序章

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序章

  「今どこにいるんだ? どこから電話をかけて来てる?」 「タクシーの中です。……今、静岡だそうです」 「静岡? こんなに時間にかい? 一体どこに向かってるんだよ」 「H県です」 「……タクシーでか!?」 「助けてください」 「助けてって言っても……」 「助けてください、新開君。どうか……彼女を」 「……彼女?」  彼は怯えていた。  かつて彼が巻き込まれた、恐るべき怪事件。その当時を遥かに上回る怯えと焦燥に、小説家として大成した彼の理性は完璧に砕け散っているように思われた。  数年ぶりに聞いたであろう電話越しの彼の声は、話す言葉の意味を容易に理解させてくれぬ程に震えていた。だが、彼が助けを求めていることだけは伝わってきた。  を知っている彼が、それでもこの僕に助けを求める電話をよこしてきたのだ。  時刻は、午前二時を回っていた。  こんな時間にも関わらず、東京に暮らしているはずの彼が近畿地方にあるH県へとタクシーを飛ばしているという。  2015年12月14日。  僕がこの施設に収容されてから三年という月日が経った、凍てつく夜のことだった。  僕はこの三年の間に、これまで関わって来た多くの霊障事件を文書化し、そのすべてを提出して来た。提出先は、警視庁公安部『広域超事象諜報課』。僕が収容されている施設の管理者であり、わが国における心霊現象絡みの事件を調査・統括し、解決へと導く公的機関である。  そして、あまり大きな声では言えないが、この報告書作成による報酬も得ている。衣食住の全ては施設に管理されているため、報酬を得ることで生活に変化があるのかと言われればそんなことはない。報酬が支払われる理由はただ一つ。その『価値』への対価である。  もっとも、僕がこれまで生業である『拝み屋』として関わって来た多くの事件を文書化して御上に提出することで、僕という人間個人の正体を詳らかにして見せる、という自己弁護の側面もあった。だがその一方で、歴史的価値を有する怪異譚を資料として作成しているのだがら、重宝がられるのは当然と言えば当然だった。本来なら僕が所属する『天正堂(てんしょうどう)』という拝み屋集団の中でひっそりと受け継がれるだけの伝聞が、多くの人間が閲覧可能な状態に明文化されていくのだ。お金に換算できることではないが、相当価値のある文書だということは編纂者である僕自身が一番理解していた。  何を隠そう、僕も一時は『広域超事象諜報課』の臨時職員だったから分かる。怪現象について類似性のある文献が存在するとしないとでは、事件解決までにかかる時間や日数に雲泥の差が出る。ピストルや手錠などこれっぽっちも必要ないが、知識は何よりも大事だった。  ただし、それらの知識の中にはもちろん僕自身についての情報も含まれている。僕が何を見、何を聞き、どんな行動を取って来たのか。そして何故僕がこの施設に入ることになったのかも……。  僕が収容されている理由は、殺人。  生まれた時から備わっている霊能力を用い、証拠を残すことなく人を殺めた罪で、三年前からこの施設に服役中である。刑事事件の被疑者として逮捕されたわけではないし、自ら進んで出頭した経緯もあって裁判などはなく、そもそも立件もされていない。なぜなら、どこにも被害者が存在しないからだ。確かに僕は自分の意思で人を殺めた。しかし僕が殺した人物の遺体はいまだに発見されていない。ゆえに、殺人事件として成立しないのだ。詳しくは前述の、僕がまとめた報告書にある『九坊』ならびに『夜から生まれし獣』を参考にされると良い。  そして上記を理由に僕に課せられた罰は、一般社会からの隔離だった。妻子ある身でありながら、僕は世間から全く切り離されたこの施設で誰とも会わずに日々を過ごしている。家族のもとを去ってから、早くも三年が過ぎた。  今回、僕あてにかかって来た一本の電話を機に巻き起こるこの事件は、僕が世間から消えていた三年の間に起きた事象の中で、最も凄惨極まる悪夢となった。  それは、僕が見た悪夢ではない。  大学時代、同じサークルで時を過ごした後輩と、幾人かの友人たちが見た恐るべき悪夢である。  前もって記しておくが、僕はまだ施設の中におり、一歩も外へは出ていない。この事件の語り部は僕、新開水留で間違いないが、視点はあくまでも僕に報告を上げてくれた幾人かの友人たちのものである。そのことをゆめゆめお忘れなきよう、この先を読み進めていただきたい。  
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