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【38】誰ですか?
「ああーーーーーーーーーーー」
ただ大きな声を出しているわけではなかった。幻子は自身の口から、霊力の乗った波動を放出しているのである。人間の出す声には霊性が宿ると言われている。一般的に言霊と呼ばれるものだが、本来それは言葉の持つ意味に霊力を込め、現実世界の事象に影響を与える行為を指している。だが幻子は、単なる発声練習のような母音一語に霊力を込めることが出来た。
そうすることで、幻子は呼んだのだ。この村に漂い続ける霊体を、呼び寄せたのだ。
「う……」
山々が動いた、チエにはそう見えた。風もないのに木々がざわめき、駆け抜ける風になびくように、細い枝や腰高に伸びた雑草、それらが一斉に幻子の方を向いたというのである。
「……来ました」
と幻子は言った。
だがチエの見ている視界に、幽霊の姿などなかった。
「あそこ」
と幻子が指さす先に、小さな丸い影がコロコロと転がっている。長篠家と大関家の間。庭先に落ちているそれは黒いごみ袋のようにも見えた。だがその影は、意志を感じさせる動きでゆっくりと幻子の方へと近づいて来た。
「こ……こども?」
チエが目を凝らして見ると、その影はやがて手足を持った人間の姿へと変わった。だがとても小さな姿だった。そうそれはまるで、駆けてくる幼子のようだった。
幻子は地面に膝をついてその影を両腕で抱きしめると、
「もう大丈夫。安心していきなさい」
と言って優しく息を吹きかけた。するとみるみるうちに黒い靄が剥がれ落ち、影の中から小さな男の子が姿を現した。三、四歳くらいだという男の子はじっと幻子を見つめ、そして何も言わずにゆっくりと消えたそうだ。
「今、旅立ちました」
「三神さん、今のは」
「人蔵さん」
幻子は立ち上がり、再び山を見上げた。「この村には、恐ろしいものがいます」
「おそろしいもの」
そう聞いて思い浮かぶのはやはり長篠家の面々と、夏目有三である。猟奇的な殺人者というこれ以上ない恐怖の対象が、この村だけで四人も五人も跋扈しているのだ。
「単なる人殺しの枠に留まらない……そういう意味ですか?」
チエの言葉に、幻子は山を見上げたまま首を傾げた。
「それは私には分かりません」
「え?」
意外な返答に、チエもまた首を捻った。
「直接会って話したわけではないので、物橋さんに危害を加えたという者たちがどういった人物なのかは分かりません。それはおそらく、人蔵さんや直政さんたちの方がお詳しいのだと思います」
「じゃあ?」
では幻子は、何が恐ろしいと言っているのか。「……べ、別の何かがいるんですか、彼ら以外に」
チエの言葉に、幻子は頷いた。その無言の返事にチエは怯え狼狽え、口から洩れそうになる悲鳴を両手で抑え込んだ。
「その恐ろしいものが、あろうことかこの村の幽霊を悉く殺して回ったのです」
「幽霊を……殺す?」
その時チエの脳裏によぎったのは、自分に近づいて来た幽霊の頭をもいだ夏目有三の姿だ。そして、能見陸王の廃屋にて鴫田刑事の頭を跳ねた、白い腕の化け物である。
「人蔵さん」
振り返った幻子の目が、見開いた。
チエはぞっとして凍り付いた。
動けない。
チエは全身を震わせながら金縛りのような力に抗おうとした。
しかし、
「そのままで」
と幻子は言った。チエは眼を閉じ、幻子を信じた。
……六花さん。こちらは確認出来ました。私の申し上げた推測で、やはり間違いないのかと。……すみません、一度切ります。
どうやら幻子は僅かな隙に、秋月六花と電話で連絡を取ったようだった。チエがうっすらと瞼を開くと、三神幻子が冷たい目で肩越しに自分の背後を見据えていた。
「だって、私の後ろにいるのは」
チエは考え、そして襲い来る恐怖に自然と涙が出た。
「人蔵さん。振り返ってはいけません」
と幻子が告げた。チエはぶんぶんと頭を縦に振った。振ったように思うが、あるいは微動だにしなかったのかもしれない。今この瞬間、チエの体は何一つ本人の思い通りには動かせなかった。
「虚ろを打つ、と書きます」
と幻子は言う。「ウツロウチ、あるいはウツロウブチ、そう呼ばれる技法があります」
技法……?
突如として幻子の口から飛び出した聞き慣れぬ言葉に、身動きの取れないチエは余計と恐れを募らせた。事態は、思いもしなかった方角から鋭利な刃物が飛んで来たような、心の寸隙を突く展開を見せ始めた。
「人が死ねば、身体は朽ち、魂は現世から消えてなくなります。ですがその魂をこの世に留めておく方法が、古来よりいくつか構築されて今も残っているのです。虚打ちは、その中の一つです」
魂を現世に留めておく方法?
チエの瞳が激しく震えた。
死者の魂が成仏出来ず、漂い続けるということなのか? この村に彷徨い続けている亡霊たちの声は、そのウツロウチとやらのせいで? 何の為に? 一体誰がそんなことを?
「人蔵さん、私を見て下さい」
いつの間にか焦点のぼやけていた世界の中で、幻子の凛とした美しさだけが、指一本動かせないチエの拠り所となっていた。
「虚打ちは生きている人間の身体を必要とします。人蔵さん私を見て。……聞いた話では、この山のどこかに物橋リクさんは埋められてしまった、ということでした。人蔵さんにお聞きします。物橋さんが埋められていたのは、穴ですね?」
穴。
能見陸王の廃屋が今も尚残るあの場所。
あの庭。
あの穴だ。
西荻平助も気にしていた。
なぜわざわざ穴になんか埋めたのだと。
「そうです!」
チエは叫んだ。しかし、声が出なかった。
涙だけが勢いよく溢れ、流れ落ちた。
「人蔵さん、もうお分かりですね。その穴に落ちた者は、虚ろなるものを体内に打ち込まれる。すなわち死者に入り込まれるということです。この村の誰かが物橋さんを穴に落として埋めた、それはつまり……」
物橋リクの中に死者の魂が入っているということ。自分の背後に立って体の自由を奪っているのも、その、死者。自分の後ろに立っていのは……物橋リクだ。
「どうして」
「人蔵さん」
幻子は尚も言う。「私がこれから発する言葉は全て、あなたの後ろにいる者へ向けてです。くれぐれも返事をしないでくださいね。何が聞こえても、答えてはいけませんよ? と、その前に」
幻子が再び手の平に乗せた自転車の呼び鈴を眼前に捧げ持ち、リーンと清らかなる音を響かせた。
「っは!」
その途端、チエの体を封じていた呪縛が解けた。チエは倒れ込むように地面にしゃがみ込むも、怖くて振り返ることはおろか、立ち上がる事さえ出来なかった。
「さて、ここで質問です」
と幻子は視線上げてチエの背後を見据えた。「……あなたは誰ですか?」
幻子が問うも、返事は聞こえてこなかった。
チエは地面に座り込んだままゆっくりと振り返り、物橋リクが横たわっていた草場を見やった。
「いけません」
と幻子に窘められて、チエはさっと視線を下げた。だが一瞬だけ見えた。先程まで仰向けに寝ていた物橋リクが立ちあがって、幻子と正面から対峙していた。問題は、その顔だった。
「あなたは誰ですか?」
とさらに幻子が問う。
物橋リクの両目は開いていた。しかし黒目がなかった。
黒目があった場所には何もなかった。
意識はあるように見えたが、放心したような赤い唇が力なく開いていたのが印象的だった。
「あなたは……だ・れ・で・す・か」
ああああああああああああああああああああ
「うううっ」
突如物橋リクから発せられた声にチエの霊感は反応し、防衛本能が勝手に体を突き動かした。チエは這ったまま幻子の足元まで行き、彼女に縋りついた。無意識だったそうだ。幻子もチエを拒むことをしなかったし、もしあのまま物橋リクの前に座っていたなら、精神を壊されていただろう、とチエは後に語っている。
タリナイ……タリナイ……タアアアリイイイナアアアイイイイ……
「足りない? 何が足りないのですか?」
モットオオオオ、モットオオオオ、タアアリイイナアアイイイイ……
「もっと欲しいのですか。何が足りないのですか?」
明らかに物橋リクの声ではなかった。チエはその声を聞いた時、山道で自分とすれ違った夏目有三の声を思い出したそうだ。近づいて来た霊体の頭をもぎ取り、「お前は最後だ、せいぜい遠くへ逃げろ」とチエに警告した、あの時の声である。だが、物橋リクの口から発せられるその声は、もっともっと深く遠いとこから聞こえてくる気がした。
例えるならば、この地面の底。底の、底の、底の、底。もしあるならばそこは地獄。地獄の底から聞こえてくるような声だった。
アアアアアアア……タリナイ……
「あなたはなぜここにいるのですか? 私の声が聞こえますか」
幻子は根気強く話しかけたが、物橋リクの中にいるソレはなかなか幻子の呼びかけに答えてはくれなかった。
「ふう。……おそらく、先ほど呼び鈴と私の声でこの辺り一帯の幽霊を呼び寄せた時、意図せぬ力に引き寄せられて無理やり引っ張り出されたのでしょう。本来アレは表に出てくるモノではないのです」
「あの声は、一体なんですか」
足元に蹲ったまま物橋リクに背を向けているチエに、幻子はこう答えた。
「虚ろ。……あれが、この村の住人が物橋さん目掛けて打った虚ろです。その正体は……人蔵さん、あなたはひょっとしてご存じありませんか?」
「わ、私?」
「ここへ来るまでの道中で、この村の様子を見ていました。その時、汚らわしい蠢く十枚の爪があなたの側に見えました。あれは……」
アアアアア……タリナイイイイイ……
「鬼……」
チエがぽつりと呟いた。
物橋リクは、自らの中に鬼がいると言っていた。
「鬼?」
幻子が首を傾げたその時、
「あ・あ・あ・あ・あ」
乾いた笑い声がチエの背後から聞こえた。
幻子が素早く顔を上げると同時に、チエも一緒に振り返った。
物橋リクではなかった。
とてもよく似た綺麗な顔。
だが、そこに立っているのは男性だったそうだ。
「殺し足らんわぁ。もっと人を殺したいんや。もっとォ、もっとォ、人を殺したい。人を殺したいんやぁ。もっとやぁ。人をー……あああ、殺したい」
鬼、と幻子は呟いた。
「能見の山の、鬼……」
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