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第一話 苦手な女
「めっちゃカワイイぃー」
突然となりから上がった甘ったるい声に、加奈子は「またか」とうんざりしながら、ビールジョッキを口に運んだ。
声の主は、同期入社の羽田美雪だ。
彼女の「めっちゃ可愛い」は口癖のようなもので、馬鹿のひとつ覚えよろしく連呼するのだが、その対象は必ずしも可愛いわけではない。それが加奈子には痛く感じる。
実際、今、彼女が「可愛い」と言ってはしゃいでいるのは、どこから見ても怪しい人形のキーホルダーだ。
肉まんのような円形の顔に目鼻と口、それに一文字の眉毛が描かれ、頭のてっぺんには黒く四角い海苔のようなものが張り付けてある。ほっぺたはご丁寧に赤く膨らんでいた。子供向けのアニメキャラを意識しているようだったが、いかんせんへんてこすぎる。突っ込みどころは多々あっても、可愛いといってほめそやす要素は何ひとつとして見当たらない。
キーホルダーは同じテーブルに着いている佐々木翔太から貰った土産物だった。彼もまた同期入社の友人だ。美雪のテンション高い喜びっぷりに、「そうだろう、そうだろう」とさも満足気に頷いている。
加奈子は何だかとても阿呆らしくなって、底が見えてきたビールを一気に飲み干し、近くにいた店員に二杯目を注文した。
「おー。今日もピッチ早いな」
「そう?」
見れば翔太のジョッキにはまだ半分近くビールが残っている。美雪にいたってはほとんど口が付けられていない状態だ。
加奈子は酒豪というわけではないが、この面子で飲むときには大抵の場合、酒が進む。厳密に言えば、美雪が同席するときは、だ。
彼女の甘ったるく鼻にかかった「可愛い」攻撃は加奈子の神経を苛立たせ、それをやり過ごすには、アルコールの力が必要不可欠なのだった。
三人で初めて一緒に飲んだのは、入社一年目の冬頃のことだった。
同期入社は三十名ほどいたが、東京の本社に配属になったのはその約半分だ。入社して間もない頃は学生気分が抜けず、本社配属の全員でつるんで飲み会やらバーベキューやらに勤しんでいたが、時間が経つにつれ、そんな機会も自然と減っていった。
仕事が忙しくなり、スケジュールを合わせにくくなったのもあるし、人間関係の幅が広がっていったせいもある。
初めは同期という同世代の、社内では右も左も分からないようなひよっこだけで集まって、ああだ、こうだと騒いでいれば楽しかったし、それで良かった。
だがそのうち当然の成り行きのように、先輩や上司とコミュニケーションを深めたり、取引先と飲んで相手の真意を探ったり、ただ楽しいだけなく、仕事にも自分にもプラスになるような付き合いが徐々に増えていった。
そんな中、加奈子は翔太とだけは新入社員研修で隣同士だったこともあり、たまに一緒に飲んだりしていた。
あけっぴろげな明るさを持つ反面、真面目なところもある彼は信頼に足る人物で、社内で唯一友人と呼べる存在だった。愚痴をこぼし合ったり、将来の夢について語り合ったこともある。
ある日、待ち合わせしていた居酒屋の暖簾をくぐると、翔太は先にテーブルに着いてメニューを広げていた。その隣にいたのが、美雪だった。
むろん、同期のよしみで加奈子も美雪とは面識はあったが、個人的に親しくしていたわけではなかったので、じっくりと話したのはその時が初めてだった。
初っ端から彼女は「めっちゃ可愛い」を連発した。テーブルの上に置いてある無機質な黒い灰皿さえ褒めかねない勢いだった。
加奈子は唖然とした。この子、こんなんだっけ? グループのひとりとして接していたときにはまったく気付かなかった。どちらかといえば大人しく、無口なほうだったと記憶している。
翔太が口の脇に食べかすを付けているのを見つけると、美雪は長い睫を瞬かせ、手を叩いて大喜びした。「可愛い」と言われ、彼が喜んでいることは一目瞭然だった。目尻は下がり、口元はだらしなく緩んでいる。
こいつ、馬鹿か。加奈子は半ば呆気にとられながら、初めて翔太に対して心の中で毒づいた。
以来、翔太と二人で飲みに行くことはなくなった。翔太にだけ声をかけても、必ず美雪がついてくる。彼女が翔太の後をついてくるのか、翔太が誘っているのかは分からない。
オマケというのは人の心をくすぐるが、彼女がついてきても加奈子には喜べなかった。しかし残念なことに、翔太はそのことにまったく気付いてはいない。
社内でも「三人仲良いね」なんて言われたりするが、加奈子にしてみれば不本意この上なかった。美雪とは別に仲良しではないし、友達でもない。少なくとも加奈子はそう思っている。
「みい、ちょっとお手洗い行ってくるね」
美雪がヴィトンのバッグを手に席を立つ。
『みい』というのは、美雪が自分を指すときに使う愛称だ。もういい大人なのだから自分を名前で呼ぶなよと思ってしまう。彼女は決して悪い人間ではないが、加奈子にとっては生理的に許せない部分が多々あるのだった。
「ねえ、これ」
美雪の後姿が見えなくなると、加奈子は翔太に貰ったキーホルダーをつまみ、ぷらぷらと目の前で揺らした。
「突っ込みどころが多すぎ。特に頭の海苔? これ髪の毛? 肉まんなのに? これ、あんた、受け狙いで選んだでしょう?」
「まあな。面白いだろ?」
得意気に答えてから、翔太は一杯目のビールをようやく飲み干し、ドリンクメニューを広げた。
「うん。すごい笑える。でもさ、可愛くはないよねえ?」
加奈子は秘密を打ち明けるかのように声のトーンを少し落とす。
翔太はすぐに加奈子の言わんとすることを察したらしく、
「いいじゃん。別に。俺としてはあれだけ喜んでもらえれば本望だし」
彼のさも満足気な顔を見て、加奈子は長いため息をついた。
「ほんと、男って女に甘いよね。特に翔太は美雪に甘いよね」
「なにそれ。ヤキモチ?」
「んなワケないでしょ。馬鹿じゃないの」
加奈子は二杯目のビールジョッキを空にした。
「なんだよ。お前、口悪いなあ。それに、可愛い可愛くないなんていうのは主観の問題なんだから。羽田が何を可愛いと言おうが、それはあいつの勝手だろう」
「……うん、まあね……」
それはそうなんだけどさ、それにしても馬鹿みたいじゃない? 続く言葉をぐっと飲み込む。言ったところで、逆にたしなめられるのがオチだった。ずけずけと物言う加奈子は翔太にとって男友達のような存在で、対する美雪は間違いなく女友達だ。当然、美雪に対してのほうが甘い。
加奈子は店員を呼び、冷酒を二合注文した。翔太もそれに付き合うことにしたらしく、ドリンクの注文はせずに、お猪口だけ追加で頼んでいる。
ちょうど互いのお猪口に並々と酒が入ったところに美雪が戻ってきた。
「お待たせ。お手洗いすごく混んでるよー。あ、日本酒飲んでる。みいも一口欲しいなあ」
「羽田は飲めないだろう。いつもの梅酒にしておけよ。あ、ほら、フローズンカクテルなんていうのもあるし」
翔太はドリンクメニューを美雪に手渡す。
決してひがんでいるわけではないが、梅酒やカクテルといった女子的なドリンクを勧められたことは、加奈子は一度だってなかった。憮然と手酌で酒を継ぎ足す。
結局、美雪はフルーツを使ったいかにも甘そうなカクテルを選んだ。それから「そうだ」と思い出したように手を叩き、体ごと加奈子のほうに向き直った。
「ねえ、カナちゃん。みいね、映画の試写会に当たったの。よかったら一緒に行かない?」
「なんの?」
訊けば、有名ハリウッド女優が主演の今全米で話題のタイトルだった。行きたい。観たい。その本心をぐっと押し殺し、
「ごめん。その日はたぶん残業になると思う」
「そっかあ。残念。カナちゃん、忙しいもんね」
美雪はがっかりと肩を落とす。
「なら、俺が行こうかな」
「翔ちゃんには悪いんだけど、この試写会、女の子限定なんだ。また今度、何か当たったら誘うね。ごめんね」
半ば身を乗り出し名乗りを上げた翔太に、すまなそうに美雪は両手を合わせた。翔太は「それは残念」と言いながら、本当に残念そうに目をしょぼしょぼさせている。
美雪から個人的に誘われたのは、これが初めてではなかった。過去にも何度か声をかけてもらっている。バーゲンセールやイタリア料理教室、ネイル教室などが主で、男の翔太が入る余地のないようなものばかりだ。
その度に仲間はずれにされていると思うのか、いつも翔太は恨めしそうに加奈子たちを見るのだった。
逆に加奈子はといえば、誘われるたびに、何かしら理由をつけて断り続けている。今回の映画の試写会もそうだ。
三人で会うのは仕方がないとしても、彼女と二人きりは勘弁して欲しいというのが本音だった。
「女同士はいいよな。なんか楽しそうで」
悪気もなく、翔太がのんきに言う。彼は、加奈子と美雪は仲が良いと思っている。今もなお加奈子が彼女を疎んでいることにまったく気付いていないのだ。
「そうかな? うん、でもそうかもね。女の子限定のイベントとかも多いし。ね、カナちゃん」
美雪はこぼれるような笑顔を加奈子に向けた。
彼女もまた、毎回誘いを断られているのに、加奈子の気持ちには気付いていないのだった。
彼らの共通点。それは他人の気持ちに鈍感であることかもしれない。それとも、長く一緒にいることに甘えてしまっているのだろうか。
加奈子は浅く息をはき、手酌でもう一杯、冷酒をお猪口に注いだ。
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