第四話 弱った心

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第四話 弱った心

 その夜は無性に飲みたい気分だった。  加奈子は翔太に声をかけ、普段よく利用している居酒屋で待ち合わせた。翔太の隣には、もちろん美雪もいる。  他愛もない話をしながら、加奈子はくいくいと冷酒を喉の奥へと流し込む。 「今日はまた、ずいぶんピッチ早いなあ。なんかあったのか?」 「別に」  加奈子は短く答えた。  翔太にも美雪にも、南に言われたことを話すつもりはなかった。どちらかといえば知られたくない。恥ずかしいことだし、それを同僚に向かって晒せるほど強くはない。プライドだってある。  ましてや美雪に嫉妬したなどと、口が裂けても言えない。 「そうかあ? なーんか荒れてるように見えるけど」  珍しく翔太が徳利を手に、加奈子のお猪口に傾ける。普段は互いに手酌なのだが、彼なりに気遣ってくれているらしかった。せっかくの気遣いを加奈子はまた一気にあおる。  おいおい、と責めるような翔太の視線が少し痛い。 「カナちゃん、最近忙しそうだったから」 「そうかあ?」    フォローするように美雪が横から口をはさむが、翔太は釈然としない様子だ。  やがて話題は芸能人のゴシップネタに変わった。最近は、人気俳優の不倫や離婚などが立て続けに報道され、世の中を騒がせていることは加奈子も知っていた。  今の加奈子には気が楽な話題だ。自分の知らない他人のことを、勝手な憶測でああだこうだ言えばいい。  なのに、飲んでも飲んでも気分は一向に晴れなかった。それでも、酔いは確実に回り始めていた。頭の中がぼんやりと霞がかったようで、呂律が怪しくなってきている。目蓋も重い。酔っている自覚はあるのに、お猪口を手放せない。自覚はあっても判断力が鈍っている。酔っている証拠だった。 「……ねえ。ところで南さんのこと、どう思う?」  加奈子のあまりに唐突な問いかけに、ふたりは顔を見合わせた。 「南さんって、お前の先輩?」 「うん。そう」 「そうだなあ。なあ、これってオフレコ?」  翔太が前のめりになって確認する。 「もちろん」 「じゃあ言っちゃうけど、あの人、性格悪いよな。俺、この前ロッカーの鍵失くして新しいの作ってもらったんだけど、めちゃくちゃ怒られたわ。しかも同じことを何度も何度もしつこいったらありゃあしない。あれ、絶対俺らでストレス発散してるよ」  翔太が心底うんざりといった表情でこぼす。自業自得ではないかと思ったが、面倒くさいので加奈子は放置した。 「えー。みいは、怒られたことないよ」 「それは、羽田だからだよ。あの人、お前に気があるんじゃない?」 「そんなことないよお。それより、みいは経理の高橋さんのほうが怖いなあ。いっつも怒られちゃうんだよね」 「お局だからな、あの人は。噂によると若い女子社員には徹底的に厳しいらしいぞ。まったく、うちの会社は性格悪いの揃ってるよなあ」  翔太がわざとらしく口を尖らせると、美雪は手を叩きながら笑った。それにつられるように、翔太も豪快に笑う。 「じゃあ、私は?」  加奈子の言葉に、ふたりの顔から一切の笑みが消えた。空気が凍りついたように、彼らの動きも止まっている。  それが唐突なことで驚いたせいなのか、あるいは回答に窮したせいなのか加奈子にはわからなかった。  それから翔太が慌てたように、 「お、おいおい。待てよ。本当にどうしたんだよ? 月城。本当になんか今日は変だぞ。なんで今の話にお前が出てくるんだよ? そりゃあ、お前も生真面目だし、厳しいところもあるかもしれないけど、理不尽さはないだろう? あの人たちと月城が同列なんて考えたこともないよ」 「そうだよ。カナちゃん。カナちゃんは怖くないし、性格だって悪くないよ。だって、みい、カナちゃんのこと大好きだもん」 「ふうん。そう。それはどうも」  正常な思考力が損なわれているのだろう。  自分から質問したはずなのに、それに対する答えへの興味はなかった。ただ心の奥のそのまた奥のほうで言いようもない寂しさのようなものが渦巻いていた。やはり酔っているのだ。 「カナちゃん?」  耳元で美雪の心配げな声がした。目の前にはピンク色の花柄のハンカチが差し出されている。なんだろうかといぶかしみ、すぐにその理由を知った。  加奈子は泣いていたのだ。  恥ずかしすぎて、涙を堪えようと目に力を入れる。なのに、一度溢れ出した涙が止まることはなく、とめどなく溢れ続ける。 「……ごめん」  差し出されたハンカチを顔に当て、呟いた。 「いいよ。つらいなら、いっぱい泣いちゃえ。みい、今日はとことん付き合うよ」 「おう。鬼の目にも涙、だな」 「ちょっと翔ちゃん! カナちゃんは鬼じゃないでしょ」 「まあな」  彼らのやりとりが加奈子を元気づけようとしているものだということは、どろどろに蕩けてしまった頭でも理解できた。入社して初めて、同期というのは、友人というのはいいものだなと思った。  美雪に対してさえ――。 ***  翌朝、目を覚ますと気分は最悪だった。  頭はがんがん鐘を打ち鳴らすように痛むし、目も腫れている。何より自分が晒してしまった醜態を思い出すと穴にでも入りたい気分だった。これからどんな顔で彼らに接すればいいのか。できることなら昨晩に戻って、自分の手からお猪口をとりあげてやりたい。  いつもよりも濃い目にメイクしながら、加奈子はため息をこぼす。 ――いい大人が酔っ払って大泣きって……。  加奈子は美雪が貸してくれたハンカチにそっと触れた。まだ少し湿っている。  あの涙がなんだったのか、自分でもよくわからなかった。いや、美雪の言うとおり最近忙しかったから疲れていたのかもしれない。きっとそうだ。  確かに南の話はショックではあった。だけど、新人じゃあるまいし、そんなことでいちいち泣くほどやわじゃない。  ズキズキ痛む頭を抱えながら、まずは翔太と美雪へ迷惑をかけたことへの詫びのメールを入れ、それから仕事にとりかかった。  人と接するときには極力態度に気を付けるようにはしたが、だからといってにこやかに愛想を振りまくことはできなかった。もともとの気質もあるし、二日酔いのせいもある。だが何より、誰も彼もが自分を貶めようとしているように見えて、緊張と不審を振り払うことができなかったのだ。  美雪のようにちやほやされたいとは思わないが、誰ともわからない他人から悪意を向けられるのは結構なストレスだった。  夕方、頭痛も治まってきた頃に二人からメールの返信が届き、加奈子は仕事の手を止めた。内容はほとんど同じで「気にしていないからまた飲みに行こう」というものだった。  加奈子はほっと息を吐いた。
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