを閉める。ボンネットに腰掛けて空を見上げてみた。灰色────木々の先すら霧に覆われて見えない。山の天気は変わりやすいがあと数時間はずっとこのままなんだろう。 何も変わらない。 ここにこうして居ても仕方ないと、ずるりとコンクリートに降り立った。 助手席に転がっていた瓶を取り上げ乱暴に中身を振りかける。辺りに甘い匂いが漂った。 鍵も鞄も置いていく。メモ帳とペンをポケットに突っ込み、車を捨てて草むらに分け入る。 しばらく平坦だった地面は徐々に角度を急にし、背の高い草が視界を妨げる。湿った土に足を取られながら、息を荒らげ奥へと進んでいく。甘い匂いが喉に張り付いて咽る。 文明と自然の境界線に転がった車の中で、無音のまま携帯電話が明滅していた。 ◆ ────東京某所、二日前。 高峰凌は際限なく襲いかかってくる不快感と戦っていた。 紫煙、 化粧、 体臭、 下水、……………… 街は至る所に悪臭が漂っている。それは傘を煽る暴風雨でも洗い流せるものではない。しかし彼女は既に機能しなくなったマスクを外そうとはしなかった。湧き上がる苛立ちとこみあがる吐き気でどうにかなりそうだ。 この時期にしては有り得ない程の低気圧が、全身の筋肉を強ばらせていく。寒いのか暑いのか、それすら判然としない。 雨の壁はその役割を果たしてくれない。前方のくたびれた会社員に向けて前髪越しに恨み言を呟く。とばっちりもいいところだ。鼻腔を通り抜ける悪臭、それを体感しているのは、おそらく自分だけなのだから。 じんじんと痛み続ける耳に嫌気がさして紐に指をかけた。一瞬緩めるだけで気分がだいぶ紛れた気がする。それでも不快感からは逃れられない。蓄積していく鬱憤。今にも叫び出したくなるのをぎぃと唇を噛んでどうにかやり過ごす。 信号が歩行権を明け渡す。ヒールで地面を踏み潰すように足早に駆ける。 無数の車のヘッドライトに顔を顰め、身体を覆う濡れ雑巾と化したスーツに足をとられ、顔に張り付き呼吸を阻害するマスクをはぎ取りたい衝動を堪えながら彼女はようやく自宅のアパートに駆け込んだ。 チェーンロックに傘を掛ける。 肩を激しく動かしながら、呆然と、ただ立ち尽くした。 「……はぁ…………、はぁ……………………」 まず、マスクを取る。 靴を脱ぐ。 スーツを脱ぎ、ストッキングを脱ぎ、シャツを身体に張り付けたままリビングへ向かう。ぽたぽたと落ちる水が床を濡らしていく。後で絶対に面倒くさいことになるのに、解放感に支配された今はもう何もかもがどうでもよかった。 上京して六年。思い描いていた夢や理想とはかけ離れた、怠惰で多忙で無機質な日々。これがいつまで、あと、何年続くのか。 何年続くんだろう。 死ぬまでかな。 少なくともこの仕事を老いとともに終えるまではずっと続くだろう。きっと私はそう選択する。つまらない人生を。 そんなことを数歩のうちに考えて、ベッドに倒れ込んだ。 清潔で整えられた自分の部屋。 クッションに染みついた柔軟剤の匂いを吸い込む。ため息とともに今日一日受けた呪いが吐き出される感覚。しばらくの間静かに呼吸を繰り返した。 じんわりと実感を伴ってきた疲労が、背中に重くのしかかる。 カーテンの隙間から響く、打ち付ける雨は現実からの使者のようだ。 逃がさないぞと。 「うるさい」 ここ数年を経てすっかり口癖になった。何かストレスを感じる度に口にする。感情を抑えることが難しくなった。それでも我慢の毎日だ。 大学や高校で築いた友人関係は卒業と共にあっさりと崩れ去った。連絡先はあったが、学校という共有の場を失ってからはどう接すればいいのかがわからなくなった。誰も彼も、皆自分たちが許容する範囲で友好な関係を結んでいる他の誰かがいる。それは当たり前のことなのだが、改めて割り込む勇気がなかった。 帰省はもう二年近くしていない。お金が無い。時間が無い。仕事が忙しくタイミングが合わない。様々な言い訳を用いて先延ばしにしてきた。仲違いしているわけでもないのに、わざわざ帰ろうという気がどうにも起こらないのだ。 加えて仕事も上手くいかない。毎日のようにミスが重なる。塵も積もれば山となる、次第に上司からの評価は厳しくなり同期からは置いていかれる。不甲斐なさとやり場のない羞恥心で頭の中がぐちゃぐちゃになる。 もうずっと前から精神は追い詰められていた。 冗談でも比喩でもなく、凌は自分が認識しているあらゆる世界から消えたかった。 人が苦手だ。 たったそれだけの事で、こんなにも人生が上手くいかない。 自分なりに、折り合いをつけていたつもりだった。仕方ない、どうしようもないのだと、諦めて納得して、うまくやっていたつもりだった。 それでも小さな澱が積もって、気づけば出社前の玄関で動けなくなるほど心が疲弊していた。医師からは鬱と診断される始末。最早自分の力ではどうしようもなくなっていた。 必死に目を背けていた分、気づいてから襲いかかってきた現実は耐え難かった。 どうにかしないといけないのに、その方法すら薄ら勘づいているのに、勇気が出ない。 何度も消えたいと呟きながら、 中途半端に期待しては絶望に引き戻される毎日。 浅瀬でもがくようで────満足に息が出来ない。 こんな日常がいつまで続くのか。 自分のなけなしの努力が報われる日はいつ来るのか。 永遠に来ないのか。 私はどうして生き延びているのだろう。 この人生の責任は誰が取ってくれるのか。 全てが悪い現実に終結する運命だったなら、努力なんて無駄だったんじゃないか。 私が自由に出来る物は、あと何がある? 「……………………」 身体を起こす。 安堵に満ちていた部屋が、全て色素薄く、無機質な景色へと変化していく。 普段見なれた部屋を何の気なしに携帯電話のカメラ越しで見たことがある。鮮明で、他人の目を通した景色のようだった。自分が機械になったような、虚無感が脳に充ちている。 妙に弛緩した思考のまま立ち上がり濡れた衣服を全て脱いでシャワーを浴びた。黒いタートルネックとスキニーパンツに着替え、丁寧に髪を梳かし化粧をする。 クローゼットの奥から、綺麗に飾られた小箱を取り出す。包装をほどいて、中から取り出したのは小瓶だった。去年の誕生日に自分へのプレゼントとして購入したきり使わずに仕舞われていた、金木犀の香水。 部屋の中央に立ち、頭上に掲げてひと吹きする。 ふわりと霧散した香水が降りかかる。 黒いショルダーバッグを開け、携帯電話、財布、筆記用具、香水の瓶を入れる。 玄関に行き車の鍵を取る。電車の方が早いからと休日でもろくに使われることはなかったが。同じく数回しか履かなかったスニーカーの紐を結ぶ。 後ろを振り返る。 「…………………………………………、うん」 納得したように目を伏せる。 床に水溜まりを作っていた傘を持ちドアを開ける。 激しさを増した雷雨が、殊更に輝いて見えた。 ◆ 何十分、 いや何時間登っただろう。もう手足の感覚がない。 ひたすら濃い緑の匂いが溢れている。歩けど歩けども、景色は一向に変わらない。 ぬかるんだ土と草の汁で全身は汚れに汚れ、それでもこうと思う場所が見つからない。普段全く運動などしていないのだ、肩を上下させる度に胸が激しく痛んだ。 ぐいと腕で顔を拭い、足を止める。膝に手をつき必死に息を継ぐ。 なんだか可笑しくなってきた。 目的が目的だけに、泥まみれで豪雨に濡れて、せっかく振った香水もその効力を失うほど汗だくになっている自分が心底莫迦に思えてくる。 でも、これでいいのだ────これで自分は納得したいのだ。 だから進まないと。 …………不思議だ。 一歩進むごとに身体は重く軋んでいくのに、頭は靄がかかったように夢心地なのだ。 終わりくらい自分で選びたかった。その通りにしたはずなのに、どこかで何かが引っかかる。 究極の選択の果てに、まだ迷うのか。 「あ、はっ……」 空虚な笑いが口から漏れる。 ふと────強い風が轟と吹き荒れた。 思わず腕で顔を庇う。息を止めてしまうほど強い風。 濃い緑の匂いをかき消す、微かに花のように香る暴風。 しばらく背の低い茂みに隠れてやり過ごす。 和らいだ風の中でそっと目を開いた。風が吹いてきた方向は木々が少なく明るくて、つまり少しばかり開けているらしい。 霧も風に飛ばされたようで視界は明瞭だ。 行ってみよう。 道が示された気分で、少しばかり高揚を覚えながら凌は重たい足を引きずった。 がさりと重なった葉を押しのけて、身を乗り出す。 「────」 落胆した。 期待していた緑の台座とは、全く逆の光景が広がっていた。 森を抜けた先にあったのは樹を刈り取った平らな土地だった。 緑の垣根の向こうには石造りの噴水。 門からは煉瓦の小道が敷かれ、広々とした敷地に二階建ての邸が建てられている。その中央には三角屋根の塔が鎮座しており、屋根に飾られていたのは────、 「……教会?」 蔦が絡んだ鉄製と思わしき装飾品は紛れもなく十字架で、建物の至る所にヒビが走り窓も幾つか割れた痕跡がある。打ち捨てられた教会だろうか。 「…………」 自ら果てようとする自分に対しての罰か、或いは思い留まらせようとしているのか。 いずれにせよ自分はここへ導かれたのだと思えてならない。せっかくだ、祈りくらい捧げてみようか。 深くため息をつく。 人の気配もない。侵入しても咎められることはないだろう。立ち入り禁止の柵もテープもないのが気になるが、廃屋全てにそういった注意がなされているとは限らない。 ずっと前傾姿勢で居たせいか、背筋を伸ばして歩き始めると身体がほぐれていく気がする。 芝生をまたぎ、ひび割れた噴水を横目に通り過ぎて、古びた扉に手をかける。 鍵はかかっていなかった。 中に入る。 ────思わず息を呑んだ。 通っていた高校はミッションスクールだった。その時聞き流していた知識が不意に思い出される。 教会は神の肉体と同義であるらしい。 人心離れてもその尊さは変わらぬと、天使が飾り付けたのか。 雲の隙間から光がさした。 色とりどりのステンドグラスを透過した光を受け、 尚鮮やかに咲き誇る────花、華、花。 そこは生命溢れる、温室だった。 「ぁ…………」 思わず零れた音は何の意味を含むのか。感動、驚愕、困惑。そのどれとも違う、無意識の声。 扉を開け放つ。風が吹き込みぐわりと景色が揺れた。教会の内部には薄いガラス板が建てられており花々を守っているらしい。よく見ると窓辺や壁際に棚とテーブルがあり、試験管やフラスコといった何かしらの器具も見受けられる。 そして、微かに────甘い匂い、が、 「何か御用ですか」 心臓が跳ね上がった。 よく響く低い声が背中に落ちてきた。一気に全身が緊張する。恐る恐る肩越しに首を巡らせた。 白いシャツを纏った、均整のとれた体躯。 軍手を施した左手、右手には花が根ごと入ったビニール袋と園芸用のスコップ。 暗いブラウンの髪とグレーの瞳が、彫りの深い顔の威圧を和らげている。 どう考えても聞こえたのは日本語のはずだが、外国人と思しき男性が自分を見下ろしていた。 見合ったまま、両者共にしばらく沈黙する。 勝手知ったる風を見るに彼はこの教会────温室の管理者で間違いないだろう。 咄嗟の言い訳すら疲労と驚きで混乱していた凌の頭には浮かばず、それでも何か返さなければと言葉を探した結果、口をついて出たのは、 「あ、の…………祈ってから死のうと思って、」 はっと口を噤んだが遅かった。 男性は怪訝な顔をして手に持ったスコップとビニール袋を置き、軍手を脱ぐ。 「……これは教会を改装した私の邸だ。ご期待に添えず、申し訳ないが」 嫌味とも冗談とも取れないのは、目があまりに真剣だからか。 またしても返す言葉が見つからず萎縮した凌は目を伏せてしまう。汚れた身なり、知らなかったとはいえ他人の家に侵入した浅はかさ、自殺目的を露見する愚かさ────羞恥と絶望で顔が熱くなった。 今すぐ走って逃げようにも、もう全身の筋肉が言うことを聞かない。せめてこれ以上恥を晒すまいと必死に涙を堪える。頭の中は真っ白だ。 そんな凌の心情を知ってか知らずか、男性はおもむろに手を差し出した。 「……手当しよう、来なさい」 言われて気がついた。草に肌を切られ、転んで出血している。冷えた体では感覚が鈍っていてわからなかった。 骨太くごつごつとした、大きい手。 仕事以外で他人に握手を求められるのは何年振りだろう。 断ろうにも思考が未だ纏まらず、半ば自棄になって差し出された手を取る。うつむいたままの彼女を咎めもせず、荷物を拾い上げて男性は邸内へ向かう。温室のガラス戸がきい、と開く。 ────鼻腔に甘い香りが流れ込み、 凌は意識を失った。
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