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鉄格子が嵌った小さな窓から、黎明の薄光が差し込む朝。ハインリヒは何かに打たれたかのように目覚め、それからしばらくまどろみを楽しんでいた。
「お目覚めかね」
突然聞こえてきた声に、ハインリヒは耳を疑った。素早く身を起こすと、辺りを見渡す。しかし、室内に何も変化はない。
幻聴だったのだろうか。そう思うのと同時にまた声がした。知的で、冷静さを湛えた声。
「お目覚めかね、ハインリヒ。寝起きに悪いが、こちらに来てくれないか。そう、机の方に」
ハインリヒは机に目をやった。相変わらず、その声の主の姿は見当たらない。彼は自身の心臓が高鳴るのを感じつつ、苦労して移動すると、机の前に座った。
そこでようやく、彼は声の主を見つけた。それは、箱の中にいた。
「はじめまして、ハインリヒ……ふむ、驚いたような顔をしているな。まあそれも当然か」
それは、大きな芋虫だった。長さは六センチほど。手の親指のような太さをしていて、体色は鮮やかな紫色をしている。
だが、何よりもハインリヒにとって意外だったのは、その芋虫に人間の顔がついていたことだった。頭頂部にはまばらに金髪が生えており、太い眉も同じく金色だった。鼻はない。口はあったが、唇はついていなかった。目は人間そっくりで、赤い瞳が輝いている。
絶句しているハインリヒに、芋虫は言った。
「せっかくお目にかかったのだ。こちらも名乗りたいところではあるのだが、生憎私には名がなくてね。芋虫、とでも呼べば良い。よろしく、ハインリヒ」
芋虫は軽く頭を下げた。礼のつもりだろうか。そんな埒もないことを考えつつ、ハインリヒの口は自然と開いていた。
「お前は、どこから来た。いったいいつ、この部屋に入ってきたのだ」
問いに対して、芋虫は眉をしかめた。
「聡明なあなたらしからぬ、愚かな問いだな。私はここで生まれたのだ。夜が明ける前、一般的な芋虫と同じく、卵から生まれたのだよ」
ふと、ハインリヒの中で思い当たることがあった。あの紙に貼り付いていた玉、あれが卵だったのだろうか。それにしては、その紙がどこにも見当たらない。
彼の考えを読んだように、芋虫はゆったりとした口調で言葉を発した。
「そう、一枚の紙に私の卵は産み付けられていた。私は卵の殻を破ってこの世に姿を現した後、最初に卵の殻を食べ、次に紙を食べた。それでもなお食欲があったから、そこにある本を食べた。大事な本だったら申し訳ない」
ハインリヒは呆然と芋虫の言葉を聞いていた。確かに本が一冊、革の装丁を残して中身のページがすべて失われている。
芋虫は淡々と言葉を続けた。
「本を一冊食べたことで私の空腹は収まった。すると、今度は自分の体が窮屈に感じ始めた。私は脱皮をすることにした。無事にその難事業を終えると体が大きくなり、自分に知性と言語が与えられたことに気が付いた。ちょうどその時、あなたが目覚める気配がしたから、声をかけたというわけだよ……」
ようやく、ハインリヒは声を出すことができた。
「お前は、いったい何者だ」
もぞもぞと芋虫は体を動かした。どうやら困惑しているようだった。しばらくの間、沈黙が部屋を満たした。すると、ドアの方から音がした。ドアの下の隙間に、トレーに載せられた食事が置いてあった。
芋虫は箱の中から外へ身をもたげると、ドアの方を見やった。
「ふむ、ちょうど食事の時間のようだな。どうだね、一緒に食事をしながら、私のことについて話そうではないか」
「一緒に食事?」
「そうだ。あなたはあのトレーに載っている粗末な黒パンと、薄いスープを食べる。一方、私は紙を食べる。いや、紙というより、文章だな。文章が書かれている紙が食べたい。本を一冊見繕ってくれないかね……」
ハインリヒは本棚から適当な本を一冊取り出すと、芋虫の前に広げてやった。芋虫は短い足を動かして這いずると、ページの上に登った。ハインリヒは今度はドアの方へよろよろと歩いて行き、食事のトレーを運んだ。
二人は向かい合って食事を始めた。
王子は黒パンを千切りながら、芋虫に再度問いを投げかけた。
「それで、芋虫よ。お前はいったい何者なのだ。なんの目的があってこの牢獄へやって来た」
芋虫はささやかな咀嚼音を立てながらページを食べていたが、それを止めると、王子に顔を向けた。
「私は、贈り物だよ。あなたの父からあなたに向けて贈られた、愛玩動物。いや、虫は愛玩動物とは言わないかな……とにかく、私は降誕祭の贈り物だ。紛れもなくあなたの所有物であると言って良い」
ハインリヒは、芋虫の言葉に反駁した。
「そのようなことはあり得ない。王が私に贈り物をするなど、あるはずがない」
「どうして? 父親というものは息子を愛するものではないのかね」
芋虫の反論に、ハインリヒは苛立たし気にパンを噛み締め、スープを一口含んで飲み込んだ後、また口を開いた。
「小さな虫よ。私は反逆者なのだ。いずれ王は私に死を賜るだろう。王が私を愛しているはずがないのだ」
王子の言葉を聞きながら、芋虫はしばらくページを食べ進めていた。やがて、大きな紙片を食べ終えると、芋虫は穏やかな口調で言った。
「しかし、私が王によってここに送り込まれ、あなたと話しているのは、それはあなたの父が、あなたの孤独を癒そうとしたためと考えられるのではないかね? それは愛情のなせるところではないかね」
賢しげなことを言う芋虫に、ハインリヒは突如として怒りを覚えた。彼は木のスプーンを振り上げた。
そんな彼の様子を見ても、芋虫はまったく顔色を変えなかった。
「先ほどの私の言葉があなたを怒らせたのなら、私は素直に謝ることにしよう。殺したいのなら、殺しても構わない。だが、本当に私を殺して良いのかね? 父の愛については虫である身ゆえよく分からないが、とにかく私があなたの慰めとなるのは間違いないが……」
言葉を聞いているうちに、ハインリヒの感情は平静を取り戻していた。彼はスプーンを下ろした。
「……確かに、私は会話に飢えている。たとえ小さな芋虫一匹であっても、今の私にとっては貴重な存在だ」
「よろしい。賢明な判断だ。では、まず食事を終えてしまおうではないか。会話をするにも栄養が必要だ」
ハインリヒと芋虫は無言で食事を進めた。芋虫は結局、本を一冊食べ切ってしまった。
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