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第三話 遠い世界
「月城さん、ちょっといい?」
南が改った口調で声をかけてきたのは、それから数日後のことだった。
また美雪が何かしでかしたのだろうか?
加奈子がとっさにそう思ってしまったのは、過去に彼らの板挟みを経験したことがあるからだ。それも一度や二度ではない。
南がはじめて美雪を呼びつけたのは、彼女がミスした時だった。
平気でずけずけと物言う南のことだ。てっきりお小言が飛び交うかと思いきや、まるでひな鳥にでも触れるかのような態度だったのをよく覚えている。
以来、何かあると加奈子を間に挟もうとするようになった。とんだ迷惑な話だ。
惚れた弱みとかではなさそうなので、単に美雪のしょぼくれた顔が見たくないのだろう。
何をいまさら、と思う。南に泣かされた女子社員はゼロではないし、加奈子だって泣かされたクチだ。それが美雪だけ特別扱いというのは、どうにも納得がいかなかった。
結局のところ、美雪は男性の庇護欲をかき立てる存在であり、あの大きな瞳で潤まれることは避けたいという、男心なのだろう。
だが、わざわざ誰もいない少人数用の会議室に通されたことで、何かもっと重要な話なのかもしれないと思った。嫌な予感がした。
「なんでしょうか?」
勧められるままに椅子に座ったものの、一向に話し出す気配のない南を急かすように水を向けた。
「ああ。その……非常に言いにくいんだけど。早めに話しておいたほうがいいと思ってね。その、君のためにも」
言いよどみながら、南は手にしたボールペンをくるくると器用に回した。彼は気分が落ち着かないとき、身近な物をいじる癖があるのだ。
加奈子は彼の手元をぼんやり見ながら、話の続きを待った。
「月城さん、最近仕事はどう? 大変?」
「忙しいときもありますけど、順調です。特に問題はありません」
話の流れが見えず、加奈子は注意深く答える。やはり美雪の話ではなさそうだ。
「そう。実はね……」
思わせぶりに、南はそこで言葉を切り、
「最近、君の評判があまりよくないんだ」
「え?」
一瞬、意味が分からなかったが、その言葉の意味を理解すると同時に心臓のあたりにひやりと冷たいものを感じた。
別に自分が人気者だとは思っていないし、一部から口煩い女だと思われていることも承知している。
しかしそれは個人的感情によるもので、会社から見た加奈子の評価に関係するはずがなかった。つまり一個人が抱く嫌悪が、オフィシャルなものに変化するはずがなかった。少なくとも加奈子はそう考えていた。それに口煩いだけなら、南だって、経理課の高橋だって負けてはいない。
けれど今、業務時間中に、あえて先輩社員の口から告げられたということは、もはや個人的な嫌悪を向けられているだけではないということだ。
自分だけが不当に貶められたような気がした。
「どういうことですか?」
動揺する気持ちを抑えながら、落ち着いた口調で問うた。唇が震えた。
「本当にこんなことを言うのは心苦しいんだけど……その、管理部だからって少し態度が横柄すぎやしないかって。正式に苦情がきてるわけじゃないけど、そういう話を耳にしてね。君が一生懸命仕事してくれているのは僕はよく知っているけど、噂や評判って怖いから。下手すれば君の評価や今後の査定にも関わるかもしれないし。少し気をつけたほうがいいと思うんだ」
「誰ですか? 一体、誰がそんなこと……」
怒りとか悔しさとか恥辱とか、込み上げてきたあらゆる感情のすべてを握りつぶすかのように、加奈子は膝の上で拳をぎゅっと握った。
「だからね。誰とかそういうんじゃないんだ。噂のレベルだから」
「でも、そういう話をしていた人はいたんですよね?」
歯切れの悪い南に食いつきながら、ふと美雪の隣で加奈子を睨んでいた日野のことが脳裏をよぎった。
「それはそうだけど。誰が噂していたか知ったところで何の得にもならないよ。その人が言いだしっぺだとも限らないわけだし。単に耳にしたことを話していただけの可能性だってあるんだから。それよりも――」
「分かりました」
加奈子は声を詰まらせながら答えた。
これ以上、南と押し問答したところで何の解決にもならないし、時間の無駄だと思ったのだ。たとえ日野が告げ口をしたのだとしても、どうすることもできない。何より熱くなった目頭から涙がこぼれないよう、必死にこらえることのほうが加奈子にとっては重要だった。
南に顔を見られないよう俯いたまま早足で会議室を出ると、階段の踊り場から聞き覚えのある甘ったるい笑い声が聞こえてきた。思ったとおり美雪の姿があった。
彼女の隣にいるのはデザイン室の三浦だ。若手のホープでイケメンだと、社内の女子に人気がある。デザイン担当なだけにファッションセンスもよい。
三浦が何か言うたびに、美雪の媚びたような高い笑い声が響く。時折、彼女の手が彼の腕に触れる。彼のほうも満更ではない様子で、彼女を楽しませようと、懸命に話を盛り上げようとしているようだった。
彼がポケットから何やら取り出すと、「めっちゃ可愛い」と言って美雪ははしゃぎ、そんな彼女を三浦は優しく見つめている。
その光景が、加奈子の目には自分のいる場所とは違う遠い世界での出来事のように見えた。
いつもなら「男に媚びるなんて馬鹿みたい」くらいに思って眉をひそめるだけなのに、今日は違った。自分だけがその場へ取り残されたようなやりきれない思いが、胸の奥に黒い染みを作り、それが徐々に広がっていく。
嫉妬だ、と加奈子は思った。それを嫉妬だと認識できる程度には冷静だった。
別に三浦に特別な好意を持っているわけではない。髭の薄いすべすべした頬は素敵だと思うが、それ以上でも以下でもない。だから彼の隣に立つ美雪に嫉妬したわけではない。
ただ、美雪の立つ場所――彼女の生きる世界が、まるでスポットライトが当てられたように明るく輝いて見えて、それがたまらなく眩しく映ったのだった。
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