【52】明日へつながる道

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【52】明日へつながる道

 物橋リクの身に一体何が起きたにせよ、梯伸郎は最後まで彼女を信じようとしたし、一方的に突き付けられる非情な現実にも目を逸らすことをしなかった。砂埃の堆積した畳の上に横たわる物橋リクの側で、梯伸郎は跪いて背中を震わせていた。  人蔵チエは能見陸王の廃屋の戸口に立って、その様子をじっと見つめた。まだ、ぼんやりと頭の奥が痺れたままだった。それでも不思議と、自分がこの場にいることの意味を知っているような、本能からくる使命感のようなものに突き動かされている気がした、という。  後になって聞いた話では、予知夢を見た三神幻子の機転によって、事態は最悪の結末を免れていたのだ。最初から最後まで廃屋の屋根に立ち続けた幻子には、能見陸王が空から落ちて来ることが分かっていた。その為彼女は屋根に陣取り、廃屋内に横たわる物橋リクの身体に陸王の霊魂が入り込むのを阻んだのである。  外、と能見陸王は呟き、己の霊体が廃屋の中ではなく外にいることを訝しんだ。その段階ですでに、幻子は陸王に勝っていたのだ。  チエはカケの隣に膝を折って座り、ほとんど光の届かない物橋リクの顔を見下ろした。  カケがこの村に到着した時、東京で色んな話を聞いたのだと、彼は眼を輝かせて興奮気味に打ち明けた。その興奮の中にはもちろん恐怖があり、焦りがあり、不安が大部分を占めていた。しかしチエは思ったのだ。それでもどこかに、物橋リクと貴重な時を過ごした梯伸郎なりの喜びが残されているのだろう、と。  小説家・梯伸郎は妻帯者のはずだし、物橋リクを語る彼の目に浮かんでいた熱情には、いかにもな男女の愛だけがあるとも思えなかった。そこにどんな種類の愛があったにせよ、二人が出会ったことは決して不幸な出来事ではないのだと、今日初めて会った男の声と、優しい目つきから感じ取ることが出来た。  だから、チエは泣いた。  梯伸郎と物橋リクに起きたこと。  全員死んだ、この村の住人たちのこと。  夢半ばで殺された、夏目摩耶という女性のこと。  そして、この最後の場に駆け付けてはくれなかった、西荻平助団長のこと。  失ったものの多さとその大切さに、チエは泣いたのだ。 「申し訳ありませんでした」  と、カケは詫びたそうだ。  それが物橋リクへの言葉だったのか、となりで泣いている自分に対するものだったのか、チエには分からなかった。しかし何度も首を横に振った。たとえどちらに向けられた言葉であっても、カケが謝ることではないとチエには分かっていた。  謝罪や後悔が必要だったのではない。カケにも、そしてチエにも明日がある。奇しくも二人は同じ日に大切な人間をなくした。それでも訪れる夜と朝の繰り返す日常を生きるには、希望が必要だった。物橋リクを救えなかった梯伸郎の明日。西荻平助を失った人蔵チエの明日。たとえ嫌でも、明日は向こうからやって来る。望むべくもない明日。決して公平とは言えない明日。それでも明日を生きていくための、希望が必要だったのだ。  そして奇跡は起きた。  物橋リクの傍らに膝をそろえて座していたチエの胸から、突如なんの気配も感じさせずに白い腕が伸びた。カケは腰を抜かすほど驚いて尻餅をついた。当然、それを能見陸王の腕だと思ったそうだ。だがチエは驚かなかった。いや、驚きや怖さよりも、 「ああ、やっぱり」  という、安堵に似た思いが湧き上がったそうだ。自分がこの場所に導かれて長い夜を歩き続けた意味は、今この瞬間の為だったのだ。チエは涙を拭いて、上体を前かがみにして物橋リクに身を寄せた。  チエの身体から出た腕はゆっくりと物橋リクの顔に伸び、そのまま彼女の頬を優しく撫でたという。 「これは、一体」  慄くカケを落ち着かせる意味もこめて、チエは短い言葉でこう答えた。 「文乃(ふみの)さんです」 「……文乃、さん?」  高位の霊媒体質である人蔵チエは、かつて十年以上前に起きた『黒井七永事件』で犠牲になった西荻文乃の魂をその身に受け入れた(参考資料、『同体共生による弊害、懺悔と希望、そして幻想』)。以降文乃さんは、心疾患の重病患者として闘病生活を余儀なくされたチエと供にあり、依り代として受け入れてくれた少女を陰ながら支え続けた。その結果チエは、大霊能力家系・黒井一族の祖である西荻文乃と霊道を通じて繋がりを持つまでに至ったのである。そして文乃さんは僕の知る限りこの世で唯一、自分の永遠の命を他人に分け与えることが出来る。  チエが文乃さんと繋がっていたことに気がついたのは、今まさにこの時であった。が、文乃さんはずっと以前からそのことを知っていた。かねてより旧知の間柄だった西荻平助に、一般市民であるチエの身を預けていられたのも、実を言えばそんな裏事情があってのことだった。 「あああ、なんてことだ……」  カケは泣きながら物橋リクに這いよると、彼女の手を掴んで力強く握り返した。額を畳に擦りつけ、良かった、良かったといって咽び泣いた。 「もし、その奇跡に名前を付けるとしたら」  諸々の事後処理が終わった後、人蔵チエがわざわざ僕のいる施設まで面会に来てくれた。ことの顛末に待ち受けていた奇跡に対し、「運命かな」という言葉を使った僕に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。 「明日へつながる道、なんてどうでしょうか。小説家である懸延先生にぴったりじゃないですか?」  笑顔のチエに向かって僕は思わず、強くなったね、と語り掛けていた。随分と上から目線だし、当人を前にして口に出すのは失礼極まりなかったと思う。しかし、掛け値なしの本音だった。今回の事件においてただ一人、僕はこの場所から一歩も動かず何も出来なかった。そんな僕が言っていい台詞ではなかったのだけれど、チエは怒りもせずニコリと微笑んで、縣延先生がね、と言った。 「やっぱり、ものしりさんと共同で、先生が書いた小説をもとにした映画の製作をやりたいんですって。ものしりさん、ほとんど記憶がなくって、あの夜交わした約束も、夢も、今はまだ何も思い出せないそうです。だけど先生は、こう仰ってました。無理なら無理で構わない、って。だけどあの時、あの夜向かい合った二人は本当にそこにいて、僕たちが思い描いた夢は努力さえ惜しまなければ、実現出来るかもしれない。だったら、あの時の二人のために、諦めたくないんだって」  カケらしいな、と僕は思った。あの男のそういう真面目さと熱っぽさに、僕は昔から憧れを抱いていた。素敵だなあって、思います。そう言ってチエは少しの間俯いて、そしてわずかに思い詰めたような表情を上げると、やがて僕を見据えてこう続けたのだ。 「一休師匠って、直政さんにはとことん厳しいんです。だけどあの人、私には激甘なんですよねえ。あと、こっぴどく叱られてる直政さんを見ていると、なんだかほっとしちゃうんです。直政さんて、へこたれないんで。そんな直政さんに対して遠慮なしにどやしつけてる一休師匠を見ていると、なんでかな、私はそれだけで、明日を受け入れられる気がするんです。……だから新開さん、私も、これからも絶対に諦めずに、前に向かって進んでいきます。それがどんなに……どんなに畜生と蔑まれた真っ暗闇の道であっても 私は……それでも私はッ、お前が見つめる世界には初めから存在していなかっただなんて、そんな悲しい言葉は二度と言ってほしくないから。私は自分の生きる世界から逃げないと、あの山で誓ったんです」   新開さん、とチエは僕を呼んだ。 「私は人として……やっぱり間違ってるんでしょうか」  僕には、この施設に入ると決めた時からずっと変わっていない、自分なりの信念がある。それは、 「自分の人生は、結局は自分だけのものだ」  という考え方である。道の途中で出会った人々の中で、誰と手をつなぎ、誰と別れるのかは、自分で決めるしかない。誰かとともに生き、どこまでその責任を負うのか、それを決めるのも自分である。考えれば考える程、答えは誰かが決めたものの中にはなくて、全ては自分の中から手探りで引っ張り出すしかない。だから、人蔵チエという女性が自分で決めたことを、傍で見ているだけの他人が否定する資格はどこにもないのだ。  とても、正しい間違い方だと思うよ。  そう言った僕の言葉に、人蔵チエはゆっくりと顔を伏せて泣いた。          『煩悩猿と畜生蝿』、了
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