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春が近づいてきた。
その夜、黒いローブの男が入ってきて、一枚の紙を置いていった。それには処刑の日取りがはっきりと記されていた。
ハインリヒはその紙を芋虫にやった。すでに卵から孵って数か月、芋虫は脱皮を繰り返し、見違えるほどに大きくなっていた。
「最近、奇妙なまでに食欲が増していてね。もうすぐサナギになるようだ。私が蝶になるか、それとも蛾になるかは分からないが、とにかくとても美しい存在として生まれ変わるのは間違いない」
芋虫の言葉に、ハインリヒは薄く微笑んだ。
「そして私は、羽の生えた君を見ることはない。君が今食べてしまった紙に書いてあったように、私は二週間後には処刑される。そろそろ君ともお別れというわけだな」
自分の死がいつ訪れるのかを知っても、ハインリヒの心は至極穏やかだった。芋虫、君のおかげだ、と彼は思った。あれから芋虫とは随分多くの会話を積み重ねた。幼い日の出来事、アネシュカとの思い出、家庭教師から受けた教育、父との会話、初陣、敵を殺したこと、母の死……ハインリヒはそれまでの人生に整理をつけることができた。
芋虫がいなければ、このような心持ちには決してなれなかっただろう。だが……
考え込むハインリヒに、芋虫は言葉を投げかけた。
「どうやらあなたには何か、心残りがあるようだな。この際だから言ってみたらどうだね」
彼は、芋虫に目を向けた。芋虫は丸々と太っていて、悠然と箱の中で寛いでいる。
「……アネシュカを失った悲しみを忘れることはできない。私はそれを抱いたまま死んでいくだろう。王への憎しみは消えてしまった。今となっては、王の政治も少しは理解できた。だが、君が言うように一つだけ、私には心残りがある。それは、果たして王は私を愛していたのか、ということだ……」
私は、王が愛するに足るほどの人間だったのだろうか。ハインリヒの顔は曇った。
すると突然、芋虫は薄く笑みを浮かべた。
「それには簡単に答えが出せる。あなたの父は、間違いなくあなたを愛していたよ。というのは、あなたが死を迎えた後、あなたの魂が再びアネシュカの魂と出会えるために、私はここに送り込まれたのだから」
自信たっぷりな芋虫の言葉にハインリヒは声をあげて笑った。芋虫は不満げな顔をした。
「なぜ笑うのかね? これは事実なのだよ。私にはその能力がある。あなたが死んだ後、必ずあなたの魂をアネシュカの元へと連れていく。あなたは私の背に乗って、のんびりと遊覧飛行を楽しめば良い」
ひとしきり笑った後、ハインリヒは表情を元に戻した。そして、神妙な面持ちを浮かべて芋虫に言った。
「ありがとう。君が……いや、あなたがそういうのなら、私は安心して死んでいける。死後のことは任せたよ」
その時、ふっと芋虫は口から何か白いものを吐き出した。
「ふむ、今夜のうちにも私はサナギになるようだ……そうだ、一つだけ大事なことがあった。あなたの魂を運ぶためには、ある合言葉が必要なのだよ……」
「その合言葉とは、なんだ」
ハインリヒの問いに、芋虫は体に糸を吹き付けつつ答えた。
「既に知っているはずだ。あなたの父が直接あなたにそれを教えている。ほら、あの紙だ……」
翌朝、これまでにないほど充実した眠りからハインリヒは目覚めた。机に目をやると、芋虫は箱の中で大きなサナギになっていた。
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