第五章

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第五章

 舟崎由佳のアパートを調査した日から、数日が過ぎ、とうとう、蓄えていた人肉が底をついた。  いよいよ食べ物がなくなったのだ。かと言って、西阪の願望通り、彼の肉を食べるつもりはない。今はまだ――。  現在のところ、かろうじて、餓死までは時間が残されている。そこで、朱里は再度『狩り』を行うことにした。通常の『狩り』の方ではない。また一から獲物を見付け、身辺調査をしていては、間に合わなくなる。それに、犯人にまた先を越される可能性も高かった。そのため、やるのはナンパを利用しての『狩り』である。  前回は不発に終わったが、今回は上手くいくはずだ。ナンパ待ちで失敗したことなど、ほとんどないのだから。  朱里は狩場を渋谷に定めた。そこには芳醇な若い肉が沢山いる場所だ。好みの肉体を持つ男がナンパしてきたら、その時は、多少強引にでも、事に及ぼうと思う。もしも、犯人の邪魔が入るようであれば、直接対決してやるつもりだ。  朱里は、変装を行う。ただの変装ではなく、男の目を惹きつけることを計算した、とびきりのメイクとコーディネートである。おそらく、『蜘蛛の巣』に容易く男達は引っ掛かるだろう。  朱里は準備の漏れがないかチェックし、目黒のマンションを後にした。  目黒駅に到着した時である。背後から声をかけられた。  「すいません。少しよろしいですか?」  渋い男の声。朱里はナンパだと確信し、期待に胸が膨らんだ。わざわざ渋谷で『蜘蛛の巣』を張らなくても、さっそく獲物が飛び込んできたのだ。  朱里は振り返った。そこには、スーツ姿の体格の良い男がいた。角刈りの頭で、柔道家のように、胸板と肩幅がある。どこか熊を思わせる容貌をしていた。  美味しそう。朱里は思わず喉を鳴らした。だが、男の隣に同じく、スーツ姿の長身痩躯の若い男がいることを確認し、怪訝に思う。  男二人が、揃って一人の女をナンパだろうか。いや、そもそも雰囲気が妙だ。  体格の良い男は、再び声を発する。そこには威圧感があった。  「ちょっとあなたにお話をお聞きしたいのですが。近内朱里さん」  男はなぜか、朱里の名前を知っていた。朱里の心臓が不規則に高鳴る。嫌な予感がした。この男達は……。  熊のような男は、朱里の予想通りの行動を取った。スーツの胸ポケットから、黒い手帳を取り出し、印籠のように朱里へ突きつけると、言った。  「署まで我々にご同行願えますか?」  声をかけてきたのは、二人共目黒警察署に勤務する刑事だった。刑事一課に所属し、現在とある事件を捜査中だという。  熊のように大柄な刑事の方は、名を蓬田宗次朗(こもだ そうじろう)といい、細身の若い刑事は、諸岡慎二(もろおか しんじ)と名乗った。  一体何のための同行なのか訊くと、上野、目黒で起きた『令和の食人事件』の聴取のためだと説明してきた。  あくまで任意という形の聴取であるため、拒否することも可能だった。だが、拒否をすると、後々面倒なことになりそうな気がした。  この刑事達が、こちらを張っていたのは間違いがない。でなければ、このタイミングで声をかけてくるはずがなかった。そして、そうなると、それなりの疑いが朱里にかかっていることの証でもある。  もしもそんな人物が聴取を拒否するならば、この先、ストーカーのように付き纏うことは必至だろう。  朱里は訝しむ。証拠を残さないよう入念に犯行を行っていたのに、なぜ、ここにきて警察が立ち塞がるのか。  一応は、朱里はその事件の犯人ではない。だが、このまま放っておくと、そこから芋づる式に朱里の今までの犯行が露呈する可能性があった。  それだけではなく、下手をするとそれこそ『令和の食人事件』の犯人にもされかねない。あるいは『令和の食人事件』はあくまで隠れ蓑で、もしかしたら朱里のこれまでの犯行を察知し、近付いてきた可能性も否定できなかった。  ここは相手がなぜ、朱里へ容疑をかけたのか、本当に『令和の食人事件』の捜査のために朱里を張っていたのか、そして、こちらの情報をどの程度得ているか、確かめた方が得策だと考えた。  そこで、朱里は任意聴取を了承したのだ。  朱里は、シルバーのクラウンに乗せられた。運転席には諸岡刑事、助手席には蓬田刑事。警察も、若い方が運転するらしい。  シルバーのクラウンは、警視庁へと向かった。この二人の刑事の所轄は、目黒である。そのため事情聴取はてっきり、目黒警察署で行われると思っていた。だが、話を聞いてみると、捜査本部が警視庁に設置されたため、聴取もそこで行われるらしい。二人は、他の捜査官と共に、目黒署から派遣されているのだ。  クラウンは警視庁へ到着し、朱里は本部庁舎にある取調室へと通された。  取調室の中は、想像以上に手狭だった。倉庫の一室を改良したかのような、薄汚さと圧迫感がある。壁にはやたらと『禁煙』と書かれた紙が貼ってあった。こんなところで、煙草を吸う人間がいるのだろうかと疑問に思う。  奥には、灰色のシンプルな事務机と、それを挟むように、パイプ椅子が向かい合わせに置かれてあった。朱里は、奥の方の椅子へと座らされる。  正面に、蓬田刑事が座り、部屋の角にある一人用のデスクに諸岡刑事が座った。  これにより、事情聴取が始まる。  「あー、これはあくまでただの聴取だから、緊張しなくていいよ。別に容疑者ってわけじゃないから」  蓬田刑事は、朱里の足よりも太い腕を振り、宥めるようにして言う。  朱里は頷いた。だが、心の中は警戒心を緩めないよう、自分に言い聞かせる。わざわざ朱里の名前を調べ上げ、部屋を張っていたのだ。限りなく、容疑者に近い存在として認知されていると思った方がいい。無実のはずの『令和の食人事件』の犯人にはされたくないし、これまでの犯行が発覚し、死刑にもなりたくはなかった。  朱里は、天井にドーム型の監視カメラが設置されていることに気が付いていた。それから、部屋の扉の上部には、不自然に輝く小さな鏡が嵌められていることも確認済みだ。  部屋の扉を開ける直前、その部分にカーテンが掛けられていたからわからなかったが、内側から見るとわかる。おそらくマジックミラーだろう。外から、中の様子を窺うことができるはずだ。つまり、この二人の刑事以外にも、こちらの行動を記録し、チェックする人間がいるということである。注意した方がいいだろう。  静まり返った部屋に、蓬田刑事の低い声が響く。  「それじゃあ、まず簡単な質問から」  蓬田刑事は、朱里の名前や年齢、住所などを訊く。これは嘘をつく必要がないので、正直に答えた。  「それで、今回の聴取の理由となった連続殺人事件のことは知っているね?」  「はい。ニュースでやっていますから」  「犯人に心当たりは?」  「ありません」  「被害者二人と面識はある?」  「それも、ありません」  朱里は、諸岡刑事の方へ一瞬だけ視線を向ける。諸岡刑事は、手元に置いた書類に何やら書き込んでいた。聴取の内容を記録しているのだろう。  「じゃあ、二人の住むアパートに行ったことは?」  やはり本当に『令和の食人事件』の容疑者として見られているのだろうか。  「ありません」  朱里が答えると、蓬田刑事は、片方の眉を上げた。  「そうか。それは本当?」  「はい。本当です」  蓬田刑事の刑事の目に、光が宿った気がした。  嫌な感じだが、ここは嘘を貫き通すしかなかった。確かに二人の住居には何度も足を運んでいる。しかし、それに対する絶対的な証拠は出ないはずだ。  この間、西阪と共に二人のアパートへ捜査に赴いているが、その時から朱里を張っていたら、その場で聴取を求めただろう。おそらく、刑事が朱里を張り込んだのはその後のはずだ。  蓬田刑事は、息を吐くと、腕を組んだ。前に由佳のアパートで話を聞いた男と違い、こちらはがっしりとした逞しい腕である。とても美味しそうだ。この状況下でも、そう思ってしまう。  蓬田刑事は、諸岡刑事に声をかけると、一つの茶封筒を受け取った。  蓬田刑事は、その茶封筒の中から、何かを取り出し、朱里の目の前に並べる。  それは複数枚の写真だった。防犯カメラの映像を画像処理したものだろう。やや不鮮明だが、どれも、はっきりと駅構内を歩く変装をしていない朱里の姿が写っている。  「これは君だね」  蓬田刑事は、写真の一枚を朱里の目の前に掲げ、質問する。  「はい。確かに私ですね」  「これは事件前に上野駅で撮られたものだ。写真全て別の日のものとなっている。結構な数が仕事終わりの時刻だ。君の住居は目黒なのに、どうしてこうも頻繁に上野へ通っていたのかな?」  そうきたかと思う。だが、こうなることも想定済みで、朱里は用意していた『仕込み』を使う。  「上野にあるブティックに用があったんです。気に入った洋服がいくつかあるので、何度か通っちゃって」  実際、由佳の家を調べる時は、極力その店に寄るようにしていた。その店にアリバイを聞かれても、証言は取れるだろう。  「それ以外に用は?」  「一応、上野に来たついでに色々寄ったりしてました。どこに寄ったかは、あまり覚えていないですけど……」  蓬田刑事は、そうか、と頷き、そのブティックの名前を訊く。その後で、もう一度質問した。  「じゃああくまで、被害者である舟崎由佳のアパートには行ってないんだね?」  「はい」  朱里は首肯した。この程度の写真では、証拠にすらならない。嘘を貫いても問題ないはずだ。だが、このまま防戦一方では、不利になるばかりである。こちらから責めた方がいいだろう。  朱里は質問する。  「あの、犯人は、被害者の方二人の顔見知りだと聞きましたが……」  蓬田刑事は、それを否定する。  「捜査の結果、その線は薄いことがわかった。犯人は見知らぬ他人だ」  「見知らぬ他人がそんな簡単に、夜、女性の家を訪ねて殺せるんですか?」  蓬田刑事は、肩をすくめる。  「可能かもしれない。相手を油断させ、警戒させない者ならば。例えば、綺麗な女性や、人畜無害そうな人間とか」  朱里はふと思う。それならば、警察官や刑事でも、同じ真似ができるだろう。  「まあ、ただの憶測だが」  蓬田刑事は、薄く笑みを浮かべて言う。  「それじゃあ、私に聴取するのも憶測だけなんですか?」  「そうだな。そう取ってもいい」  蓬田刑事は、あっさりと肯定した。朱里は怪訝に思う。だったら、この刑事は、このしょうもない写真一つで、朱里の聴取に乗り出したということになる。なぜだろう。  「一体どうして、私に聴取を?」  蓬田刑事は、窘めるように、手の平をこちらに向け、抑える動作をする。  「我々はただ、上野駅の防犯カメラに少しでも特徴のある人間が映っていないかどうか調べていただけなんだ。そこで浮かび上がった一人が、君だったわけだ。他にも同じように話を聞いている者は複数いる。さっきも言ったように、別に君を容疑者に認定しているわけじゃない」  朱里は拍子抜けする。その程度の疑惑しか掛かっていなかったのか。実際、当たり前である。決定的な証拠など、全く残していないのだから。  そして聴取は次に、二人目の被害者である柊彩夏の話に移った。  だが、これも似たり寄ったりの内容に終始た。結局、警察側は大した証言を得られないまま、聴取は終わろうとしていた。  この男が言ったように、どうやら朱里はただの参考人程度の扱いだったようだ。ひとまずホッとする。  「あー、まあこれくらいにしようか」  蓬田刑事はそう言うと、諸岡刑事が書いていた書類を取り上げ、これまで証言した内容を確認する。  それが終わると、蓬田刑事は、書類を反折りにし、こちらに差し出す。書類は供述調書といい、証言に嘘、偽りがないかの書名が必要なのだという。  手続き上、必要な措置なのだろうが、少しでも証拠になるものを警察に明け渡したくはなかった。だが、拒否しても不自然だと思い、朱里は了承する。署名程度では、致命傷には至らないはずだ。  朱里が供述調書に署名をした後、蓬田刑事は、世間話をするかのように、話しかけてくる。  「それにしても、近内さん、とても綺麗な方だね。服装もお洒落だし」  「ありがとうございます」  「今日はどこかに行く予定だったの?」  「はい。渋谷に遊びに行こうかなって」  「一人で?」  「はい。街をぶらつくのが好きなので」  「そうかぁ。近内さん、綺麗だからナンパとかされるでしょ」  「そんなことないですよ」  本来今日は、それを狙って、食料を調達するつもりだったのだが、予定が狂ってしまった。ついてないと思う。もう食料がない上、せっかくの機会が台無しだ。かわりにこの刑事の肉を食べさせて欲しいと思う。  蓬田刑事は、パイプ椅子に深く腰掛け、世間話の続きを話すかのように言う。  「そうそう、少しあなたのことを調べたんだけど、近内さん千葉の鴨川出身なんだって?」  「え? ええ」  唐突に自身の出自の話になり、困惑する。ただの参考人に対し、そこまで調べるものだろうか。疑問に思う。  それから蓬田刑事は、驚くべきことを口にした。  「近内朱里さん、あなたは以前に、拒食症を患っているね?」  朱里は息を飲む。忌まわしい記憶が脳裏にフラッシュバックした。そして、すぐに不安がさざ波のように襲ってくる。ここまで調べるということは、ただの参考人に対してはありえない行為だ。朱里は理解する。これが向こうの目的だったのだ。  朱里は動揺を抑えながら、答える。  「確かに拒食症でしたが、もう克服しました」  「どうやって?」  「精神科や両親の協力のお陰で……」  蓬田刑事は、ふーんと頷くと、再度腕を組む。彼の目付きが変化していた。獲物に食らいつく鮫のような鋭い目。先ほども片鱗を見せたが、これが彼の本来の顔なのだろう。  「以前、君が前の会社に勤めていた時、同僚の一人が行方不明になっているね? タイミング的には、君の拒食症が完治したのもその時みたいだけど」  朱里の心臓が、バクバクと大きく鳴り始めた。何なんだろか。この男は。どうしてそこまで。  「関係ありません」  朱里はピシャリと言い切ったつもりだった。だが、若干、上擦ってしまう。この刑事は、それを悟っただろうか。  蓬田刑事は、納得したように頷き、強面の顔に笑みを浮かべる。  「すまない。変な質問をして。君の言う通りだ。同僚の行方不明と拒食症の完治に関係性があるわけがない」  「……」  朱里は無言で返す。朱里は直感した。この刑事は、何かしら確信めいたものを持っている。おそらく、刑事としての勘なのだろうが、必要以上にこちらの情報を渡してはいけない。  朱里の様子を見て、蓬田刑事は、両手を広げ、明るく言った。  「時間を取らせてすまなかった。もう帰っていいよ。目黒駅まで部下が送るからさ」  朱里は押し黙ったまま、パイプ椅子から立ち上がった。ふと視線を感じると、諸岡刑事が、探るような目付きでじっとこちらを見つめていた。  「ああ、最後に一ついいかい?」  蓬田刑事は、あっけらかんとした調子で言う。朱里は嫌になる。手の平に汗が滲み出ていることを自覚していた。  「この聴取の目的である『令和の食人事件』。『食人』って名付けられているけど、それは遺体が食べるためかのように捌かれてあったから、そう呼ばれているだけなんだ。だから犯人が実際に人肉を食べているかどうかは判明していない」  朱里は蓬田刑事の顔を窺う。蓬田刑事は、あくまで、講義を行う教師のように、落ち着いた様子で話していた。  「しかし、それが事実だとしたら極めておぞましい話だ。カニバリズムなんてさ」  そこで、と目の前の刑事は続ける。  「君は、人肉が美味しいと思うかい?」  朱里はごくりと唾を飲み込んだ。人肉の美味しさはよく知っている。しかし、もちろん、この質問に、正直に答えるわけにはいかなかった。  「そんなこと私にわかるわけないじゃないですか」  朱里の言葉に、蓬田刑事は、深く首肯した。  「まあ、そうだね。普通の人間にはわかるわけないか」  蓬田刑事は、肩をすくめると、小さく頭を下げた。  「引き止めてすまなかったね。今度こそ、本当に帰っていいよ」  朱里は、諸岡刑事にうながされ、取調室を後にする。  諸岡刑事は朱里を玄関口までエスコートしてくれたが、車で送ってくれたのは、別の警察官だった。  目黒駅へ向かう車内の中、朱里はぼんやりと霞ヶ関の街並みを眺める。  あの刑事は、間違いなく、朱里に対し、クロだと目星を付けている。しかも無実のはずの上野、目黒で起きた『令和の食人事件』の犯人としてだ。その上、そこから過去の犯罪まで露呈される危険まで浮上してきた。  何てことだと思う。警察の捜査能力を侮っていた。さらに危機的状況へと陥ってしまったわけだ。獲物を奪った犯人に加え、さらにやっかいな敵が現れたのだから。  しかも、その警察は、自分に対する張り込みを続ける可能性があった。つまり、これからナンパを利用した狩りすら封じられたことになる。餓死する可能性が飛躍的に高まったのだ。  これらを解決するには、一刻も早く、犯人が捕まることである。朱里の過去の犯行は一切証拠がないはずだ。蓬田刑事はただ、当たりをつけているだけで、本人が言及したように、証拠を握っているわけではないのだろう。もしも決定的な証拠があれば、今日のような微温的な取調べではなかったはずだ。  そのため、これで犯人が捕まり、『令和の食人事件』が解決すれば、朱里への疑いは晴れることになる。そして、邪魔者はいなくなり、再び『狩り』を再開できるはずだ。  だが、ただ犯人が捕まればいいという話ではない。犯人は朱里のこれまでの犯行を知っている可能性が高い。そのため、犯人が捕まり、自供によっては、引きづられるようにして、朱里の犯行が認知される恐れがあった。証拠がないのだから、そこから朱里が逮捕される危険は低いが、マークが続く可能性はある。それはまずかった。  すなわち、朱里とってベストなのは、ことである。例えば、自宅に被害者の解体した肉を残したまま、自殺体で発見されるとか。  そうなれば、朱里の情報は一切漏れることなく、朱里へのマークは解け、今まで通り自由に動くことが可能になる。  そして、それをするには、やはり誰よりも早く、犯人を朱里が探し出すことが先決あった。  翌日、朱里は千葉にある安房鴨川駅のホームへ降り立っていた。ここから実家までは、車で十分くらいである。  昨夜、警視庁から部屋に戻った時、ちょうど母親の美智代から電話があったのだ。久しぶりの連絡だが、美智代は心配しており、近況を訊いてくる。  朱里は何の変わりもないと嘘をついた。すでに色々と面倒な状況に陥っているが、両親に心配はかけたくなかった。  朱里の返答を聞き、美智代は安心したものの、久しぶりに顔を見たいとの願いで、朱里は実家がある千葉の鴨川へ帰郷することにしたのだ。『令和の食人事件』の犯人を捜すという使命があったが、ここは親孝行しておいた方がいいだろうと思った。  安房鴨川駅の裏にあるロータリーに辿り着いた時、すでに一台の軽トラックが停まっていることに朱里は気がつく。  「お父さん」  車内には、父の義隆(よしたか)が乗っていた。朱里の姿を確認すると、義隆は開けた窓から手を振った。  朱里は助手席側に回り、軽トラックへ乗り込んだ。  「久しぶりだな。朱里。元気にしてたか?」  義隆は、農家らしく日焼けした顔をほころばせ、尋ねてくる。  「うん。元気だよ」  食糧不足のせいで、少し痩せたが、まだはっきと目に見えるようなやつれ方はしてないはずだ。両親に悟られる心配はないだろう。  「そうか」  義隆は、安心したように頷くと、軽トラックを出発させた。  軽トラックは、ロータリーを出て、横渚交差点を通過すると、県道に入った。そこから、鴨川富士の方へ向かう。  駅前は多少、賑わいがあったが、すぐに田園風景が広がっていった。学生の頃、毎日のように通って、目に焼きついている風景。懐かしさと、哀愁が押し寄せる。今もほとんど変わりはない。  取り留めのない話をしながら、朱里は父の姿を窺った。久しぶりに見る父の姿は、以前会った時より、少しだけ老けているような気がした。毎日目にしていれば、その変化には鈍感になっていたのだろうが、随分と間を置いたため、すぐにわかってしまった。親が老いていくのを見るのは、どこか寂しい感じがする。  軽トラックは、やがて大日交差点を右折した。その先にそびえるのは、この辺りで一番大きな山である鴨川富士だった。その麓に、朱里の実家はある。  鴨川富士に近付くにつれ、建物は姿を消し、さらに田畑が多くなる。設置してある猪避けの防護柵が目に付いた。  朱里は父に訊く。  「今もやっぱり猪多いんだ?」  ハンドルを操作しながら、父は頷いた。  「最近特に増えてるよ。近所の人達も困っている」  この辺りは、昔から猪による害獣被害が多かった。そのため、猟友会や農家などによる駆除が頻繁に行われている。  「じゃあ今も猟をしてるんだね」  「ああ。この間も、ちょっと大きめの奴を仕留めたよ」  父は、狩猟免許を持っており、猪の駆除を行うことが可能だった。もっとも、免許とは言っても、猟銃の方ではなく、罠猟の方である。箱罠や、罠などを使い、猪を捕獲するのだ。その後、止めを差し、解体する。  幼い頃から、よく目にした光景だ。とても懐かしい。  やがて、軽トラックは、鴨川富士の麓にある広い一本道へ差し掛かった。そして、そこを登り始める。この道の突き当たりにあるのが、朱里の実家であった。  近愛家の全容が見えてくると、朱里はあることに気がついた。木造二階建ての家の一部が、ブルーシートに覆われているのだ。  父にそのことを尋ねると、部分的にリフォーム中だという。実家自体、義隆の親、つまり朱里の祖父の代から存在しているので、相当年季が入っていた。方々、ガタがきているのも当然といえた。  軽トラックは、実家の敷地へ入る。それから、家と納屋の間にある駐車スペースで停車した。朱里はそこで軽トラックから降りる。  母にも顔を見せるため、家の方へ向かおうした時、背後から声がかかった。  「おかえりなさい。朱里」  振り向くと、小柄な中年女性がそこ立っていた。手に、白菜と人参を持っている。畑へ行っていたのだろう。  「だだいまお母さん」  朱里は明るく返答をする。美智代(みちよ)は、柔和な笑顔を見せた。  「よくきたわね。元気だった?」  「うん」  「これからお昼ご飯を作るけど、あなたも食べるでしょ?」  美智代は、手に持った野菜を掲げる。  「ごめんなさい。ここにくるまで、色々食べたから、お腹空いてないの」  朱里は顔の前で、手を合わせて謝った。本当は極めて空腹なのだが、普通の食事は口にできないので、断るしかない。  一瞬だけ、美智代の表情が曇る。  「ちゃんとご飯食べてるの? もしかして……」  拒食症のことが頭によぎったらしい。美智代は、不安に駆られたように訊く。  「大丈夫だよ。私は健康そのもの! 心配しないで」  朱里は、力こぶを作る仕草をし、元気そうに振舞った。精一杯の演技だが、両親に悟られるわけにはいかなかった。  美智代はなおも不安げだったが、やがて、娘の言葉を信じようと思ったのか、表情を崩した。目尻に皺が寄るのがわかる。母も、以前会った時より、老けているようだ。  「そう。それなら安心ね。じゃあ、私達がご飯を食べた後、お茶にしましょ。色々近況報告聞きたいから」  そう言うと、母は、家へと向かって歩いていく。朱里はホッとする。とりあえず、信じてもらえたようで何よりだ。老いていく両親に必要以上の心配をかけるのは、親不孝でしかないのだから。  朱里は、母の後を追って、家へ入った。本当に、久しぶりの実家である。  居間に笑い声が響き渡る。朱里は両親二人と思い出話に花を咲かせていた。子供の頃、朱里がビニールハウスに落書きをして、お仕置きに納屋に閉じ込められた話や、猪の止めを刺した後、血や内臓が苦手である母が解体を見て卒倒した話など、極々些細な、普通の内容である。  しかし、今の朱里にとっては、新鮮だった。最近は餓死だの人肉食だの、常軌を逸した会話ばかりで、まともな内容の言葉のやりとりをした記憶がなかった。  母が、笑いながら、安心したように言う。  「だけど、朱里が元気でよかったわ」  「うん。あの時とは違うからね」  朱里はお茶を啜り、答えた。あの時とは、もちろん拒食症を患っていた時だ。  そこへ義隆が横槍を入れる。  「そう言えば、例の連続殺人事件。お前の近所でもあったんだろ? 大丈夫なのか?」  「大丈夫だよ。警察がそこら辺うろついているし、そうそう犯人とは遭遇しないよ」  本音で言えば、遭遇したいのだが。  「そうか。まあお前がそう言うなら、そうだろうけど。しかし、身の危険を感じたら、すぐにでも家に帰ってきなさい」  「わかった。そうする」  すでに、餓死という命の危険が迫っていることを、この両親が知ったら、どう思うのだろうか。それだけじゃなく、今しがた父が言及した『令和の食人事件』の容疑者として、警察にマークされていることを知ったら、この二人は、どのような反応をするのだろうか。  おそらく、自殺しかねないほど、二人はショックを受けるだろう。そして、何を置いてでも、娘を守ろうとするはずだ。朱里が拒食症を患っていたあの時のように。だから、この二人には、決して事実を知られるわけにはいかない。  それからしばらくの間、親子三人で談笑を行った。その後で、朱里は夕方まで畑仕事を手伝う。子供の時からの慣習のようなものなので、体が覚えていた。  夕方になり、朱里は二階にある自分の部屋へ向かった。  扉を開け、中へ入る。部屋のレイアウトは、学生の頃と全く変わっていなかった。母が掃除をしているのだろうが、物の位置をほとんど変えないよう心掛けてくれているらしく、まるでここだけ時が止まっているかのようだった。  朱里は、壁際に設置してある勉強机に近付いた。そして、一番下の引き出しを開ける。その引き出しは、他の引き出しよりも、少し大きめの容量があった。  内部にあるのは、学生の時使っていた英語辞典や、参考書など。もちろん、これが目的でこの引き出しを開けたわけではない。  朱里は、開けたままの引き出しに手を突っ込み、奥を探る。目指すは、引き出しよりもさらに下の位置。  この引き出しは、一番下にあるものの、地面に接している『脚』の部分との間に、幅があった。実はそこに、エアポケットのような狭いスペースが存在するのだ。引き出しを手前に出した状態で、手を下部へ入れると、そこに空間があることがわかる。  これは、長年この机を使った者しかわからない構造である。おそらく、両親も知らないことだろう。  朱里は、そこに隠してあった『ある物』を手探りで取り出した。  それは、コルク抜きのような形状をした、ステンレス製の物体である。名前をプッシュダガーナイフといい、刺突に特化した殺傷力の高いナイフだ。T字になった柄の部分を、メリケンサックのように握り込む形で使う。露出した部位が少ないため、刃物自体が目立たず、暗器として利用されることもあるらしい。  これを購入したのは、大学に通っていた頃。拒食症で心身共にやつれ果て、死すら意識した時だった。  気晴らしに秋葉原に出かけた朱里は、一軒のミリタリーショップに寄った。始めからその店が目的だったわけではない。偶然、前を通ったら、『ナイフ入荷』のポップが目に止まり、惹かれるようにして店に入ったのだ。数日前にネットで読んだ『自殺の方法』に影響されていたせいなのかもしれない。  店内には、他にもモデルガンやスタンガンなどの護身用グッズがあったが、朱里はナイフ売り場へ直行した。そして、展示されてあるナイフを見て回った。  そこで目を付けたのが、このナイフである。理由は、殺傷力に特化してあること、すなわち、自殺にも向いていると考えたためであった。  通常、映画や漫画のように、刃物で手首を切っただけでは、人は死なない。手首の奥にある動脈を傷付けなければ、出血はすぐに止まってしまうのだ。それは、お湯に浸けても同じである。  そして、それを成功させるには、切るのではなく、突く行為がもっとも適切であるらしかった。人体は刃物に対し、切には比較的強いが、突には弱い。手首も同じであった。  朱里は、迷うことなくプッシュダガーナイフを購入した。そして、決行の勇気が湧くまで、この秘密のスペースへと保管することにしたのだ。  幸い、その前に、拒食症が改善し、心と体が元に戻ったため、使う機会はなくなってしまった(もっとも、代わりに別の刃物を振るうようになったのは、皮肉としか言えないが)。  もう必要がないものの、朱里は己の人生に降りかかった悲劇を克服した証として、このナイフを所持しておくことにしたのだ。見ていると、少しだけだが、勇気が湧いてくる。  朱里は鞘に覆われたナイフをゆっくりと撫で、鞘から抜いてみる。その後、掲げて電灯に反射させた。ステンレス製の諸刃は、鈍い輝きを放っている。切れ味も、購入した当初と変わらず維持されていることが見て取れた。  それを確認した朱里はそっとナイフを鞘に戻す。そこで、はっとした。階下から、朱里を呼ぶ声がしたからだ。母の声だ。朱里は返事をすると、ナイフを再び机の隠しスペースへ納め、部屋を後にした。    「本当に夕食は食べていかないの?」  陽が沈みかけた頃、朱里は東京へ戻る旨を両親に伝えた。  母は、夕食を一緒に食べる提案をしたが、朱里は断った。今日は腕によりをかけて作るハンバーグらしいが、朱里にとっては、人肉以外の肉は汚物に過ぎないため、共にディナーの席に着くことはできなかった。二人には、申し訳ないと思う。  「ごめんね。またくるから、その時にご馳走になるね」  朱里は、深く謝罪した。  夕食の代わり、というべきか、両親はビニール袋に入れた大量の野菜を持たせてくれた。この状態で目黒まで帰るのは一苦労なのだが、両親の好意が嬉しかった。ちゃんと持って帰ろう。悲しいことに、この野菜も大半が廃棄になってしまうけど。  西日が照らす中、義隆が軽トラックへ野菜と朱里の荷物を積み込む。それが終わると、両親は朱里の正面へと並んだ。  「今日、顔を見られてよかったわ。朱里。きてくれてありがとう」  「うん。私も楽しかった」  朱里は正直に言う。今日は息抜きができた。無理をしてでも、きてよかった思う。この後、目黒へ帰ったら、陰惨な『令和の食人事件』の犯人との闘いが待っているのだから。  朱里は、軽トラックの方へ向かおうとした。その時だった。母が、不意に朱里を抱き締める。  「お母さん?」  朱里は面食らった。一体どうしたのだろう。義隆も、優しげな目でこちらを見つめていた。  美智代の温厚な声が、耳元で囁かれる。  「また痩せちゃって。無理をしても私達にはわかるのよ」  ドクンと、胸の鼓動が波打った。朱里は理解する。両親はとっくに朱里の状態を悟っていたのだ。栄養を摂らず、空腹で痩せ始めていることを。  朱里は口ごもる。上手い言い訳で誤魔化そうと考えたが、結局、何も思い浮かばなかった。  母は、言葉を継ぐ。幼い子供へ、絵本を読み聞かせするような、あくまでも穏やかな声で。  「朱里。私達はあなたの味方よ。今までも、これからも、ずっと。私達が死ぬまで」  母のこちらを抱き締める力が強くなる。  「だから、あなたが追い詰められた時は、私達を頼って。必ずあなたを命懸けで守るから」  母の温もりが暖かかった。朱里は、自然と母を抱き返す。気がつくと、朱里の頬に涙が流れていた。  「うん、わかった。ありがとう。お母さん」  涙を拭い、母に感謝の言葉を伝えた。  朱里は思う。本当の味方は、両親だけかもしれない。最後の最後に自分を助けてくれる存在は、この二人以外いないかもしれない。だから、もしも朱里が自分のカニバリズムについて話したら、この二人はそれを受け入れてくれるだろう。そして、母が言ったように、命を懸けて朱里を助けようとするはずだ。  言ってしまおうか。朱里は逡巡する。だが、唐突に西阪の顔が思い浮かんだ。頼りになるかわからない変態だが、まだ私には味方と言える存在がいる。両親を頼るのは、早過ぎる気がした。  そして何より、やはりこの二人を巻き込みたくなかった。お互いの肉を食い合うような異常な世界なのだ。愛する娘を命懸けで守ろうとしてくれている両親を危険に晒したくはなかった。この二人には、平穏無事な人生を送って欲しい。そう願う。これまで散々辛い想いをさせてきてしまったのだ。この二人は幸せになる権利がある。  だからこそだ。もしも、万一、犯人の魔の手が両親に伸びるようであるならば、その時こそは、逆に自分が命を懸けて二人を守ろうと思う。  遠くの山間に沈みいく朱色の夕日が、親子三人を照らしていた。
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