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そこにいたのはさっき自転車で通った少女だった。自転車を脇に置き、組み立てた天体望遠鏡を真剣に覗いている。真横にいたのに、全然気が付かなかった。天体望遠鏡はそれなりに本格的なものらしい。レンズを調整したり、屈んで筒の角度を変えたりと余念がない。ベージュのパーカーに、ジーンズという格好。……時折鼻を啜っては、地面に広げた天体図と望遠鏡を交互に見つめる。
肩のあたりで跳ねるポニーテールには見覚えがる。
朝同じ電車に乗る、隣の高校の女の子だ。いつも駅で見るのは、深緑のブレザーにチェックのスカート姿。リボンがクリーム色だから、葉鳥高校の特進クラスのはず。あの高校は、差別化を図っているのか、普通科の学生と特進部の学生でリボンの色が違う。普通科はブレザーと同じ緑色だ。……2週間ぐらい前、寝過ごして次の駅まで行こうとしていた。
こんな山奥まで自転車で一人で来るなんて、よっぽどの熱意がないと無理だろう。真剣にレンズを覗く姿に、変に感心してしまった。駅で見かける、自信がなさそうな姿とは大違いだ。
ただ一つ問題があった。
「あのさ」
俺はその問題を解決するために、彼女に声をかけた。俺の方を振り向いた彼女は目を丸くさせる。そして、気まずそうに目を背けた。
「そこ、自転車置けないところ。……駐輪場あるよ」
「え」
逸らしていた瞳が正面に向く。
芝を傷つけるから、ここはバーベキューコンロか焚き火台がないと火が使えない。同じように、自転車も駐車禁止だ。
「す、すみませんありがとうございます! いま移動させてきます!」
大慌てで自転車を引いていく。しかし、駐輪場の場所がわからないらしく、キャンプ場のあたりを心細げにうろうろする。こちらを振り向いた時に、駐輪場の場所を指さした。俺に謝ることでもないのに。
持ち主のいない間に、失礼を承知で望遠鏡を眺めてみる。三脚。鏡筒本体はそれほど長くない。さまざまなところにネジやハンドルがあって、一見だけだと何を調整するためのものかわからなかった。三脚の元の天体図は、今の季節のものだろうか。何が見えるのか気になって、心の中で謝罪をしながら筒の中を覗いてみる。
「……なんだこれ」
金色の光の雲が見える。周りはぼんやりとしたヴェールを纏って、その中心に大きい点がある。ヴェールの中にも、輝く無数の点がある。店の色は金だけじゃなくて、赤とか白とか、一つとして同じ色はないように思えた。星、なのか、これは。
「M31」
ポニーテールが戻ってきていた。
「悪い、勝手に覗き込んで」
いいえ、とふるふると首を振った。その仕草が高校生とは思えないほど幼く見えた。
「アンドロメダ大銀河です。ものすごく明るいんですよ。銀河は星の集団なので、一個の星ってわけじゃないんです」
あそことあそことあそこを繋げると、アンドロメダ座になるよ。そう言われても、あそことあそことあそこがわからない。どうも、図の形をしっかり理解していないと読み解けないものらしい。
……ハンドルを動かして、隣の高校の女の子が鏡筒の角度を調整する。唸りながら、眉間に皺を寄せながら。ようやく納得のものが見つかったのか、その瞬間に口元を綻ばせた。
「これ、見てみてください」
言われるがまま覗いてみる。
さっきのぼやけた大きい銀河団とは違う、鮮烈な光だった。
「アルフェラッツです。アンドロメダ座のアルファ。これを軸に、繋げていってください! こういう形になるはずです!」
鏡筒から顔を離して、言われた通りに指定された星々を繋げてみる。
「……本当だ」
声が上擦っている。そうか、こう言う形になるのか。
「良かった、ちゃんと見えて。九月ならどんな時間帯でも天気が良ければ見れるんですよ。アルフェラッツはペガスス座にも形成される星で、秋を代表する星の一つなんです。アンドロメダ座は古代に見つけられた48個の星座のうちの一つで、はっくし!」
話の途中で、少女が再びくしゃみをする。パーカーの中は半袖かもしれない。それは確かに寒い。ぐずぐずと鼻を啜る。
ぱちぱちと火が踊る音が響いた。
「火、当たれば?」
「……いいんですか?」
「そこで寒がっている人間が遠慮するものじゃない」
「じゃあ、遠慮なく」
少女は焚き火台に近づいて手を当てる。あったかーと変に感動した声を出す。
流石に俺も腹が減ってきた。冷めたコーヒーを飲み干して、バックパックの中から腹を満たせそうなものを詰めたビニールバックを出す。今日はカマンベールチーズを炙ったものと、味噌の焼きおにぎり。焚き火台のグリルのやかんの隣に、味噌を塗っておいた握り飯を並べた。スープは市販のものだ。粉をお湯で溶かすタイプのやつ。あらかじめ切っておいたチーズを竹串に刺して、火で炙る。
火が少女の顔を照らす。さっきは暗くてよく見えなかった。よく見なくても、瞳が大きくてそれなりに目鼻立ちの整った子だ。大きな瞳に炎が映って、さっき見たアルフェラッツみたいに煌めいていた。炎の中心にある光。火の中心。何かが移りそうになって、頭がピリッと痺れた。それ以上考えることをやめにする。
「星、好きなんだね」
そうじゃなかったら、山奥まで自転車を飛ばしてこないだろうけれど。くしゃみをしなかったらあのまま続いていたかもしれない。
「小さい時に、よく父さんに連れてきてもらったんです。街灯とか遮蔽物がないところがよく見えるから。だから、久しぶりにここまできたんです。やっぱり綺麗ですね」
天を仰いだ。さっき教えてもらったアンドロメダ座以外わからないが、落ちそうなほど大量の星ぼしが空を飾っている。多分、一つ一つの色は違っていて、形状も一つたりとも同じものはないのだろう。火と同じように。
「今日、父さんは?」
何気なく聞いただけだった。そうしたら、少女が笑顔のまま固まった。
「……星になっちゃったんです。だから、早く父さんを見つけたくて。でも、いいじゃないですか、そんなこと」
あまり触れてほしくないのかもしれない。声が強張っていた。白カビの部分が少し焦げついている。食べどきだ。微妙に元気のなくなった少女に竹串を渡す。
「食べな」
「……ありがとうございます」
あつっと悲鳴が上がる。焼きおにぎりもちょうど良くなっている。一口入れると、味噌の甘味と、少し焦げた米の香ばしさが広がる。腹が満ちた時には、夜のとばりもすっかり落ちてしまっていた。
「ところで君、これから帰れるの?」
瞬きを二回した。
「帰れるって……。普通に来た道を辿ればいいだけじゃないですか? 時間は掛かるけど、多分大丈夫ですって」
「この辺は道に電灯がない。もう暗いから、自転車で一歩間違えたら遭難するぞ」
実際、山を降ろうとして遭難した話はヒナコさんから聞いたことがある。慣れている人間ほど遭難しやすい。少女の顔がさーっと青くなるのがわかった。今は八時。家が市内でも、自転車で山を下るのは一時間以上かかる。
「家の人は迎えに来れない? その方がいい」
女の子はそれは無理、と首を横に振った。何も言わずに出てきたのだろうか。秒の速さだった。俺はiPhoneを出して、ヒナコさんに電話を掛ける。事情を話すと、ヒナコさんはすぐに行くと言ってくれた。
「ここのオーナーが、家まで送ってくれる。自転車も一緒に積んでくれるって」
「でも、そんなの悪い。やっぱり自転車で帰ります」
「このまま自転車で帰るのは危険だと思うけど。ここは甘えた方がいい。未成年者が夜帰ろうとして遭難するのは、オーナーだって困るんだよ」
「……あなたは?」
「寝袋あるし。ここで泊まる。駆け出しのソロキャンパーなんだ」
「……逞しいですね」
「火を見ると落ち着くから。たまにこうして、焚き火をしに山に入る」
「なんだかスナフキンみたい……」
スナフキンは玄人だ。俺は素人に毛が生えた程度のことしかできない。俺の場合、火を見たいがために始めたキャンプだ。
野外を楽しみたいとか、バーベキューをしたいとかの楽しげのある理由ではない。合法的に火を扱える場所を探したらここに辿り着いた。危険なものでも、保護者の同意書に、法的なルール、自然のルールに従って安全に行えばいい。
「あの。私、仙崎灯里っていいます。この間は、ありがとうございます」
一瞬何を言われたかわからなかったが、すぐに理解した。
「間に合った?」
「おかげで遅刻せずにすみました……えっと。お名前は」
「樋上炯」
お互いに名乗っていなかった。ケイってどう書くんですか? 景色の景? それとも恵? 仙崎灯里が提示した漢字はどれも違う。俺はバックパックからメモ帳とボールペンを取り出して、自分の名前を書いた。
炯。
見慣れない字らしく、仙崎灯里は俺の名前が書かれた紙をまじまじと見つめている。私はこう書きます、と想像通りの名前を見せた。
「……炯さんて。なんか、あったまるいい名前ですね」
「火へんが入っているだけだろ」
一体誰がつけたのだろう。両親だろうか。よく、景とか圭とかと間違えられる。一回だけ剣道で準優勝した時なんか、頸と書かれていた。首かよ。故意に間違えたとしか思えない字で、流石に表彰状を差し替えてもらった。そんなことを考えていたら、ヒナコさんがやってくる。
「道が凍らない季節でよかったわ。お礼ならこいつに言ってあげて。あなたも大分迂闊ね。自転車は積んであげるから」
「あなた、も?」
「そう。目の前にいるこいつも助けたことがあるわ。あなた以上に考えなしで結構大変だったんだから」
耳が痛い。明後日の方向を見て、聞かなかったふりをした。ヒナコさんのワゴンが駐まったところまで見送りに行く。自転車と天体望遠鏡は楽々にワゴンに収まった。
「ありがとうございます」
「大したことじゃないから」
「……また、見かけたら話しかけてもいいですか?」
了承して、仙崎灯里を乗せたヒナコさんのワゴンが出発した。
テントの元に戻る。爆ぜる音が唯一の音楽として成り立つほど、急に静かになった。空を仰ぐと、無数の燃える石が瞬いている。宇宙の中では燃えているのに、地上に届くのは優しい灯りだ。
ランタンの光と火を頼りに、本を広げる。前のコーヒー豆をビニール袋に捨てて、新しい豆で二杯目のコーヒーを淹れ始める。慣れた本を読みながら、コーヒーを飲んで、消灯時間ギリギリまで火を楽しみたかった。……しかし何故か、本の内容がうまく入ってこない。
火の中心にあるものが、仙崎灯里の瞳の輝きになっている。
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