1 声が聞こえる

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1 声が聞こえる

 ンドペキは気が気でなかった。  スジーウォンが召集した会議に、娘のアヤの姿がなかった。  アヤは隊員ではないが、行き掛かり上、会議には参加し、任務も与えられる。  いったい、どこへ。  プリブの連行が、万一、東部方面攻撃隊へのなんらかの攻撃であれば、アヤに危害が及ぶことも想定に入れておかねばならない。  確か、このあたり……。  数日前、スミヨシの内部、つまり母船内の「街」を見て回っていた時、アヤが急に立ち止まり、「声が聞こえる」と言ったのである。 「なにを言ってるのか、わからない……。でも、……」  人の声じゃないみたい……。  アヤは今日になって、聞き耳頭巾を持ち出し、確かめてくると言い出したのだ。  ンドペキは辺りを見回した。  母船は巨大で、どこまで行っても同じような廊下が続いている。  大通りといえる広い回廊があるかと思えば、路地裏のような狭い通路もある。  いたるところに扉があり、そこは誰かの船室であったり、何らかの店であったり、公的な施設であったりする。  扉の横に掲げられた表札を見れば、その部屋が何なのか、一目瞭然だ。  白銀色の壁が延々と続く世界だが、迷うことはない。  街は整然とし、街路名を記す明確なサインが随所に設置されている。 「リバイヤサン広場……。いないか……」  オーシャンアベニューとパシフィックアベニューが交差する、ちょっとした広場に立っていた。  深夜三時。  人の姿はない。  常夜灯がコーラルピンク色の樹脂製タイルの床を照らし、黄色い光が舗装の上に光の輪を広げているだけだった。 「アヤ……」  口から出た呟きが、暗がりに消えていく。  武装してこなかったことを悔やんでいた。  ヘッダーを被っておれば、少なくとも夜目は利くし、熱センサーもかなり遠くまで飛ばせる。 「くそ」  ただ、通信手段はまだ与えられていない。  ヘッダーの通信機能もここでは役に立たない。  サワンドーレのやつ……。  この母船に移乗しから、講義が続いている。  パリサイドの社会を学習するのだ  ひょろりとした初老の男性姿。  この男がンドペキ達の講師だが、深夜の外出は慎むようにと何度も口していた。  このパリサイドの社会。  地球人類をまだ真に受け入れているわけではない、という空気が時として漂う。  太陽フレアの襲撃から地球人類を救出するために、という名目さえも怪しい雰囲気だった。  ただ、別の目的があったのではないか、サワンドーレの口ぶりからは判然としない。  それがンドペキを苛立たせていた。  硬い地面の上で、故郷の星で緑に囲まれて暮らしたい。そう望むパリサイドの一団が地球に帰還した、とユウはいう。  想定以上に太陽フレアの嵐はすさまじく、地表での生存を諦めざるを得なくなった地球人類を、母船にと申し出たのだという。  自分たちの夢は捨てて。  あの宇宙線の嵐の中でも、パリサイドの肉体は何ともない。  光や宇宙線を己の体内でエネルギに変えることのできるパリサイドなら、むしろ好都合といえるのではないか。  彼らなら、地球で住み続けることもできた。熱さえ制御できれば。  しかし、彼らはそうはしなかった。今のところは。  サワンドーレめ。  アヤの行方と無関係な講師に向かって、ンドペキは再び毒づいた。  いったい、何を考えていやがる。  実は、ンドペキはその男に好感を持っていた。  礼儀正しく博識。穏やかな口調でユーモアを交えながら話すこのパリサイドから、すべてを吸収しなくては、という思いでいた。  少なくとも、つい数時間前までは。  しかし、ンドペキのサワンドーレに対する印象は、一変していた。  あの一言を聞いてから。  講義が終わった時、「ある一組の男女を探しているようです」  と、ンドペキだけに聞こえるように囁いたのだ。 「誰が?」  サワンドーレは、痩せた長身を折り曲げるようにして鞄を手にしつつ、「神が」と言ったのである。  ンドペキは、その先を聞く気を失った。  そんな因習をまだ持っている人間がいる。これも驚きだったが、パリサイド社会の底に横たわっているドロドロしたもの、を感じたのである。  やはり、神の国巡礼教団の生き残り。  あのおぞましい思想は死んではいないのか。    関わり合いになりたくない。  立ち去っていくサワンドーレの細い背を見送りながら、小さな怒りが心に灯るのを感じていた。  しかし、プリブが何者かに連行された今、その「一組の男女」が気にかかっていた。  まさかプリブ?  女性の方はアヤ?  そんなことはあるまい、とは思うものの、一度沸いた不安を消すことができないでいた。  アヤ、無事でいてくれ。  得体のしれない声を聴いたアヤ。  聞き耳頭巾の使い手であるアヤ。  六百年前、深夜の大阪の街をうろついては木々の声を聴いていたアヤ。  そして、ニューキーツの治安省に勤めていたアヤ。  そこで膨大な数の言葉を盗み聞きしていたアヤ。  アヤの持っているものに、アヤの脳に詰め込まれたものに、誰かが気付いたのだとしたら。  ンドペキは大きくため息をついた。  こんなことになるなら、ひとりで行かせるのではなかった。  彼女が部屋を出てから、かれこれ九時間。  心配かけるなよ……。  アヤを自分の娘と思う気持ちに揺らぎはない。  すでにイコマとの同期は切れているが、自分の脳に流れ込んできたイコマの意識が薄れることはないし、他人の意識だという感覚もなくなった。  ユウを思う気持ちも、スゥを愛する気持ちも、すべて本当に自分の心の中にある。  三人で一緒に住むようになって、その思いはますます強くなっていた。  戻るか……。  このまま深夜の街を徘徊しても、無駄かもしれない。  既に、スゥが待つ部屋に帰っているのでは……。  それでもンドペキは、息を潜めた街を彷徨わずにいられなかった。  と、 「ム!」  暗い路地を横切る影があった。
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