2人が本棚に入れています
本棚に追加
一週間が経った。その間、彼らはよく話をした。ハインリヒは芋虫が深い知性を持ち、かつ落ち着いた性格をしていることを知り、次第に自分の身の上について話すようになった。
「私がこのような境遇に身を落とすことになったのは、すべて父王の暴政が原因だ。王は国内政治を顧みず、外征に次ぐ外征を繰り返した。だが目下の敵である独立諸都市の勢力は強く、王の軍勢を以てしても完全に制圧できない。民は重税に苦しみ、貴族たちは度重なる軍役に耐えられなくなった。そこで私が立つことにした……」
日が経って少しばかり長く太く成長した芋虫は、そこで口を挟んだ。
「本当にあなたは『立った』のかね?」
「どういう意味だ、その言葉は?」
王子の反問に対し、芋虫は大儀そうに体を動かし、本の上から箱の中へ移動してから答えた。
「話を聞くと、あなたはどうやら利用されたようだな。『立った』のではなく、『立たされた』のだ。貴族たちは王の居ぬ間に国内政治の実権を握ろうとし、その旗印としてあなたを担ぎ上げた……そして失敗し、右足を失った」
ハインリヒは眉をひそめた。だが、芋虫の言葉に反論はしなかった。
「……その通りだ。王の軍事的才能は、私の予想を遥かに上回っていた。私が叛旗を翻したのを知るや、父は既に雪深くなっている大山脈を越えて、こちらが兵力を結集する前にたった一回の会戦で私の軍勢を粉砕した……」
一旦言葉を切ると、ハインリヒはやや顔を曇らせて、再度口を開いた。
「無論、私は貴族たちの思惑に気付いていた。彼らが私を利用しようとしていることを、私は察知していた。だが、私は敢えて立つことにした。それは私が民の窮状を救わんと願ったからで……」
突然、芋虫が遮るように口を挟んだ。
「本当に、民を救いたいというただそのためだけに立ったのかね?」
無粋とも言える芋虫の問いに王子は鼻白んだ。
「どういう意味だ、それは」
芋虫は、その赤い瞳でじっとハインリヒを見つめた。
「この一週間、あなたと話をしていて気付いたことがある。あなたはどうやら、父を憎んでいるようだ。あなたがこれまで語ってきたことは一種の建前で、本当は何か別の意図が隠されているように思われるのだが……」
核心を突かれて、ハインリヒは言うべき言葉を失った。少しの間、魔石ランプの燈心が焦げる音だけが聞こえた。しばらくして、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……その通りだ。私は、王を憎んでいる。それはごく個人的な、つまらない理由によるものだ」
芋虫は表情を変えず、言った。
「アネシュカのことかね」
思わぬ人名が出て来たことに、ハインリヒは驚愕の面持ちを隠せなかった。
「そう驚かなくても良い。あなたは毎晩魘されている。そして、決まって『アネシュカ』という名を叫ぶのだ。そのアネシュカとあなたとの間に、何があったのかね」
この芋虫にはなんでもお見通しらしい。ハインリヒは全てを包み隠さず話すことにした。
「……アネシュカと私はもともと、結ばれる運命だった。アネシュカはベーメン大公の娘で、私とは幼馴染だった。互いに好意を抱いていて、王も当初は結婚に賛成だった。だが、一年前、王はそれを突然破談にした。代わりに私の結婚相手として、バーベンベルク大公の娘を選んだ。防衛政策上の必要、というのが王の挙げた理由だった。私も、そのことについて分かってはいたのだが……」
芋虫は相変わらずの無表情のまま、ハインリヒの言葉を静かに聞いている。
「アネシュカは絶望し、病を得て、死んでしまった。私はその時初めて、王に対して明確な憎悪を抱いた。国と民のことを思うのならば、私はアネシュカへの愛と彼女との思い出を捨てて、新しい婚約者と結ばれるべきだったのだろう。だが、私はもう王の傀儡として生きるのが耐えられなかった……」
ハインリヒの目に、涙が浮かんだ。涙はしばらく瞳を潤して、やがて静かに流れ落ちた。
部屋に沈黙が満ちた。ややあって、芋虫が口を開いた。
「あなたは、なぜ王家の紋章が蝶なのか知っているかね?」
唐突な問い掛けに、王子は怪訝な顔をした。それでも、彼は答えることにした。
「初代国王が西方の異教徒の大軍と決戦した際、一匹の蝶が剣の先に止まり、敵陣のほころびを示したことで、大勝利を得た。それが由来だと聞いている」
王子の言葉に、芋虫は頭を軽く左右に振った。
「それだけではないのだ。実は、蝶の紋章には他に意味がある。それは、『魂を運ぶ者』というものだ。芋虫はいつかサナギとなり、新たに蝶として生まれ変わる。そして蝶は、この世に漂う魂を導き、新たなる生へと誘うのだよ」
「何が言いたい」
睨むような目つきの王子に、芋虫ははっきりと視線を合わせた。
「悲しみを抱いたまま死んだアネシュカの魂は、今もなおこの世に留まっているかもしれない。だがいつか蝶に導かれて、生まれ変わって新たな生を送ることになるのではないかな。そう考えれば、あなたも少しは楽になるのではないかね……」
ハインリヒは、それにすぐに言葉を返すことができなかった。
最初のコメントを投稿しよう!