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その年の降誕祭の夜を、ハインリヒは一人で過ごした。
彼は高い塔の最上階に位置する、狭い一室にいた。部屋には寝台と書き物をするための小さな机と椅子、それに簡易便器があった。大量の書物を収めた本棚が壁を覆っている。
今頃、ここから四百キロ離れた王城では、華やかな降誕祭の祝宴が開かれているだろう。寝台の上でハインリヒは溜息をついた。父王フリードリヒは華美を嫌うが、政治的交渉と工作の格好の機会である祝宴を疎かにはしまい。
なにしろ、第一王子を廃嫡したのだ。王子ハインリヒをただのハインリヒにし、塔に閉じ込めてしまった。すぐにでも次の後継者を指名する必要がある。そのためには、形ばかりでも有力者たちの意見を聞いておかねばならない。
去年の降誕祭は、ハインリヒが主役だった。父王は南の戦線に出征中だったからだ。彼は、あの時貴族たちが一様に浮かべていたへつらいの笑みを、今でもよく覚えている。
ふぅ、とハインリヒは再度深く溜息をついた。すると次の瞬間、右脚の脛に痛みが走った。思わず手を伸ばすと、脛があるはずの部分には何も存在しなかった。
幽霊痛というやつだ。彼はうんざりとした気分になったが、やがて気を取り直した。
どうせ、春には処刑される身だ。
するとその時、たった一つの出入口である鋼鉄のドアが、外から何者かによって四回叩かれた。鈍い金属音が室内に重く鳴り響く。
訝しむハインリヒを余所に、ドアが再び音を立てた。同じように、連続する四回の重々しい音。寝台から降りることもなく、ハインリヒは声を上げてそれに答えた。
「入るが良い。わざわざ許可を求めるには及ばない。私は単なる囚人なのだから。そのドアを開けることも閉めることも私にはできない」
彼の声を受けて、ドアの向こうの存在は叩くのを止めた。一分ほど静寂があたりを包み、やがて、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、黒いフードとローブに身を包んだ人物だった。両手で小さな白い箱を持っている。ローブの男は無言でハインリヒが腰かける寝台に近づくと、軽く頭を下げ、それから何冊か本が置かれている机の上にその白い箱を置いた。
男は何も言わず、そのまま部屋から去って行った。
ハインリヒは寝台を降りると杖を手に取り、失われた右脚の代わりにしつつ、机へと向かった。
彼は椅子に座ると、しばらくの間、身じろぎもせずに男が置いていった箱を見つめた。箱の蓋には王家の蝶の紋章が刻印されている。おそらく、送り主は父王だろう。
いったい、この中身は何だろうか。すぐに彼の頭に浮かんだのは、毒薬だった。きっと、父王が私を殺すために寄越したものだろう。
ハインリヒは一つ深呼吸をした後、箱を開けた。だが、中に入っていたのは、彼の予想とは異なるものだった。
箱には一枚の紙が入っていた。紙にはただ一言だけ記されていた。
「私からあなたへ」
その雄渾な筆跡に、ハインリヒは見覚えがあった。これは、父王の字だ。それにしても、これはどういう意味なのだろうか。父王が「余」ではなく「私」と書くのも、息子のことを「あなた」と呼ぶのも、これまでに一度もなかったことだ……
しばらく彼はその謎の記述について考えていた。やがて、彼はもう一つ、あることに気が付いた。
紙の右上に、小さな真珠のようなものが貼り付いていた。紙をひっくり返しても、それは落ちなかった。純白で真球に近いその何かは、ほのかな温かみを持っていた。
これが毒薬なのだろうか。それとも、何か別種の魔道具だろうか? ハインリヒには判断が付きかねた。
一時間ほど迷った末、ハインリヒはそれを飲まないことにした。何も降誕祭の日に死ぬことはあるまい。それに、父王の思い通りに死ぬのも、気が進まないことだ。彼は寝台に戻ると毛布を被り、ほどなくして寝息を立て始めた。
その夜、ハインリヒは夢を見た。幼い頃、王城の花畑で女の子とかくれんぼをして遊んだ時の記憶が、夢の世界で蘇った。ハインリヒが彫像の陰で息を潜ませていた彼女を見つけると、女の子は楽しそうに笑って、彼に抱きついてきた。
「ハインリヒ様、これからもアネシュカがどこかに消えてしまったら、今のように見つけ出してくださいね……」
ああ、アネシュカ、きっとそうするよ。そう答えようとしたところで、ハインリヒの目が覚めた。
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