二章

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二章

 自転車に積むのは折りたたみの椅子と、簡易的な焚き火台。一人用のテント。街中はそれなりに暑くても、山の中にはいれば一気に冷気がやってくるから、長袖の上着は欠かせない。同じ市内でも街中と山中では、五度近く気温が違うだろう。  バックパックの中には、LEDランタンとカップ。軍手に、腹を満たせそうなものと、そのために必要な道具。ティッシュと除菌シート。天気予報によると、今日は満天の星が見えるようだ。それでも山の天気は変わりやすいから、ブルーシートとレインウェアも積んでおく。もし雨が降って、あまりにも強いようだったら、ヒナコさんの店に世話になろうと決める。それから文庫本とライター。コーヒー豆に、ゴミ捨て用のビニール袋は多めに。握り飯と麦茶の入ったボトルはカゴの中。イヤホンを耳に突っ込んで、iPhoneの中の音楽を再生させる。頭の中で荷物を確認して、自転車に乗った。  九月下旬の土曜日。晴天の下で、山奥を目指す。    目の前の風景が変わっても、ペダルを漕ぐという行為は単調なトレーニングに似ている。急な坂道を繰り返す時はクロスカントリーのように思えるし、平坦なアスファルトを走っている時は競輪みたいだと思う。  山に入ると、緩やかな坂道が膝と腿をじわじわと痛めつける。耳に入る音楽は、中和剤の役割も果たしてくれている。荷物がそれなりに多いから尚更だ。また、山奥へと向かう道は、上に登るにつれて細くなる。中央に白い車線が引かれなくなり、歩道と車道が一体化する。だから自動車が横を通る時は少し緊張する。それは自動車も同じだろう。時折、酒屋や郵便局の駐車場で休みを取る。背中の汗を、温くなり始めた麦茶が宥めてくれた。田畑と山がくっついたような風景に、ぽつぽつと民家が立っている。それも山奥になるにつれて、田畑がなくなり、ただ鬱蒼とした木々が生えた道の真ん中を通るようになる。竹田山が近い。緑が濃くなると、影まで濃くなると竹田山の山中を通ってから初めて知った。この辺りを通る車は昼間でもライトをつける。  目的地である竹田山のキャンプ場に着いたのは三時を過ぎたところだった。受付で料金を払い、叔父に印鑑を押してもらった同意書を渡した。駐車場からキャンプ場に行く途中にあるカフェに入る。 「ひかりの庭」の扉を開くと、年齢不詳の女性が顔を出した。真っ黒いエプロンが似合う、生活力に溢れた中肉中背の女性。 「炯くん、いらっしゃい」 「こんにちわヒナコさん」  ヒナコさんはこのキャンプ場を旦那さんと一緒に管理していて、並行してこのカフェを営んでいる。テーブルが三つだけの小さいカフェで、商売っ気がないところとひと気があまりないところが気に入っている。今も客は一人もいない。ツーリングや大所帯のキャンプ客は、ヒナコさんのこじんまりしたカフェよりも、少し離れたところにある食堂に行く人が多い。 「どうせこれからたくさんコーヒー飲むのに、わざわざ私のところでお金を払って飲む必要ないでしょ」 「雨が降ったらよろしくお願いします、という意味です」  そう言って、コーヒーと甘くないパウンドケーキを注文する。  何度も訪れているが、一度だけ夕立で身動きが取れなくなった時がある。その時に助けてくれたのがヒナコさんだった。撤収に火の処理。その後も、自転車も濡れて山道も危険だからと言って、「ひかりの庭」で雨が止むまで休ませてくれた。以来、山に入って料金を払ったらまずヒナコさんの店に寄ることにしている。  貸切状態の店の窓から見えるのは、九月の山々だ。夏の名残と秋の始まり。木々の色も、鬱蒼としながら、五月のような生き生きとした緑ではなく、少しずつ枯れる気配を生み出している。一枚の葉がはらりと落ちる。山々を眺めながら、ヒナコさんのコーヒーを嗜む。俺が屋外で淹れるコーヒーとは違う。すっきりと飲めるのに、喉に深い味わいが残る。  ……背中に仰々しいものを背負った自転車が窓辺に通り過ぎたのは、コーヒーも半分終わったところだった。 「珍しい。炯くんみたいに一人でくるなんて。しかも女の子だった」  肩のあたりで跳ねるポニーテール。ベージュのパーカーと藍色のジーンズという出立ちでペダルを漕いでいく。荷台には細長い包みを固定して積んでいた。 「あの荷物はキャンプじゃないわね。天体観測かしら」 「よくわかりましたね」  よくこのキャンプ場でもやっている人はいるとヒナコさんは言った。ここは、自由度の高いキャンプ場なだけではなく、市内でも有数の天体観測スポットのようだ。それにしても、一瞬通り過ぎただけで荷物を確認できるヒナコさんの動体視力はどうなっているのだろう。  コーヒーを飲み干して立ち上がる。一人しかいない事実が落ち着き過ぎて、結構な時間長居をしてしまった。 「ごちそうさまです」 「あんまり燃やし過ぎちゃダメよ」 「わかってますって」 「店が終わったら様子を見に行くわ」 「ありがとうございます」  コーヒー代を払って店から出た。同意書があれば未成年一人でも利用はできるが、ヒナコさんは心配だからと言って時折様子を見にきてくれる。未成年が一人でくる場合はそうしているらしい。それだけではなく、一部の道具は譲っていただき、キャンプの基本的な知識やルールもヒナコさんから教わった。俺はヒナコさんに足を向けて眠れない。コーヒー代では安いぐらいだ。
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