抱き枕

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 気づけば、私は硬いタイルの上で寝ていた。顔中脂っぽくてベタベタする。舌を出して上唇を舐めとると少し酸っぱい味がした。  私は身を起こそうと、タイルに手をつくと、タイルはベトベトした何かで濡れていた。反射的に手を引っ込めると、私は掌に、肌色の絵の具みたいなものがびっしりついているのを確認した。これは――ゲロだ。誰が吐いたのかもわからない。ただ、鼻の奥が、己の死期を予感したようにひくついていた。刺さるような酸味。――これは人間の内容物で間違いがない。人間は至って腹黒い生物である。一説には、快楽から嘘をつく唯一の生物だと聞いている。途端に私は――身体中からゲロの匂いがするのを感じた。気怠い体を、今度はタイルの滑りを我慢しながら手をつき、ゆっくりと立ち上がった。壊れかけた電灯、ガムで黒々としたネオンの看板、そこら中で寝ている人間たち、サンタクロースのようなホームレス――ここは渋谷だった。時計は五時を指している。辺りは閑散としていたから、午前のことだろう。午後はどこからともなく現れた人によって埋まる。私は一体何をやっていたのだろうか。頭痛を感じながらも、思い出そうと頭を動かしてみた。心なしか、油の足りない蝶番の動く音がした気がする。あれは確か――クラブハウスの中だったか。私は昨日、クラブに音楽を聴きに来たのだった。  爆音が身体を包んでいた。私の身体ほどもある巨大なスピーカーから、心臓を抉るようなサウンドが垂れ流しになっていた。私は、ビートに身を任せて踊った。ヒップホップにユーロビート。私は夢中になって手足を動かす。――とそこに、私の身体を誰かが触っているような感触を覚えた。キーボードを打つようなタップで軽やかに――しかし確実に私を狙って――おしりの線をなぞっていた。しかし、私は声を上げなかった。いや、上げられなかった。上げたところで相手にされるはずもなかった。ここはクラブハウス。この暗く、狭い空間にくる女たちは皆、お触りOKだということが男たちの暗黙の了解だったのだ。事実――女の中にもそういう人はいた。私の友達は触られたがっていた。ここにくるようなイケメンに触られるのなら、悪いことないじゃない――いつか、クラブが苦手だと言った私に、彼女は言ってのけた。そんなわけないだろう。私の身体は、私だけのものだ! 私以外が、私の許可もなく、私に触れていいわけがないだろう。……私はそう言えなかった。それどころか――私は無事唆され、クラブハウスに来たのだった。残念ながら、私はクラブミュージックが好きでもいた。爆音で身体を揺らすのが好きだった。この前、賃貸でダブステップを聞きながら鶏皮を焼いていたら、不動産から「音楽がうるさい」と苦情が来た。分かる――と思った。しかし同時に、理不尽に感じた。なぜだ。なぜ、好きな音楽を聞いてはいけない? クラブミュージックをどこで聞けばいいのだろう? 公園? 公園でも、不審者扱いにされると聞いた。じゃあ――クラブしかないじゃないか。だけどクラブは―― 「触らせちゃいなさいよ」彼女は言った。板についた上目遣いを私に向けながら。「こうやって誘惑して、イケメンを落とすのよ」 「嫌だ、私はイケメンなんかに興味はない!!」私は叫んだ。しかし、想定の範囲内だったのだろう。彼女はびくともせず、 「あなた、結構スタイルいいんだから」  あの目が、金目鯛のようなあの目がとても憎い。私を、値踏みするな。私の身体は、私だけのものなのだ! しかし、音楽欲に抗えない自分もいた。自分の好みは、自分だけのものだ――ちょっとくらいならと、私は折れた。ちょっと触られるだけなら、まだ大丈夫。でも――今触られて思った。やっぱり無理。アメーバのような手で尻を触る男に、私は心底憎悪を抱いた。そして――キレた。  それからは覚えていない。多分、袋叩きにあったのだろう。あるいは、レッドブルウォッカでもがぶ飲みしたに違いない。どちらにせよ、私は気を失ったのだ。そして誰かに捨てられた。まるで抱き枕をゴミ捨て場に捨てるように私を投げたのだ。ゲロまみれになった私をみて、笑ったかもしれない。唾を吐いたのかもしれない。踏んで遊んだ可能性だってある。私は身も心もボロボロだった。帰ろう……どこへ?  私の身体はもう、どこにもなくなっていた。
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