南冥のカッサンドラー

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 その夜、二人は出発した。密林を抜け出したのは、次の日の夜中だった。  夜明けまであと一時間ほどを残した時分、二人はついに焼け野原と化したガラパンの街に入った。廃墟と化し生活基盤とインフラを喪失したこの街に用はないのか、敵の姿は見えなかった。 「私の神社、あの素須辺香取神社へ行って。その階段の下に、探し求めているものがあるわ」  イヨの言葉の通りに、護郎は歩いていった。今や頭痛は頻繁に訪れるようになっていて、立っているのでさえやっとという有様だった。目は霞み、隣にいるはずのイヨの姿すらはっきりと見ることができない。彼は、覚束ない足取りで、微かに残る記憶を頼りに、燃え尽きた街を進んでいった。  街には、死体が溢れていた。どれも例外なく、真っ黒に炭化しているか、白骨化していた。護郎は幾度となく骨を踏んだ。踏まれた骨は枯れ枝が折れるような音を立てた。死者が泣いているようだった。  朦朧とする護郎の意識の中に、イヨの声が飛び込んできた。 「ここよ、護郎ちゃん」  ついに、二人はその場所に辿り着いた。そこには、二人分の死体があった。いずれも白骨化しており、一人は大きく、もう一人は小さかった。小さな死体は大きな死体におぶさるように重なっていた。  護郎の頭痛が、一層酷くなった。頭が割れそうなほどに、いや既に割れているのではないかと思われるほどに、その痛みは激烈だった。それでもなお彼は、意識を失わなかった。  イヨ姉さんの言うとおりにしなければならない。姉さんの予言を信じることができるのは、俺だけなのだから。 「そう、この死体。この大きな方の死体が、右手に握っているものを手に取って」  隣にいるはずのイヨの声が、なぜか彼の頭の中で響いた。激痛に苛まれながらも、彼は身を屈めて、死体の右手を調べた。  確かに、死体は何かを握っている。決して離すまいとするかのように、死してもなお、死体はそれを力強く握り締めていた。  一本一本、彼は骨と化している指を解きほぐした。そして、手の中から出て来たものを、その目で見た。  それは、絹でできた袋だった。金糸で細かな刺繍が施された、紫に染められた絹の袋。 「これは……これは……」  途端に、護郎は全てを悟った。彼の目から止めどもなく涙が溢れ出てきた。ふと、死体の頭部に彼の視線が移った。落ち窪んだ眼窩と目が合う。  されこうべの口が動いたように、彼は感じた。同時に、頭の中に声が響いてくる。 「ありがとう、護郎ちゃん。そう、この死体は私。あの朝、敵機が来た時、私は護郎ちゃんに言われた通り、山の防空壕へ逃げようとしたの。急いで神社を出て、階段を降りたら、下に親子がいたわ。お父さんと、小さな男の子。目の前で、男の子は転んで、足を挫いてしまった。お父さんは男の子を助けようとしたわ。その時、敵機が空から降りてきて……お父さんは子どもを見捨てて、逃げ出した。でも、ちょっと走ったところで敵機に撃たれてしまった」  いつしか、骸骨は肉を纏っていた。そこには、素裸になったイヨの姿があった。豊かな胸の膨らみの間に小さな死体を抱きかかえつつ、彼女は話し続ける。 「私は、男の子を助けようとしたわ。でもその時、ある予知が頭をよぎったの。この子を助けたら私は死ぬって。一瞬、迷ったわ。そしたら、男の子が私を見たの。とても怖がっていたわ。私には、男の子が護郎ちゃんに見えた。だから、その時だけ、私は私の予言を信じないことにしたの。男の子をおんぶして、私は走り出した。次の瞬間、背中に何か熱いものが差し込まれたような感触があって……頭の上を飛行機の影が通り過ぎて行った時には、私は地面に倒れていた」  イヨの体が、だんだん薄れていく。護郎は、瞬きもせずにそれを見つめ続けていた。 「ここまで来れば、もう大丈夫。敵は、あなたを殺したりはしないわ。護郎ちゃんがただ森を出て投降しようとしたら敵に面白半分に殺される未来しか、これまで私には見えなかった。この予知をするのに、あなたの頭脳と精神の力を借りたの。頭痛がしていたのはそのせいよ……」  護郎は、急速に自分の意識が薄れていくのを感じた。何も見えず、何も感じず、ただイヨの声のみ聞こえてくる。 「最後にお願いがあるの。その袋を、故郷に持って帰って。お父さんはきっと、ススペ島にはもう満足しているだろうから……護郎ちゃんと一緒に帰れるなら、お父さんもきっと安心すると思うわ。私のことは気にしないで。もう私は、悩みも苦しみもない、平穏な世界にいるから……」  護郎の意識は、そこで途絶えた。その時、ちょうど夜が明けた。遠い海上に姿を現した太陽は、優しく護郎を照らし出していた。
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