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プロローグ
もうすぐ4月とはいえ、夜半に降る雨には肌寒さを覚える。
暗いキャンパスの中でポツンと、岩戸亜美は折りたたみの傘を差しながら黙って漆黒の地面を見つめていた。
ずり下がったメガネを、左手の人差し指で元に戻す。お気に入りの、フレームが赤くてまん丸のタイプだが。
……このメガネもそろそろ買い替え時かもね。
小さくため息をつく。
レンズにも細かい傷があちこち入っているし、へたったフレームがそろそろ寿命なのは分かっているが、流行りのフレームを売りつけたがる店員と喋るのが苦痛で行く気がしないのだ。
もしも本みたいにネットで注文出来たのなら、どんだけ気楽なのだろうと思うのだが。
「……」
じっと足元を見つめる。闇に沈んで分かりにくいが、1年経った今でもアスファルトに残る僅かな血痕。そう……かつて親友だった『牛尾テルミ』の痕跡だ。
「……そろそろ午後9時12分」
スマホの時計で時間を確認する。
夜空を見上げると、外灯の明かりを雨粒が細かく遮っていた。
「雨、結構降ってきたなぁ。後で髪を乾かすのに手間が掛かるのに」
よく考えたら半年以上、美容院に行ってない。伸びた髪の先端が雨でしっとりと濡れるのが分かる。
当然だが、暗い夜空の先に星空は伺えない。
……これじゃぁ『火星』が見えないや。テルミちゃんの目指していた火星が……。
そう言えば、1年前の時も雨だったっけ。
と、その時。
「ああ……誰かと思ったらやっぱり岩戸君だったか。研究室を覗いたら姿が無かったんで、そうだろうとは思ったけど」
背後から低い声が聞こえる。
「増田先生……?」
振り返った先にいたのは、亜美が所属するゼミの増田教授だった。上下グレーのスーツに、黒のネクタイ。
「花とかは……いいのかな? 手ぶらのようだが」
増田は傘を傾けて、眼前にある5階建ての校舎を見上げた。
「え、ええ……そういうの趣味じゃないんで」
亜美がゆっくりと首を横に振る。
「何つーか、『ここで死んだんだよ、可哀想でしょ? この校舎の屋上から転落したんだよ?』ってアピールするのもヤなんすよ。無関係な人間が見たら気味悪いだけかもだし……私だけが分かってれば、それで十分つーか」
ボソリと呟く。
「そうか……そうだな。確かにそうかも知れん。今はただ、牛尾君の冥福を祈れれば、それでいいのかもな」
増田の手には小さな赤い手提げ袋がぶら下がっていた。テルミが生前に通っていた有名ケーキ店のロゴが印刷されている。だが、増田はそれを足元に置くのをやめた。
「……今日は、報告に来たんす。ホラ、命日って来るって言うじゃないっすか。だから、『来てるんじゃないか』と思って。……『全部片付いたよ』って、報告に……」
時計の表示が9:12になる。それと同時に、亜美と増田が合掌しながら軽く頭を下げる。
「……テルミちゃん、あんたが死んでから色々あったよ。卒業式にはテルミちゃんの椅子も用意してあったし、アタシたちの研究が認められて小笠原諸島での実験にも参加したんだよ、凄いでしょ? 後はテルミちゃんのお兄さんに会ったり、ホントに……ホントに色々と……」
誰に言うでもなく、小声で呟く。
それはまるで鎮魂の読経のように。
次第に大きくなる雨音に掻き消されながら……。
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