トリアンテへ向かう

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「行ってきます!」 船に乗り込むと、ぐんぐん島が遠ざかる。桟橋から頭を下げて見送るタルマ、侍女、そして手を振る父さまとおばあがどんどん小さくなっていった。その悲しさが心の中でもわもわと広がる。このもわもわしたものを振り払いたくなった。 「私、少し泳ぐ」 島に向かい手をふっていたミトに告げると、カリナは手すりによじのぼり海をめがけて飛び込んだ。 ひゅう! とミトの口笛が聞こえた。相変わらずお転婆だと言われているようだった。 しゅわしゅわと泡が身体を包み込む。 (ああ、トチアの海だ) 水に触れていると、もわもわが溶けていくみたいだった。 (ルーサ!) ルーサが自分の家族を連れて、泳いできた。カリナはいつの間にかイルカたちに囲まれていた。 (見送りに来てくれたんだね、ありがとう) ルーサの背につかまって、しばらく船と並走した。船はスピードがあがっていき、じわじわルーサは離されていく。 「おーい、カリナ。そろそろこっちに上がれ。追いつけなくなるぞ!」 ミトが叫び、先端にわっかをつけたロープを投げてくる。それを引っ張りながらカリナは心を決めた。 「ルーサ、ここまでみたい。私頑張って来るからね。また帰って来るからね」 ぎゅっと抱きしめると、ルーサはくちばしでカリナの背を押した。そのまま、ミトと船員に引っ張られ、カリナは船へと戻った。 アロアが乗ってきた船は、中は城のように豪華な家具でしつらえられていた。食堂にはあめ色のテーブルがおかれ、アロアが連れて来た侍女たちが次々と食事を運んできた。 「ずいぶんお転婆な出立だったみたいじゃない」 アロアが笑う。 「最後に泳いでおきたくて」 少し恥ずかしくなったカリナは小さく言った。テーブルにはアロアが中心に座り、その横にカリナ、カリナの横にはミトが座った。アロアの横には一人の男が立っていた。眼鏡をしていていかにも真面目で、厳しそうな雰囲気だった。 なんだか怖そう、とカリナは首をすくめた。 「紹介がまだだったわね。私の執事、メンセという者よ。元々皇子の執事でね、皇子が私につけてくれたの。よく仕えてくれるし、私のお守り役でもあるから一緒に食事をとることを許しているのよ。座ってもらっていいかしら」 「もちろん。……カリナです。よろしくお願いします」 カリナは礼をした。 「メンセと申します。カリナさまに拝謁でき嬉しくぞんじます」 メンセは深々と頭を下げ、丁寧なあいさつをしたが、その丁寧さが逆にカリナのことを田舎者だと軽んじているように思えた。 考えすぎだとカリナは頭をふる。 「メンセ、ミトの前の席に座りなさい」 アロアが命じ、メンセはミトの対面に座った。 「ミトって言います。カリナの守り役です」 メンセはミトの言葉にはうなずくだけで、言葉は返さなかった。ミトが「へっ」とつまらなそうにつぶやくのが聞こえた。なんだか感じが悪い人だ。 (どうしてアロア姉さまはこんな人を?) カリナが少し嫌な気持ちで食事をはじめたとき、アロアが「ふふっ」と意味ありげに笑った。 「あのね、ミトはカリナの許嫁なのよ」 「い、いいなずけ!?」 食べていた肉がのどにつまりかけ、カリナは急いで水を飲んだ。 「慌てるなよ」 ミトが背中をばんばん叩いてくれてカリナは涙目になり、なんとか飲み込んだ。 「アロア姉さまったら、何を言い出すの!!」 「まぁ、カリナったら。照れてるの」 「違う! 許嫁なんてうそを言わないでっ」 「うそじゃないわ。父さまもタルマもそう言っているもの。ねぇ、ミト」 ミトは、「ええ」といたって普通にうなずいた。 「そうなの?」 カリナは優しい父さまのことを思い出す。父さまがそんな勝手なことを決めたの? 私は知らないのに、ミトは知っているの? 自分だけ知らないなんて不公平じゃないのか。カリナはトチアの全員に裏切られているような気分になった。 「私はそんなの知らないからっ!」 テーブルをだんっと叩くと、侍女たちが慌てて止めようとするのも振り払い、食堂を飛び出した。 (ひどいっ。ひどすぎる。勝手に許嫁なんて話をすすめて。ミトには久しぶりに会ったばかりなのに! それに。私はまだ人を好きになったこともない) 怒りで頭がいっぱいになって、いつの間にかカリナの足は船の後ろの方に向かっていた。 もう日が暮れて、空も海も真っ暗だ。トチアの面影もない。 「こんなのひどすぎる」 ただでさえ、ホームシックなのに、父さまにも裏切られたような気持ちになるなんて。本当なのか今すぐ父さまに確認する方法もない。涙があふれてきた。 「泣くほど嫌か」 いつの間にか隣にミトが立っていた。 「ミト……。違うよ。ミトが嫌いとかじゃない。でも私、今はまだ、そういうの分からないの」 「うん。まだ分からなくていいよ」 「ミトは驚かなかったの」 「まぁ、俺は父さんと色んな話を手紙でしてきてたから。これからのトチアのこととか」 ミト、タルマとなにを話していたというのだろう。 暗い海を見つめる横顔は、知らない男の子のようだった。 カリナはふと、おばあが、いつも「男を信用しすぎるな」と言っていたのを思い出した。ミトが、遠くに行ってしまった気がした。 夜中、眠れないまま、カリナはベットを抜け出した。ろうそくを持ち、部屋の壁をコンコンと叩いて周る。一か所、音が違うところがあり、そこを少し力をかけて押すと、ぎいっと鈍い音を立てて扉が開いた。 王族の部屋には必ずこういう隠し扉がある。誰かが命を狙って来ても脱出できるようにとか、秘密で話をしたいときに使うためとか、色々な用途があるらしい。 扉からは暗い廊下が続き、灯りを手に進むと、突き当たりにまた、それらしい壁があった。強く押すとギッという音を立てて開いた。 「カリナ。遅くまで起きてるのね」 アロアは長椅子に気だるそうにうなだれかかって本を読んでいる。廊下はアロアの部屋とつながっていた。 「アロマ姉さまこそ。何を読んでいるの?」 「絵画集よ、ほら」 アロアの横に立ち本をのぞくと、女の人たちが花畑にたたずむ絵が、ロウソクのほのかな灯りの中に浮きあがって見えた。 「姉さまは絵が好きなのね」 「そうね。絵も宝石も、美しいものは好きよ」 「皇子さまも美しいの…?」 「ふ。そうね」 アロアは笑ったが楽しそうではなかった。 「私やっぱり結婚とか王とか、許嫁とか。よく分からない」 「今はまだ分からなくていい」 アロアはミトと同じことを言った。 「でも、私たちはトチアの姫だから、人を信じすぎてはいけないわ。いつも冷静にね。それは覚えておいて」 夜に会うアロアはいつもの自信ありげな姿と違った。なんだか淋しそうにも悲しそうに見える。とてもこれから結婚を約束する皇子の待つ国に向かっているとは思えなかった。 「ねぇ、学校ってどんなところ? 私友達ができるかな」 カリナは不安になって聞いた。 「きっと大丈夫よ。でもね、トチアのことはあまり人に話してはいけない」 「え? どうして……?」 「どうしてもよ。さ、もう寝なさい」 なんだかぼうっとして頭が働かなかった。アロアにうながされて、カリナは隠し廊下をまた通り自分の部屋に戻って、今度こそ大人しく寝ることにした。
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