嵐の予感

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嵐の予感

 しばらくルーサと泳いだあと、カリナは海から上がり散歩をすることにした。タルマは諦めて帰ったらしく砂浜は静かだった。ブラブラ歩いていくと漁師が座り込み網を修理している。 「やあカリナさま!」 真っ黒に日焼けした漁師が、歯抜けの口を大きくあけて笑いかけてきた。 「おじさん、今日はたくさん釣れた?」 「魚のやつら、今日は落ち着きがなくてさっぱりですさ」  漁師はじっと海を見つめた。 「嵐が来そうだと思いやしませんか?」  カリナも漁師の横に立ち、海を見つめる。 「そうだね。いつもと違う」  さっき海で泳いだとき、いつもより魚の数が少なかった。きっとサンゴの隙間に隠れたのだろう。それに潮の匂いがきつい気がする。  今のところ空は晴れていて、海は穏やかだ。それでも、毎日海に出る漁師と、この島の自然を知り尽くしたカリナには、嵐の前触れが感じられるのだった。 「夕方ごろ降り出して、夜中にひどくなるってところですかい」 「いつもより荒れるかもね」  遠くを見ながらカリナはつぶやいた。 「カリナさま、嵐が船や島を壊してしまわんよう、お祈りを頼みますよ」  漁師は少し不安そうな顔をして、被っていた麦わら帽子を取り、頭を下げた。 「もちろん。それが私の仕事だもの」  カリナは帽子を持つ漁師の手を握り、にこっと笑う。 「頼もしいもんだ。カリナさまがいる限り、トチアは安心安心」  漁師も気が晴れたようにガハハと笑った。 「じゃあ、さっそく」  カリナは漁師を後ろにのこし、波打ち際まで歩いていくと目を閉じた。 (風よ、波よ)  カリナは目を閉じたまま、心の中で呼びかける。  さわさわと風がカリナの茶色い髪をゆらし、ちゃぷちゃぷと波が足首を洗った。 (これから荒れるのでしょう? 荒れたいときも、あるよね)  しばらくすると、風はさあっと強くふき、波はざばっと打ち寄せてきた。  「ほう」と後ろで漁師が声をあげるのが遠くに聞こえた。一瞬それた気持ちを、カリナはもう一度集中させる。 (お願い。島の周りを通るときだけは、少し手加減してくれない?)  小さな子みたいな、高くて無邪気な声が答えた。 ”そうだなぁ、考えてやってもいいよ。そのかわり、果物をいくつかもらっていこう”  風の声だ。カリナは目を閉じたままほほえんだ。 (風は果物がほしいんだね、わかった。ねえ、波は?)  今度は低くて優しい老婆のような声がした。波の声だ。 ”わたしは、お前の歌を聴かせてもらいたい。そうすればこの島に打ちつけるのはやめておこう” (わかった。波のために、祈りの歌を歌うね。約束。風も波もありがとう)  これで風と波へのお願いができた。あとは求められたことをきちんとこちらがすれば、きっと嵐からトチアは守られる。  カリナがそっと目を開くと、風も波もさっきのように穏やかに戻った。  カリナは島の海岸先にある洞窟に向かった。ここはトチアで一番神聖な場所、自然の洞窟を使った神殿だった。ひんやりと冷たい空気の中に、波の音がくぐもって聞こえる。奥には白い石でできた人魚の女神像がある。 「女神さま。今日もトチアをお守りくださりありがとうございます」  カリナは女神像の下にひざまずき祈った。 「今日はこれから、波のために祈りの歌を歌います」  そう言って立ち上がると、カリナは古くから伝わる歌を歌った。小さい頃、母が子守唄がわりに歌ってくれた曲。歌いながら女神像を見つめると、母さまが微笑んでくれたことを思い出す。 神殿の女神像は、優しそうできれいなところが、母さまにそっくりだとカリナはひそかに思っていた。 「お前の声は母譲りだな。カリナ」  歌が終わり、一息ついたところで声がかかった。杖をついて腰を曲げた老女が立っている。 「おばあ!」  老女はふんっと鼻息で返事をし口を開いた。 「歌を頼まれたのかい」 「うん。波に」 「ああ、嵐が来そうだものなあ」 「風は果物がほしいって」  おばあは持っていた杖をひょいと持ち上げ、神殿の外を指す。 「ふん、もう祭壇に供えてきたぞ。風のやつはいつも果物をほしがるからな」 「さすがおばあだ。嵐が来ることも、風がほしがるものも分かってたのね」 「当たり前じゃ。わしを誰だと思うておる」  くすっとカリナは笑った。 「大マウさま。私の師匠です」 「お前は次のマウだ。しっかり修行をしろよ」 「あら、大丈夫よ。今日だって海で遊んで……いやいや、修行をね、ちゃーんとしたんだから」 「ふん、タルマからは海で泳いでおったと聞いたが?」 「トチアを守る祈祷師であるマウは、自然と仲良くすることがなにより大切なんでしょ。私は海と仲良くしているだけ! これも修行でしょ?」  はぁ、とおばあは大げさに息をはいた。 「仲良く、とは教えておらんはずだが? 自然の言うことをなんでも、はいはいときいてやるのではない。それではいつか、途方もないものを要求されるぞ。マウが祈り自然と繋がることで、人と自然の持ちつ持たれつが成り立つようにするのだ」  おばあの話はいつも難しい。持ちつ持たれつってなんだろう。自然の中で、私たちは生きているのに。こちらのお願いを聞いてもらうのに、あちらのお願いを聞くことのなにがいけないんだろう。ちょっとむっとしたカリナは髪を触りながらおばあをちらりとにらんだ。 「でもさ、母さまは優秀なマウになるには、自然と仲良く遊べばいいって言ってたよ。偉大なマウで、しかも王だった母さまが言うのだから間違いないでしょ」 「ばかもん。母親のエウリカが生きていたのはお前がまだ小さかったころじゃないか。幼いお前でも分かるようにそういう教え方をしたのだ。今はわしがお前の師匠なんだからしっかりいうことを聞け」 (本当にそうかなぁ)  まだ納得できず、カリナは女神像を見つめた。母さんは、今の私には何と言ってくれただろう。マウに大切なことは何だと教えてくれただろう。女神像は、うんともすんとも言わない。  まだ七歳の時に亡くなってしまった母の気持ちを、カリナはうまく想像できないでいた。 「だいたい、エウリカが早く死んだのも外海からあの男が来たからだ。あの男が災厄を持ち込んだんだ。エウリカ亡きあと、ちゃっかり王の座に居座りよって」  またおばあのぐちがはじまった。カリナはそっと後ずさりをはじめた。おばあのことは大マウとして尊敬しているけど、父さまのぐちを言うところは好きじゃない。父さまは外国の生まれだから、トチアから出たことのない大ばあは、外海の男といつも呼んで、嫌っている。 「なぁ、カリナ。今日でエウリカが亡くなって何年だったかな」  神殿を出ようとしていたカリナに、ぽつりとおばあが声をかけた。 「……七年目だよ。父さまが王になって七年目記念の、お祝いの日でもあるね」 「ふん、祝いなんぞ」  杖をだんっと床に突き刺す勢いのおばあを残し、そっとカリナは神殿の扉を閉めた。
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