1人が本棚に入れています
本棚に追加
「……起きて……護郎ちゃん……起きるのよ……」
闇の中に沈んでいた護郎の意識は、聞き覚えのある声を聞いて急速に覚醒へと導かれた。彼が目を開けると、強烈な太陽光が視神経を焼いた。
俺は、いったい、どうなったんだっけ。彼はそれまでのことを思い出そうとした。そうだ、俺は、仲間と一緒に森を移動している時に、敵のパトロール部隊と遭遇して……俺が残って敵を食い止めようとしたんだ! それで、目の前で手榴弾が爆発して、意識を失った……
どろりと、彼の額に何やら生温かいものが流れた。手で触れると、それはべったりとした真っ赤な血液だった。
「護郎ちゃん、しっかりして。早くここから離れましょう」
再度、声がした。彼をホッとさせる、聞き覚えのある穏やかな女性の声。ハッと打たれたように横を見ると、そこにはイヨが立っていた。
「護郎ちゃん、そろそろ敵がやってくるわ。ここから移動しましょう」
不思議なことに、イヨは、あの夜神社で会った時とまったく変わらない姿をしていた。白い小袖と緋袴には汚れ一つなく、彼女自身も傷一つ負っていない。濡烏の黒髪も美しい艶やかさのままだった。
思わず、彼は声を上げた。その声は奇妙に掠れていた。
「イヨ姉さん、生きていたんですか……良かった。怪我はありませんか……?」
イヨは微笑んだ。そっと護郎の傍に歩み寄ると、袂から白い手ぬぐいを取り出して、彼の頭部に仮包帯を施し始めた。
「ありがとう護郎ちゃん。私なら大丈夫よ。それより、ここから早く移動しましょう。もう十五分もしたら、敵が十人やってくるわ。仲間を殺されて、すごく殺気立っている敵が」
なぜそれが分かるのか、とは護郎は問わなかった。イヨが言うのならば、それはその通りなのだろうと、彼はその時素直に感じた。
「それならすぐに行きましょう。でも、どこへ……」
考える彼に、イヨは即座に答えた。
「まずは護郎ちゃんの傷を癒さなければならないわ。ここから二時間ほど北東に歩いたところに物資貯蔵庫があるの。地面の下に隠されているから、まだ敵にも見つかっていないはずよ。そこに行って、まずは空腹を癒しましょう。さあ、付いてきて……」
二人は密林の中を歩き始めた。護郎は足を引き摺りつつ、苦労して歩みを進めているのに対し、イヨは滑るように先へ先へと歩いていく。彼女が履いている真っ白な足袋と草履が、護郎の目についた。それらは泥にも、草の汁にも汚れていない。
森の中は、死臭に満ちていた。砲弾の破片に切り裂かれ、内臓を露出させた死体。頭骨が砕かれ、零れ出た脳に真っ黒に蠅が集っている死体。見た目には眠っているようだが、顔を近づけるとびっしりと蛆が死肉を食い荒らしている死体。骨、肉片、血で汚れた樹木、兵器と装備の残骸の数々。
死臭を嗅いだせいか、護郎は軽い頭痛を覚えた。
物資貯蔵庫はイヨの予言の通りそこにあった。二人は黙々と食事をした。
貪るように食べる護郎に比べ、イヨの食べ方は至極ゆったりとしたものだった。小さな乾パンを一つだけ、時間をかけて食べた後、イヨは遠い目をしながら語った。
「こうして一緒にご飯を食べていると、昔のことを思い出すね。村のお正月、みんな神社に初詣に来てくれて、私は御神酒とお餅を振舞って、護郎ちゃんは私が出す端からお餅を食べちゃって……喉に詰まらせかけたから、必死に私が背中を叩いてあげたら、護郎ちゃんは怒ったよね。力が強すぎるって……」
護郎は、ここに来るまでに、気になっていたことを尋ねることにした。
「イヨ姉さん、どうして俺を見つけ出すことができたんだ。いやそれよりも、どうやって今まで生き抜いてくることができたんだ。敵はもう、そこらじゅうにいるのに……まさかイヨ姉さん、あなたは……」
その時、護郎の脳裏にある考えが去来していた。まさか、イヨ姉さんはもう既に死んでいて、これは彼女の幽霊なのでは? それならば服が汚れていないことにも、滑るような歩き方にも納得が行く……
だがイヨは、そのような護郎の考えを見抜いていたようだった。彼女は食事の手を休めると、護郎の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「ふふ、護郎ちゃん。これが幽霊の手かしら? 私の手って冷たいけど、幽霊ほどひんやりとはしていないはずよ。それに、幽霊が食事をするかしら? ほら、私は今こうやって、護郎ちゃんの前で乾パンを食べているわ。だから、安心してね……」
イヨの言葉は、充分な説明になっていない。それでも護郎は、強いて納得することにした。なんにせよ、今この場にイヨ姉さんがいてくれるのなら、これほど心強いことはない。
「これからどうしようか」
腹が満ちた後にやって来たのは、不安だった。このまま山中を当てどもなく彷徨い続けていたら、いずれ敵に見つかってしまうだろう。一人ですら逃避行を続けるのが難しいのに、ましてやただの女性であるイヨを連れたままでは……血で汚れた彼の顔が曇った。
すると、イヨは彼を慰めるように、穏やかな口調で言った。
「護郎ちゃん、不安に思うことはないわ。あなたはきっと生きて帰れる。それは確かよ。ここでもう少し休んだら、また移動しましょう。今度はここから南に一キロ離れたところに、小さな洞窟があるの。二日前に敵が掃討したばかりだから、しばらくは敵が来ないはずよ。そこで護郎ちゃんの体力が回復するまで、じっとしていましょう……」
その言葉を聞いて護郎は勇気づけられる気がした。そうだ、この人はただの女性ではない。予言能力を持つ、特別な女性だ。この人と一緒なら、きっと最後まで敵に見つかることなく逃げ続けることができるはずだ。
三時間ほど、二人はそこで休んだ。頭痛は止まなかったが、いつしか護郎は、イヨに寄り添うようにして眠っていた。イヨは、血の滲んだ包帯が巻かれた頭を癒すように、いつまでも飽きることなく撫でていた。
最初のコメントを投稿しよう!