一章

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一章

 いつも同じ電車に乗る人が、少し気になっている。    6時50分に家を出て、歩いて10分の最寄りの駅に向かう。  通っている高校は市外にあるから、中学の時よりも早く起きないと遅刻になってしまう。眠い目を擦りながら、顔を洗って適当に朝ごはんを食べる。シリアルを口に入れると、ザクザクした感触が口の中を刺激する。流しに皿を置いて、指定の制服に着替えて家を出た。市役所に勤める義父は車出勤で、8時半にタイムカードを切ればいいらしく、まだ寝ているようだ。顔を合わせなくて少しほっとする。  二学期になっても暑さは和らいでくれない。歩いていると、ローファー越しにアスファルトが熱を訴えてきた。  駅のホームはいつもながら閑散としている。ここは北関東の片田舎だ。田舎のJR線は、都会のように混み合ったりしない。私の最寄駅は、数年前に無人駅になってしまったから、尚更。朝の7時台前半でもスカスカだ。線路の先にある赤城山が良く見える。だから何となく、ホームや同じ電車に乗る人の顔を覚えてしまう。スーツ姿のサラリーマン風の男性、前橋の有名私立の制服を着る女の子。OLっぽい20代ぐらいの女性。反対側のホームには、ジャージを着た中学生らしき一軍が見えた。この子達は5月にも見た。季節的に、部活動の新人戦か地区大会だろうか。  それに、同じ駅から乗って同じ駅に降りる、隣の高校の男の子。  癖のない黒髪。横から見てもわかる、穏やかそうに整った顔立ち。細いけどしっかりした背中は、何かスポーツでもやっているのかもしれない。真っ黒な学ランがよく似合う。いつも同じイヤホンを耳に入れて、文庫を開いている。文庫は結構頻繁に表紙が変わっている。昨日は酒見賢一の「墨攻」で、今日は星新一のショートショート集だ。真っ直ぐに文庫に向かう立ち姿を、毎朝、私は不振がられない程度に横目で凝視する。  何故だろう、いつの間にかその人に目が行ってしまう。たまに帰る電車も同じになって、やっぱりその度に。見覚えがある気がするけど、どこだろう。同じ中学だっただろうか。でも、同級生でこんな整った顔の人がいたら覚えていると思う。そう考えるうちに、電車がやってきた。  席に座り込むと、学生鞄の中から英語の単語帳を取り出した。今日の朝は英単語の小テストがある。面倒だな、と思いながら、単語帳を眺めた。追試を受けるのはもっと面倒。小テストなのになんで追試があるんだろう。赤点にならない程度には努力する。  現実は息が詰まる。毎回ある小テストや定期試験だけでも一杯一杯なのに、今月の半ばには業者模試まで受けないといけない。  単語帳と、振動と、電車の窓から見えるいつもの風景と。今日は晴天で、朝日が窓越しに暖かい。線路は川に沿っていて、電車と違って緩やかな流れで進んでいる。昨日は寝る前にベランダに出た。秋の星座が見えるか確かめたかったのだ。布団に入ったのは一時近く。だからか、少し眠い。単語帳がぼやける。うとうとと瞼が閉じられそうになって、目の前がマーブルになる。気がついたら誰かに肩を叩かれていた。 「あのさ」  穏やかな声だった。肩を叩く人の姿が、最初はぼんやりと、徐々に鮮明になってくる。  炯々とした瞳が眩しくて、私はそこで意識が完全に覚醒した。  最寄り駅のホームで見惚れてしまうあの人がそこにいる。真正面から見たのは初めてだった。いつも横顔だったから。正面から見ると、本当に心臓に悪いぐらい綺麗な……綺麗な瞳をしている。  そうだ、この瞳だ。純度が高くて、光り輝いているようだ。横からでも隠せないぐらい鮮烈なひかり。星みたいに。 「君、ここの駅じゃないの?」  アナウンスが駅の到着を告げて、扉が開かれる。音を立つぐらい勢いよく、私は立ち上がった。  慌てて私は、電車からホームに足を踏み入れた。不恰好に眠っていたのを見られたのが恥ずかしくて、走って階段を降りて改札を抜ける。そのまま降りなかったら、次の駅まで行って遅刻してしまっただろう。 「灯里、どうしたの?」  駅の北口で合流した親友の岬に、おはようよりも先に尋ねられる。どうしたのってどうしたの? 電車できたのに、変に息が上がってる、走ってきたみたいと言われた。何でもない、ちょっと恥ずかしいことがあっただけ、としか答えられなかった。  ……その人にお礼も何も言わなかったと気がついたのは、朝一限目の英語の小テストが終わった直後だった。
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