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第二話 ミス
加奈子たちが勤めるのは、中規模の広告代理店だ。
近代的で小ぎれいな高層ビルが立ち並ぶ中、まるで一本だけ歯並びの悪い歯のように建っている四階建てのビルがオフィスである。建築年数は古く、エレベーターはかたかたと不吉な音がするため、利用する社員は少ない。
その中で、加奈子は管理部総務課、翔太と美雪は営業部に所属していた。
加奈子の業務は、社内行事を取り仕切ったり、文房具や名刺を発注したり、交通費など社員が立替払いで使った費用の清算したり、と多岐にわたる。基本は何でも屋だ。
清算業務に関しては、本来やるべきは経理ではないかと不満に思わなくもないが、会社の指示なので仕方がない。それに大して手間暇のかかる業務でもないので黙認している。提出された経費清算申請書と領収書に不備がないかチェックして、申請者に現金を渡せば終わりだ。
しかし今、加奈子の手元にある書類に記載された金額は、あろうことか領収書の額と一致していなかった。単なる転記ミスだ。ほんの少し気をつけさえすれば防げるような間違いだった。
申請者は羽田美雪。
加奈子は、またか、と思った。美雪はこの手のミスがとても多いのだ。
「なに? また彼女?」
加奈子の小さく漏らしたため息を聞きつけた隣の南亮介が覗き込んできた。
彼は加奈子の二年先輩で、面倒見は悪くないのだが、仕事にはとても厳しい。根が生真面目なせいもあるのだろうが、いささかストイックすぎる面があり、他部署からは敬遠されているらしかった。加奈子も今でこそ普通に接することができるようになったが、配属当時は顔色を窺いながらびくびくしていたものだ。
「ええ、まあ……」
加奈子は曖昧に返事をした。美雪の肩を持つ気はないが、自分の同期が未だにミスばかりしていることは名誉なことではない。それに、話が長くなる可能性があるため、適当に誤魔化して切り上げたいという気持ちもあった。
案の定、
「彼女、月城さんと同期でしょ? ちょっとミス、多すぎるよね。新人じゃあるまいし」
彼の声に厳しさが増し、小言が始まった。
加奈子にしてみれば、とんだとばっちりだ。余計な時間をとられるうえ、自分が怒られているような気になってくる。そんな加奈子の気持ちにはおかまいなく、彼の小言は延々と続く。
無意識のこととはいえ、ため息など漏らしてしまったことが悔やまれて仕方ない。
「彼女さ、ちょっと可愛いからって仕事舐めてるんじゃないの?」
正味三十分。南は最後にそう締めくくり、ようやく加奈子は解放された。気分はすっかり萎えていた。
とばっちりの根源となった書類を持って加奈子は席を立った。
美雪に文句の一つも言ってやろう。
そもそも美雪がつまらないミスなどするから、南に代理説教を受けるはめになったのだ。文句の一つや二つくらい言う権利はあるはずだ。
苛々しながら、廊下を急ぐ。
営業部のフロアに足を踏み入れると、一気に喧騒に包まれる。
そう感じるのは、加奈子の所属する管理部の静寂との対比のせいだけではないだろう。
活気があるといえば聞こえはいいが、実際には誰にも相手にしてもらえない電話の呼び出し音が虚しく響き続けていて耳障りだった。さばききれないほどの電話が設置されているのかと思いきやそうではなく、聞こえないフリをしたり、談笑している社員もちらほらいるのを見て加奈子は苦々しく思った。
美雪は窓際の席で受話器を耳に当てている。
何かしでかしたのだろうか。電話口で頭まで下げながら何度も謝っている。その横顔は真剣そのものだった。そんな姿を電話が終わるのを待ちながら、ぼんやりと眺めた。
ふと視線をずらすと、別の社員が電話片手に、足を組み、面倒くさそうな顔でネットサーフィンしているのが目に入った。つい後ろからぶっ叩いてやろうかと思ってしまう。
「羽田さん」
美雪が受話器を置いたところを見計らって声をかける。
「あ。カナちゃん。どうしたの?」
「カナちゃんはやめて。今は仕事で来てるんだから」
「ごめん。月城さん」
加奈子は仕事とプライベートを完全に切り離したいため、仕事中は愛称ではなく、きちんと名字で呼び合うようにしている。
しかし、美雪はなかなかそれに慣れないのか、しょっちゅう加奈子を愛称で呼び、たしなめられているのだった。
「これ、金額が間違ってる」
彼女の鼻先に書類を突きつけると、あっと、美雪は声を上げた。顔には「しまった」と書かれている。
「ご、ごめんなさい!」
「ねえ。羽田さん。前にも同じようなことあったよね? ほんと、少し気をつけてくれないと」
「ごめんなさい……」
美雪はしょぼんと肩を落とし、もう一度「ごめんなさい」と繰り返した。伏目がちな目からは今にも涙が零れそうだ。
加奈子は何だか自分が弱い者イジメをしているような気がしてきて落ち着かず、
「もう謝らなくていいから。金額のところ、訂正印押して直して」
書類をデスクの上に広げた。
「は、はい」
美雪はいそいそと机の引き出しから印鑑を出し、金額を修正した。
その間、ちらちらと周囲からの視線を感じたのは、きっと気のせいではない。隣の席の日野という入社一年目の男性社員は、比較的あからさまに不服そうな顔で加奈子を見ている。
総務を含め、管理部というのは細かくて面倒な存在だと思われている節がある。まとまった金額を扱う営業部からすると、一円や二円でいちいち目くじらを立てるなよ、と思うのかもしれない。
しかし、こちらからからすれば、例えそれが一円だろうと、間違うことは決して許されない。もちろんケチだとかそういうことではなく、監査とか企業倫理とか、色々な問題があるからだ。個人のお小遣いではないのだから、きちんとするのが当然なのに、間違いを指摘すると煩そうな顔をされる。だったら最初から間違えるなよと、声を大にして言いたくなる。
加奈子は日野を負けじと睨みつけながら、美雪から直し終わった書類を受け取った。
「じゃあ、この分は用意しておくから。午後、取りに来て」
「うん。あの、わざわざありがとう」
「どういたしまして」
美雪が素直に礼を述べたので、加奈子もまた素直にそれを受けた。
こういうところは彼女の美徳だ。日野あたりだったら、絶対に礼なんて言わないだろう。言うとしたら嫌味に決まっている。わざわざ来るなんて暇なんですね、くらいは言いそうだ。
美雪にとっては可愛い後輩なのかもしれないが、加奈子にとっては憎たらしい以外の何者でもなかった。
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